「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)
〜SRI H.W.L.POONJA
崎山綾子翻訳
第6章 真我探求:私は誰か? ☆Part3-g
(サイト管理者より・・・・画面構成の都合上、章全体を複数ページに分割して掲載します。用語解説は各ページ末に収録)
☆Part1・ ☆Part2・☆Part4・☆Part5・☆Part6
第6章は全体が長大なので、小見出しごとに☆Part分割したファイルを更に、a,b,c...と細分割して掲載します。
前ページ(Part3-f)からの続き・・・・
真我探求についての疑問を取り除く
Q: 私の関わっている心理療法に「私は誰か?」を取り入れることは重要でしょうか? 私の中に人々にメッセージを伝えたいという種が育っています。
耕す人が土地を耕して、種はまかれた。肥料はまかれたが雨が降るまで芽がでない。これがまさにあなたの状況だ。もし雨が降らなければ肥料が種を破壊する。
今あなたは年中雨が降っているところにやって来て芽を出した。雨なしには何も起こらないが、雨季には肥料の必要さえない。どこにでも種をまけば芽を出す。
同じようにあなたのクライアントのマインドに精神的な種をまかねばならない。そしてあなたが雨にならなければならない。
Q: どのようにして雨になるのか分かりません。
雨になるためには雨と雲がどこからやって来るのか思い出しなさい。海から蒸気が起こって雲になる。それらは海からやってくるに違いない。そして山に突き当たって雨となる。
さて、あなたの母親、海を見なさい。ある日、蒸発して雲になる。海を見るということは雨の源泉を見ることだ。今雲になり、北に向かってヒマラヤ山脈に突き当たる。そして雨になる。
非常に簡単だ、難しくはない。源泉に留まりなさい。そうするとひとりでに雨になる。
Q:人が選んだ時に内に入り、マインドを越えて居るのは可能ですか?
内に入ることもなく、外に出ることもなく、選択もない。あなたが、行ったり来たりする選択をするのではない、もし。あなたが選択できないのなら…。
Q:それなら私は終わりです!!
そうだ、選択はない。「私は自由になりたい」でさえ選択ではない。「私はこれを選んで、あれを拒絶する」という全ての選択はマインドからやって来る。
Q:それではいつもそれは贈物ですか?
それは全く本当だ。それはいつも贈物だ。しかし贈物には与える人と受けとる人が必要だ、同じ人ではない。しかし、与える人も受取る人もいないとき、どんな贈物があるかね? しかも、それは贈物だ。
この意味は、それはいつもそこにあるので、贈ることができないということだ。あなたの首にかかっているネックレスをどのようにして、あなた自身に与えることができるのか?
それは腰にかついでいる赤ん坊に気づかずに、赤ん坊を探している母親のようだ。ついに彼女は子供を見つけたと言うが、子供はすでに母親といたのだから、これを「見つけた」と言えるだろうか? これと同じように、あなたの真我を見つけたという現れ方をする。
あなたが探しているものをどこで見つけることができるのか教えてくれる、権威を持った信頼できる人が必要だ。そうすると探求は終わる。このようにしてそれは既にあったということを知る。この知っていることがそれ自身でそれに気づいている気づきだ。
全ての疑いを晴らすことは、絶対に必要なので質問するのはよいことだ、あなたはよくやっている。成功するだろうが、初めに全ての疑いを取り除くことだ。疑いとは「それをどこで探すのか?」「どれ位遠く行かねばならないのか?」
現実には、どこにも行く必要がないし、何も理解する必要はない。
だから「それはここにある」と示してくれる教師を見つけたら、探求は終わりになるだろう。
Q:どのようにして真我の内に完全に留まっていることができますか?
真我は全てのものの住み家だ、そしてあなたはすでに真我の中に住んでいる。いつも真我の中にいる。しかしそれを忘れて、何か修業をしなければならないと考える。
しかし、どんな修業も必要ない。修業によって獲得する真我は本当の真我ではない。真我はどこにでも、いつも存在し、獲得するというものではない。どのようにしてそれから離れることができるのか?
まだ経験したことがない人にこの種の疑いが起こってくる。 「あなたはいつも真我そのものとしてあり続けた」といずれ分かるだろう。あなたは他の場所で忙しく、対象を探し求めているから、これを知ることができないのだ。経験することができないのだ。
真我はいつも今、ここに存在しているので、あなたを真我に連れて行くための修行を探す必要はない。真我を離れてどこに行けるというのか?
