「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)

 

〜SRI H.W.L.POONJA

崎山綾子翻訳

 

 

 

 

第6章 真我探求:私は誰か? ☆Part6-a

 

 

(サイト管理者より・・・・画面構成の都合上、章全体を複数ページに分割して掲載します。用語解説は各ページ末に収録)

☆Part1☆Part2☆Part3☆Part4☆Part5

 

第6章は全体が長大なので、小見出しごとに☆Part分割したファイルを更に、a,b,c...と細分割して掲載します。

[b]・[c]・[d]

 

 

前ページ(Part5-b)からの続き・・・・

 

 

 

獲得することで失う啓示

 

 

 

 何かを所有したり、獲得したときに

  「失う」という恐れと観念が起こってくる。

  真我だけは失うことはできない。

 

   もし平和を獲得したならマインドは再び戻ってくる。

 来させなさい。

 そしてどこからそれが起こってくるのか、ただ見ていなさい。

 マインドが走るのを許しなさい。

   しかし、それを今に導きなさい。

  過去の墓場に導かないことだ。

  過去に執着することは悪い交際を維持しているようなものだ。

  瞑想するとすべての過去のパターンは消えてゆく。

  そのコツは瞑想したい人を100%警戒していることだ。

  家が人であふれているとき、泥棒は入って来ないのだから。

  期待しないこと、探さないこと。

  そうすると「それ」を見つけることができる。

 

 しかし「現れるもの」を再び見つけるなら、間違ったものを見つけたことになる。

  そして、確実にそれをなくすだろう。

  現われるものは消えるためにのみ現われるのだから。

  現われてくる思考や経験を抑圧しようとしないことだ。

 ただ注意深くありなさい、そしてそれらをやって来させなさい。

  真我探究は蛇が現われるのを奮起させる。

 警戒!警戒!

 

 

 

 

Q:どうして人々は「それ」を失くすのですか?

 

 

 

 それを得ることによってだ。手に入れたものは何であろうとあなたの真我ではない。何かを失くしたのなら、それはあなたの本当の真我ではなかったということだ。それが失くなったということはよいことだ。

 

 真我はあなた自身だ。決して失うことはない。真理はあなたであるところのものだ。失うことのできるすべてのものは真理の邪魔になる。思考や疑い、対象のように消えて行くものはすべて真理を隠してしまう。

 

 人々が「手に入れた」と言う時、彼らが手に入れたものは誤解だ。間もなく、もちろん彼らはそれを失くしたと言うに決まってる 。それを失くすかもしれないと考えている人がそれを理解しているとしたら、どんな理解も誤解にすぎない。

 

 本質は決して失われない。あなた「自身」を失うことはできない。それはただ「在る」ということ、往ったり来たりするものではない。それは何かを達成するとか獲得するとかという問題ではない。

 

 あなたがあるように、あなた「自身」を知ることだ。以前はあなたは誰であるか知らなかった。永遠でないものと一緒にいたかった。「失くす」という考えはマインドからやって来る。

 

 だから、何も達成しないこと。全人生であなたに押しつけられたすべての考えをただ取り除きなさい。ほんの1秒間でこの考えを取り除きなさい。

 

 あなた「自身」を真理にむき出しにしたら、真理はそれ自身であなたに姿を現す。そして、あなたの本質を知ることになる。これが単なる「在ること」だ。

 

 

 

 

Q:真我と接触していると、もっとも美しい空間にいられる。それなのになぜ私はこれから抜けだすことを選んで、新しい映画を上映するための新しい劇場を創るのでしょうか?

     

 

 

 あなたが美しさの中に一人でいようと決めたときは海に波がないときだ。波のない充満性・完全性を楽しんでいる。そして海が遊ぼうと決めたとき、この遊びの考えが波の形態をとって現れる。

 

 あなたが言っている映画はこの波だ。海は「波は海で波が海の上で踊っているにすぎない」ということを知っている。海は波によって困らされることもないし、むしろ喜んで楽しんでいる。

 

 そうすると、あなたの質問は、波のない海と、波のある海との違いは何かということになる。この質問自体が波で、観念で、海ではない。それは波側の観念だ。この分裂についての質問は波にのみ属する。

 

 海は決してこの質問をしないだろう。この観念は海から離れているという波の考えにすぎない。あなたは存在でありながら、存在から離れていると考えているにすぎない。

 

 波としては高さや長さや幅や動きを持っていると考えるが、これらはすべて観念だ。分裂は観念にすぎない。この分裂を終わりにしたい波が海を探し始める。波が海を探している!?

