「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)

 

〜SRI H.W.L.POONJA

崎山綾子翻訳

 

 

 

第6章 真我探求:私は誰か? ☆Part3-h

 

 

(サイト管理者より・・・・画面構成の都合上、章全体を複数ページに分割して掲載します。用語解説は各ページ末に収録)

☆Part1☆Part2☆Part4☆Part5☆Part6

 

第6章は全体が長大なので、小見出しごとに☆Part分割したファイルを更に、a,b,c...と細分割して掲載します。

[a]・[b]・[c]・[d]・[e]・[f]・[g]

 

 

 前ページ(Part3-g)からの続き・・・・

 

 

真我探求についての疑問を取り除く

 

 

 

 

 

Q:目を閉じるとすばらしい快感と美しさを感じます。私は執着すべきでない何かに執着しかかっているのですか?  もっと深く行くべきですか?

 

 

 

 目を閉じると、それぞれの感覚の対象物に対する接触が切断されて平和を盗む多くのものを投げ棄てることができる。これが眠りに入る時、起こることだ。眠っている間、あなたは平和に満ちている。

 

 ある種の平和を与える外側の対象物に対する執着と主観の投影を止めることだ。目覚めの状態、外側の対象物の世界は実は眠りの状態だ。なぜなら真の平和に気づかず対象に気づいているからだ。

 

 目を閉じて、あなたは平和がほしいと決めなさい。そうすると、この平和が時間に全く属さない他の状態にあなたを連れていく。この状態はあなたに十分な喜びを与えるだろう。これがトリヤ、意識の4番目の状態だ。

 

 これは目覚め、眠り、夢の状態を超越したものだ。ここから喜びを得る。概念や、考えや、意図や、執着で満ちた状態を全て拒絶することはすばらしい喜びだ。この状態はいつも「ここ」にある。

 

 この状態では目を閉じているか、開けているかは問題ではない。他の目、内なる目が開くのだ。その時、内なる世界が見えるのだ。目を閉じることは内なる目が開くのを助ける。最初は両方の目が同時に働くことはない。(肉体の目と内なる目)

 

 あなたの真我に目覚めて、喜びを得なさい。努力してそこに到着しようとすると、そこに滞まることはできない。努力を始めたところにまた戻って来るからだ。ただ静かに座ってリラックスしていなさい。どんな思考も起こらないとき、あなたの本質はあなたが言っている喜びだと分かる。

 

 マインドはいつも自分を満足させる対象に執着するが、決してそれに満足しないものだ。だからマインドは持って行かないこと。

 

 あなたは今、「その」中にいるのが私には分かる。私が話してきたように、あなたは落ちて行った。(くすくす笑い)あなたは今わかった。この「今」を手に入れた。今、目を閉じるでもなく、開けるでもなく、ただ見なさい。

 

 

 

 

Q: 真理は私の把握をはるかに超えたところにあるようです。

 

 

 

 真理を把握することはできない。それがあるところのすべてだからだ。この自由への欲望は自由そのものとひとつになる。この欲望が満たされたときには満足したか、しないかを知る人はそこに存在しないし、すべてが瞑想になるのであなたの瞑想はありえない。

 

 あなたの真我の愛だけがそこにある。自由への欲望がおこる以前に、あなたが誕生する以前に存在する「それ」を信頼すべきだ。

 

 

 

 

Q:あなたといると、私のハートはますます愛情深くなっていきますが、時々気づかずに、ロマンティックになったり、感傷的になったり、感情的になったりします。多くの人がハートに瞑想することについて話しています。あなたが教えていることはこのことですか?

 

 

 

 あなたが言っているハートは 肉体のハートだ、心臓だ。しかし、私達がここで言っているのはそのハートについてではない。私達が言っているハートは身体の中にはない。他の言葉がみつからないのでハートと呼んでいるだけだ。

 

 このハートは肉体の内側にも外側にもない。それは唯一、現在にあり、永遠だ。境界はない。このハートに集中しなさい。 しかし、このハートの内には、瞑想する「それ」以外に誰がいるのか?

 

 

     「それ」には限界がない

     思考やマインドよりももっと捕らえがたい。

     このハートは現存としていたるところに存在するが、 

     これについて考察することはできない。

     いたるところに存在するものに誰が瞑想するだろうか?

     「それ」は無条件で限界がない。

 

 

 瞑想は限界そのものだ。あなたが瞑想者になり、ある特定の対象を瞑想したい。それならそれは全て条件づけだ。主体は条件づけられ、対象も条件づけられている。

 

 瞑想のサンスクリット語はDhyana、それが中国に行ってChanとなり、日本ではZenになった。

 

 Dhyanaの意味は主格と対格の関係が存在しない場所という意味だ、これが瞑想だ 本当の瞑想には瞑想者と瞑想する対象は存在しない。だから瞑想を捨てなさい。瞑想する対象と瞑想者という概念がなくなった時、本当の瞑想が起こるかもしれない。

 

 実際にはあなたはいつもこの瞑想の中にいる。これは、あなたの膝が痛くなって2−3時間ごとにストップする瞑想ではない。「一時間後に会社に行かなくてはいけない」「今15分間だけ瞑想しよう」。このようにあなたの瞑想はロープであらゆる所に結びついている。

 

 ただ一秒間、瞑想や瞑想者や他のことについて考えないその時、何かが浮かびあがって来る、何かがそれ自体で現われる。そして「それ」と一つになるのだ。これが真の瞑想だ。これがハートの瞑想に対する私の理解だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

次ページ(Part4)に続く 

 

 

 

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