あなたは誰か見つけなさい。毎日私達はこの質問をここサットサンガで取り扱っている。あなた自身であなたは誰か見つけなさい。この質問をあなた自身で解決しなさい。
さもないと全てが知的な理解に終わるだろう。これを理解するのに知性もマインドも必要ない。ただ一瞬静かにしているだけでよい。そうすると、あなたは誰か知るだろう。
Q:何かの近くに居るという感じですが、それを手に入れることができません。
何を手に入れたいのだ?
Q:いつもここで起こっていることです。
あなたは決してそれを手に入れることは出来ない。
「それ」は手に入れる対象物ではない。
「それ」を対象化することはできない、それは主体だ。
どんな努力をしても主体を見ることはできない、獲得することもできない、達成することもできない。主体は主人だ。あなたはその主人で何が不足か? 何を見逃しているのか?
あなたが見る人で、見られるものでも見ることでもない。あなたは「見る人」、家の主人、存在の主人、軸、存在の中心、それが究極の真理だ。
あなたはどこにも進んで行かないし、どこにも到着しないのだ。もしこの進行と到着、この意図と概念の全てを取り除いたら、何が見えるかね?
あなたは誰か? 何を感じるかね? 「私は沈黙していなければならない」という意図でさえあなたを沈黙から遠ざける。どこかに滞まるという考えを捨てなさい。
さて、今何を考えているのかね?
Q:時々私はそれを理解できないということを考えています。
時々とはなにか? 二つの時々がある。どちらを採るべきか? 「時々ここ」か「時々あそこ」か?
Q:私が「ここ」にいる時です。
それでは「今ここ」にある時々について話そう、しかし「今ここ」に居る時、それは無時間だ、だから「時々」という問題はない。このまさにこの瞬間には時間がない。それを過去と言えるかね? それを未来と言えるかね? 現在と言えるかね? 未来と過去がない時、現在も又、意味がなく消えてしまう、分かるかね?
「時々」はあなたがどこかで手に入れた観念に属する。それはあなたの経験ではない。この瞬間に飛び込んで経験しなさい。私が瞬間という言葉を使うとき、それは過去、現在、未来に属する瞬間ではないということだ。他にどんな言葉を使ったらよいか私にはわからないがあなたは理解していると信じている。
この「瞬間」は現在にも属さない何かを指差しているのだ。もしあなたが理解するなら「それ」を手に入れる、もし理解しないなら「それ」を見逃す。それがこの「瞬間」について話すことができる全てだ。
今ここであなた自身の内を見なさい。この平和に飛びこんで、この平和そのものから話しなさい。さざ波のない湖の内から話しをしなさい。さざ波は思考だ、さざ波はマインドだ、さざ波のない湖があなたの真我の本質だ。
この真我の本質に飛びこんで、どのように感じるか言ってごらん。何を感じるか言ってごらん? 時間はどこにある? 観念はどこにある? 教えはどこにある?
Q:観念がありません!!
そこがあなたが言っていた「時々とNO時々」がない所だ。時間は全く存在しない。ただそのように滞まりなさい。これがあなたの住み家だ。あなたがいつも住んでいる所だ。これが意識そのもの、知恵そのものだ。
これらの惑星や世界が宙に浮かんでいるところ、それは意識の巨大な容量だ。思考がやつて来ると、いつでもそれは顕現する。 この無の中にこれらの非常に多くの思考が宙に浮かんでいる。
そのままにしておきなさい。あなたには限界がないので何億もの惑星をただそこにあらしめなさい。それらはこの宇宙の片すみにあるだけだ。あなたは創造の創造者、あなたは全て、あなたは総体、あなたは幸福だ。
あなたが今いるようにここにいなさい。これを言葉で説明できるかね?
Q:私の身体はエネルギーそのもののようです。見方が大変違って来ました。
見方は、多様性から一体性へと、部分から総体へと変わる。これがあなただ。あなたは全部で統一体、美しくて、愛情深い。ここで「時々」が消えて、あなたが考えていたあなたという観念は消え去る。それら全てが消えた後に残るものが永遠の愛、平和。ここに創造は不法に入ってこれない。