「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)
〜SRI H.W.L.POONJA
崎山綾子翻訳
第6章 真我探求:私は誰か? ☆Part1
(サイト管理者より・・・・画面構成の都合上、章全体を複数ページに分割して掲載します。用語解説は各ページ末に収録)
☆Part2・ ☆Part3・☆Part4・☆Part5・☆Part6
真我探求:私は誰か?
真我探求はダイヤモンドだ、他に方法はない。
これが傲慢な心を直接攻撃する方法だ。
単に「私は真我、私は肉体ではない」と宣言し
決して往ったり来たりしないもの、
誰が思考を動かしているのかを見つけだしなさい。
この調査は何かを目撃することによってではなく、
「あること」によってなされる。
目撃することは主体と対象を創り出す。
「あること」は内なるサットグルだ、
常に「それ」に瞑想しなさい。
常に遍在する真理に集中して
あなたは「存在・意識・至福」だと完全に気づいていることだ。
この真我探求は「存在」そのものに導く、
だから「私は誰か」と問いなさい。
これが苦しみに導かない唯一の質問だ、
これが肉体−心−傲慢さのロープを切るからだ。
これは心の交戦から心を引き戻して
内なる家の庭にそれを植え付けることだ。
真我探求は真我への愛だ。
この「私−思考」は意識が意識に気づいていることだ。
しかし「私」に気づいているのは何か?
何が「私」に気づいているのか?
「私は誰か?」と尋ねなさい。
基盤の意識はどこにあるのか見つけ出しなさい。
誰が肉体意識を意識しているのか
この顔を通して光り輝いているのは誰か?
死が足早に近づいている、今を有効に使いなさい。
心を動かさないこと、静かにしていなさい。
常に変容する外側に面している窓を閉じなさい。
そして、内なる無変化を見つけなさい。
「私」という観念をぬぐい捨て、
存在・意識・至福の海へ飛び込みなさい。
「私」という思考でさえ活動させないことだ。
非活動的になろうとするエネルギーでさえ活動させないことだ。
この瞑想に常にやむことなく時間を費やしなさい。
この新しい習慣を習得しなさい。
座って、静かにしていなさい。
啓示は「ここ」からやって来るだろう。
最初に「それ」を経験しなさい、そうして初めて理解が伴うだろう。
理解はメニューを読んでいるようなものだが、
経験は食べ物を食べていることだ。
啓示は愚かで傲慢な頭にではなく、至福のハートに入っていかねばならない。
この啓示がやって来たらそれと一体になりなさい。
宇宙の意識として一体になりなさい。
絶対性と同一化し続けることが瞑想だ。
精神を高揚させ、すべての障害を焼き尽くしなさい。
絶対なるものと同一化しなさい。
真理は非常に簡単だ、複雑にしないことだ。
暗闇を見るためにはあなたは光の中にいるに違いない。
ただあなた自身が光だと気づくだけでよい。
この知識の火の中に飛び込みなさい。
観念と習癖の衣服に何がおこるか気にする必要はない。
この火は全てを燃やし尽くすのだから。
真我探求は静寂だ。
静寂とは心を動かさないことだ、一秒間心を鎮めてあなたの顔を見てごらん。
静寂とは達成、考察、意図、観念を全て投げ捨てることだ。
ただ、静かにしていなさい。
動かないこと、動かないこと、動かないこと。
あなたは愛と美そのものだ。
静かにしていなさい、そうすると、あなたがすべての存在の中に存在する真我だと知るだろう。
真我探求は真の瞑想だ、気づきへの集中だ。
この気づきが真理そのものを明らかにする:主体も対象も存在しない。
「アートマンのみ実在する」という決定が瞑想だ。
心が過去と未来に向くのをやめさせ、確固として「今、ここ」に留まらせなさい、そして瞑想しなさい。
瞑想しているのは誰かと瞑想しなさい。
これが「全てが現れてくる源泉から見ている」ということだ。
これが「あなたであるところのものに戻る」ということだ。
瞑想とは努力をしないこと、思考を奮起させないこと。
それは探索するという行為ではない、探索するとそれをなくすだけだ。
瞑想とは、心を活動的にするそのエネルギーに
努力なしに心を向けるということだ。
この瞑想は<真我ー存在―一体>との同一化へと溶け込んでいくことだ。
あなたはいつもこの瞑想の中にいる、
サハジャの状態にいる。
真の瞑想は自由だ、瞑想者が現われてくる源泉に留まっているということだ。
他の瞑想は単なる何かに集中するという形をとったものだ。
真の瞑想は始まることもなければ終わることもない。
事実、瞑想の芸術は常に瞑想していることだ。
到着すべき目的地はなく、なすべきことは何もない。
瞑想とは単に「存在として」くつろいでいることだ。
時間と瞑想は一緒に存在することはできない。
瞑想が時間を破壊するように
時間の観念は瞑想を破壊する。
「私は瞑想しなければならない」という思考でさえ瞑想を騒がす。
投げられた石が静かな湖を騒がすように。
真我探求は特別な視覚だ。
目を通して見るのではなく、真我を通して見るのだ。
真我を見ているのは真我だ。
目を閉じてもあなたの目はどこにあるのかがわかるように
この視覚によってこの視覚はどこにあるのか知ることができる。
これをやりなさい。
どこから目の視覚がやって来るのか見つけなさい。
この貯水池は視力で満ちている。
目の後ろを見なさい。
目の前を見たら対象を見る。
目の後ろを見たら主体、「見ている人」を見るだろう。
それがすべての源泉、愛と美の源泉だ。
真我探求はあなたの人生の一瞬一瞬を通じて続けるべきだ、
自然に呼吸をするように、最後の息が切れるまで。
私のマスターは言われた、
「探求者がいなくなるまで探求しなさい」
マインドの習癖を壊すのは非常に難しい、だから探求を続けなければならない。
長い間あなたは無知であったのだから
真理を知ったときは真理としてしばらく留まりなさい。
他に何が重要だというのか?
あなたは強くなくてはならない。
絶えず心をチェックしなさい。
愚かさに二度と戻らないと決心しなさい。
一度沈黙に入ったら、沈黙として沈黙していなさい。