「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)

 

〜SRI H.W.L.POONJA

崎山綾子翻訳

 

 

 

 

第6章 真我探求:私は誰か? ☆Part6-b

 

 

(サイト管理者より・・・・画面構成の都合上、章全体を複数ページに分割して掲載します。用語解説は各ページ末に収録)

☆Part1☆Part2☆Part3☆Part4☆Part5

 

第6章は全体が長大なので、小見出しごとに☆Part分割したファイルを更に、a,b,c...と細分割して掲載します。

[a]・[c]・[d]

 

 

前ページ(Part6-a)からの続き・・・・

 

 

獲得することで失う啓示

 

 

 

Q:多くの探求者達がラクナウにやって来て、この状態を経験して西洋に帰ると、その経験が落ちてしまうのはなぜですか?

     

 

 

 それは決して起こるはずがない。それは決して起こりえない。自分自身を知った人が、どうして自分自身を忘れることができるのかね。それは不可能だ。それは真実ではない。

 

 海に流れこんだ河は河としての名前と形態に戻ることはできない。それは終わりだ。そのように、マインドを源泉に解き放したら、マインドはもはやマインドではない。それは「それ」そのものだ。マインドになることはできない。それはノーマインドと呼ばれる。これを明確にしなさい。

 

 多くの人が西洋に帰るとそれを失くすと言うが、私はこれを信じない。その人達は「それ」を手に入れなかったのだ。だから、彼らは「それ」を失くしたと考えるのだ。

 

 しかし、あなたの手が空っぽなら損も得もない。何も得なかったのなら何も失うこともない。だから、すべての欲望をマインドから取り除きなさい。一度空になったら、それは再び満たされることはない。

 

 その人達はラクナウで以前には手にしたことがない、何か新しいものを手に入れたと考えている。だから失うことになるのだ。

 何かを獲得するのでも失うのでもない、あなたはすでに自由で悟っているのだと理解することだと私は言っているのだ。

 

 すでに悟っているのなら、モスクワでも、ワシントンでもラクナウでもすでに悟っているのだ。どのようにして何かをどこかで失うことができるのか?

 

  これが私が話していることだ。何かを獲得しようとしないこと。むしろ、今までに得たものをすべて失くすことだ。読んだり聞いたりしたことをすべて後にすることだ。残されたものがあなたの真我として、姿を現すだろう。これを知ったとき、それを失くすことはできない。

 

 どんな獲得も失われる。獲得しなかったものを失くすことはない。ラクナウであなたのポケットが空っぽなら、ニューヨークでも又空っぽだ。だからいつもポケットを空にしておきなさい。空っぽの手の中にすべてがやって来るのだ。いつも何かを掴んでいると受け入れる許容性がない。手を空っぽにしなさい。そうすると再びすべてがやって来る。

 

 だから宇宙の皇帝は空っぽのマインドだ。空っぽのマインドと空っぽの手という意味は思考がないということだ。思考を持たない人が領国の王だ。試してみなさい!

 

 マインドを空にしてあなたは誰か感じなさい。これが平和とも、悟りとも、自由とも呼ばれる。しかし、マインドに何の思考も保たないことだ。

 

 

 

 

Q:大変祝福された至福の状態を経験しましたが、失くしてしまうのではないかという恐れが忍び込んできました。

     

 

 

 この美しさをほんの瞬間見ただけでも、最愛の人はあなたを一人にしない。恐れと緊張を運んで来るのはマインドだ。しかし、心配することはない。「それ」が、あなたを永久に捕まえるだろう。

 

 あなたは「それ」を失くすかもしれないと考えているが、「それ」を失くすことはできない。ほんの一瞬でもこの一瞥を持ったなら、それで終わりだ。

 

 しかし、その一瞥に執着するとそこにあっても「それ」を見ることはできない。

 

 

    真我はいつも現存している、

   至福はいつも現存している。

     それを獲得しようと努力する必要はない。

    「それ」を見ることを妨げている障害をただ取り除くだけでよい。

     障害は一つ、過去に対する執着だ。

 

 

 過去のどんな思考にも執着しないなら、それはすでにそこにある。これが体験と呼ばれるのだ。分かるかね? 「それ」の体験は障害物、妨害、執着がないとき起こるのだ。だからもう一度やりなさい。

     

 

 

 

Q:やってみましたが、又消えてしまいました。

     

 

 

 消えさせなさい。あなたは一瞥した。あなたはそれを憶えている。これでもうまく行く。消えてしまった一瞥をいつも覚えていなさい。もしこの意識が消えてしまった何かを覚えているなら、意識しているなら、この消滅は何なのか?