     

 

 

 

Q:しかし、どのようにして海が波になろうと決めることができるのですか?

     

 

 

 それは完璧さだ。海は完璧だ。それが遊ぶと決める、その決定が波だ。これが意識だ。これが意識だ。それがなにを考えようとも、それは意識のままだ。

 

 意識以外には何もありえない。違いと分裂のゲームは、ゲームがなかったのと同じことだ。何の変化もない。波があろうがなかろうが海は海だ。意識は意識だ。形態をとって現れようが、現れまいが、無は無だ。

 

 無の観点あるいは意識の観点、覚醒の観点からすれば、全く何の違いもない。何の変化もない。あなたが「それ」だと知ったなら、違いは消えてしまう。あなたは起こっていることから分離して存在するものではない。

 

「それ」は決して無くなることはない!

 

 形態をとって現れるすべては初めから終わりまであなたの内なる波だ、あなたの真我の内で起こる。あなたの真我から離れてあるのではない。「分裂」という観念にすぎない障害を拒絶しなさい。これやあれでなく総体でありなさい。

 

 あなたが決心したら、それはすぐに起こるだろう。あなたが決心しなくても、すべては同じであなただけが存在する。あなたの質問は「もし私が全体のこれであるなら、なぜ全体のあれがあるのか?」と同じことだ。(笑っている) ただ、質問に触らないことだ!

     

 

 

 

Q:もし「これ」や「それ」を取り除いたら、何もない空間に居ることになります。

     

 

 

 この何もないことを誰が騒がすのかね。この何もないことに入っていくと、何になるのかね?

     

 

 

 

Q:どのようにして海に留まることができますか?

     

 

 

 「どのようにして」と言う概念を使わないことによってだ。「どのようにして」は波にすぎない。

 

 

 

 

Q:「どのようにして」がなくなると海に留まるだけです。

   

 

 

 人々を困らせるのが「どのようにして」だ。そしてあなたが考え出すいかなる答えにもあなたは即座に同一化する。あなたはあなたの考えるものになるのでどんな質問も取り除いたほうが良い。

 

 あなたは自由だと考えるとあなたは自由だ。あなたが苦しんでいると考えるとあなたは苦しむ。これが意識の美しさだ。考えるとそれになる。どんな考えであろうとあなたが考えるようにそれは現われる。しかもそれは「意識」のままだ。

 

 「意識」であるがゆえに外側からどんな材質も得る必要がない。それが「意識」というもので、すべてが「意識」のうちにある。「意識」は完璧で、すべてを含んでいるのでそれが望むものは即座に存在を顕す。そう、あなたが自由を望むなら即座に自由になることができる。

 

 この「自由」という思考は「束縛」という観念を取り除くために在る。自由であるためには「自由」という観念をもてあそぶだけでよい。そうすると二つの観念、自由と束縛が終わりになる。あなたはあなたのあるがままで何も変わらない。

 

 「自由」を使って「私はこの肉体、この心」という観念を取り除きなさい。そのときすべてが踊りだす。これが自由というものだ。自由を味わったその人が踊るのだ。

 

 

 

 

Q:又、私は「それ」を失って6ヶ月たちます。私はどのようにして「それ」を取り戻すのかわかりません。

 

 

 

 しかし、なぜ又なのか? 又それを手に入れるならそれは一時的な何かで、又それを失くしてしまうだろう。お腹が空いたので又食べるというようなものではない。

 

 一滴のネクターを味わったら一生涯、食物はもう必要ない。これが「それ」の一瞥だ。一億分の1秒で十分だ。取り戻したいならそれを掴んでいようと望まないことだ。第一それは掴むことはできないのだから。

 

 それを保持しようと望まないことだ。もう一度それを取り戻したいと望まないことだ。単にそれと一緒にいなさい。それは逃げ出すことができないのだから、逃げ出すと考えないことだ。

 

 それが消え去ることはない。それにハートを開いていたら、消えてしまうのはあなただ。あなたが失われるのだ。蛾が炎に飛んで行くと何が起こるかね。消えてしまう。だから、あなたのハートのこの炎に触りなさい。

 

 

 

 

次ページ(Part6-b)に続く 

 

 

 

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