 

  過去に消え去った何かがマインドの中にいつも現れているということではないのか?  この一瞥が消え去ることは不可能だ。だからこれで十分だ。快楽の園に行って美女に出会って彼女は消え去る。

 

 この消え去った美女のことをマインドは覚え続けている。眠っている時でさえも。この美女はあなたのマインドの中に生きていて彼女はあなたと一緒にいる。一瞥も同じことだ。どんな違いもない。

 

 恐れは得たものを失くす恐れだ。あなたはいつもそれを一緒に持っていたい。

 

 ポケットに$5000持っていると仮定して、森の中を歩いている。恐れがやって来る。しかし、ポケットが空っぽなら何も取られるものがないので恐れはない。 失う可能性があるものを望まないのが一番よい。 なぜなら、それを手に入れるとマインドに恐れを引き起こすからだ。

 

 現れたり消えたりするものの後を追うのは止めなさい。そうすると、永遠の満足と喜びを与えてくれる「それ」を見つけることができる。現われもしないし消えもしないものが永遠で、これは今ここで試練なしで手に入れることができる。

 

 

 

 「それ」としてあることで啓示を敬う

 

 

   宇宙のハートは最微粒子だ。

    肉体やマインドを連れてはそこにいけない。

    それは純粋さの中の最純粋さで

    一つの思考でさえ、それを汚してしまう。

 

   宇宙のハートを真に一瞥することは、

    コップの水を川に注ぎこむようなものだ。

    コップの水を二度と見ることはできない。

   「私」に触れなければこの一瞥が起こるだろう。

 

    一瞥は重要ではない。

   一瞥を経験している人、それは誰か?

    一瞥の後、何がそこにあるのかこれが最も重要だ。

    気づきは去っていくことも、破壊されることもない。

 

   自由になるには何にも依存する必要はない。

     しかもそれは一瞥ではない。

    自由はいつも、永遠にハートの中に存在するのだから

   至福の一瞥を与える多くの手助けをすべて取り除きなさい。

    何にも依存しないこと、ただ静かにしていなさい。

    マインドが過去の何かに執着するのを阻止しなさい。

    未来志向を阻止しなさい。

    身体という姿に執着するのを許さないこと、

   あなた自身やグルの肉体でさえも。

    その時あなたは唯一自由と共に残される。

    これは一瞥ではない。

   これは永久にあなたの真我の中に定住することだ。

 

 

 

  サットサンガと「私は誰か」と探求することが隠れた惰性を掻き混ぜて、浮かび上がらせ流し去ってしまうだろう。その時純粋なマインドがその源泉に休息することができる。

 

 絶えずマインドを真我に送り返しなさい。この瞬間に何が永遠か見つけだしなさい。剃刀の刃の上を二人で歩くことはできない。だから一点に集中していなさい。

 

 信じられないことを信じなければならない。未知に直面しなければならない。既知に後戻りしないこと。あなた自身を複雑にするのはやめなさい。静かにしていなさい。

 

 

   交際をすべて拒絶したのなら、拒絶さえも拒絶しなさい。

    さもないと、屑篭を頭の上に乗せているようなものだ。

  ひとかけらの考えさえ「それ」の純潔さを汚してしまう

  「それ」に向かいなさい。

   この限りない真我探求は、無限の報酬を与える。

   有限の真我探求は、有限の報酬を与える。

 

  「それ」があなたを捕まえるまで真我探求の中で我を忘れなさい。

    真我探求はあなたを名前のないもの、形態のないものに連れていく。

    そしてすべては終わりになる。

    自由の内には真我探求は存在しないからだ。

 

    四面の壁 、 知性−マインド−肉体−感覚、が壊された後に、

   古い門がまだ残っている。

  「私は自由だ」の形態をとって「私」という古い習癖が残っている。

    この門は必要ない。

    死の以前に崩れないなら、肉体が死ぬ時にそれは崩れるだろう。

   両方共、同じ事だ。

 

 

 

 

Q:真我探求をやっていますが、もうこれ以上進めないという時点に到達しました。

     

 

 

 先に進むことができない所が、あなたが居なければならない場所だ。やるべき何かがもっとあると言っているのはマインドにすぎない。このマインドを止めなさい。

 

 ある登山隊の一行が山を登って行って、頂上に着く前に、地図が終わっているのに気づいた。それで、ベースキャンプに最後の地図を得るために人を走らせた。

 

 一行が待っている間に、第2のチームが頂上からキャンプへと山を下りて来た。そして、彼らは何を待っているのかと尋ねた。

 

 「頂上に至る最後の部分の地図を忘れたので、それを得る為に人を走らせて、帰って来るのを待っているのだ」と答えた。

 

 「ばかだね!」と勝利にみちたチームのリーダーは言った。「地図は必要ない。ここが頂上だ。ここが地図の最終点だ。」

 

 これがあなたの場合だ。先に進む為に必要な地図を得るのにマインドをランナーとして送った。しかし、あなたは頂上に居るのだからどこにも行く必要がない。あなたが頂上だ。

 

 今、この頂上を愛し、敬意を表しなさい。マインドが地図を必要とするだけで、あなたではない。

 

 

 

 

Q:ラマナ・マハルシが言っていることをたくさん本で読みましたので、あなたが言っていることを知的によく理解することができます。

     

 

 

 知的な理解は絶対必要だ。しかし、それがあなたに必要なすべてではない。あなたはそれをやるのだ。それになる必要がある。知的な地図は十分でない。

     

 

 

 

Q:しかし私はたいてい静かにしていられます。

 

 

 

 なぜマインドがさまよったり、静けさから出たり戻ったりするのか? やがて出歩くのをやめてマインドは静寂の中に留まるだろう。

  

 平和を探そうとどこかに行く必要はない。平和はあなたの内にある。あなたがその平和だ。対象に向かっていくと決して平和を得ることはない。

  

 

 

 

Q:思考の対象が現われたり消えたりするのを見ることができる場所を知っています。

      

 

 

       あなたが見つめているその人だ、

       あなたが思考の証人だ。

 

       やってくる、通りすぎる、止まる。

        見つめているその人は永遠だ。

 

        マインドは対象に巻き込まれる癖がある。

        静かに見つめていることと、巻き込まれることが

        同時に存在することはできない。

 

 

 この習癖の為にあなたが巻き込まれているのはスクリーンの上のただの映像にすぎないということを忘れてしまう。この忘れっぽさの為に静かな証人であることを忘れて映像そのものに同一化するのだ。あなたはこれらの映像が映しだされ通りすぎるスクリーンだということを忘れている。

 

      

 

     あなたは変わらないスクリーンだ。

         映画の 海の水はあなたを濡らさないし、火はあなたを燃やさない。

         ロマンスは、あなたに影響を与えない。

         内側、外側、あなたが見ているのは

         すべてマインドの投影であることを許しなさい。

 

   

 このようにあなたは触れられない「それ」として滞まらなければならない。

  

         同一化が起こる以前にある「それ」、

         知的な把握が起こる以前に存在する

        「それ」が永遠の存在だ。

 

 

 思考があなたを対象に連れて行こうとするとき、あなたは思考と一緒に付いて行く傾向がある。心に従う・・これはすべての人の習癖だ。

 

 往ったり来たりする思考を避けなさい。思考に従う人も避けなさい。ただ思考を見つめているのではなく、内なる意識から外の対象へと思考に従っている人を見つめなさい。

 

 

       思考に従って行く人も又思考だ。

          思考に従って行く人は思考の中にいる。

          両方(思考と従っていく人)とも思考だということを知ったならあなたは家にいる。

          そうすると、思考が起こってもよい。

          思考に従って行くのもよい。

          あなたは不動で何事も気にかけない存在、「それ」として存在する。

          これが至高の理解だ。

 

 

  これを理解するのは難しい。ただそれをやりなさい。波が海の上で動きまわっているように、思考を起こらせ沈めなさい。海は波が立ったり沈んだりして遊んでいるのを気にしない。海は「波は私だから、波は決して私から離れることができない」と知っている。これが意味深長な理解とよばれるのだ。

 

 

         これが事の終わりだ。

          サンサーラはそこにある。あらせなさい。

          顕現は真我の性質だ。

          真我そのものが静かにしていないですべての形態をとって現われる。

          すべての顕現が真我だ。

          波が海であるようにすべての顕現は「それ」だ。

 

         それ故に何も受けいれることはないし、

          何も拒否することもない。

          静けさを許し、マインドが遊びに行くのを許し、

          マインドそのものが楽しむのを許しなさい。

          違いはあなたは楽しんでいる人ではないということだ。

 

 

 

 

 

次ページ(Part6-c)に続く 

 

 

 

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