「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)
〜SRI H.W.L.POONJA
崎山綾子翻訳
第6章 真我探求:私は誰か? ☆Part3-c
(サイト管理者より・・・・画面構成の都合上、章全体を複数ページに分割して掲載します。用語解説は各ページ末に収録)
☆Part1・ ☆Part2・☆Part4・☆Part5・☆Part6
第6章は全体が長大なので、小見出しごとに☆Part分割したファイルを更に、a,b,c...と細分割して掲載します。
前ページ(Part3-b)からの続き・・・・
真我探求についての疑問を取り除く
Q:私は障害を取り除きたい。真我に降伏したい。私はエゴの為に謙虚ではありません。どうか、あなたの火で私の蝋燭に火を付けて下さい。
あなたはエゴについて話している。全ての人がエゴが好きだが、あなたはそれを失くそうとし始めた。あなたは一生懸命努力した。
しかし、これは、エゴをマッサージしているようなものだ。人が行う全てのことはエゴを大きくするだけだ。しかし、これは、幸福である為のやり方ではない。
幸福というのは、あなたの平和を危険にさらすものから遠ざかっていくということだ。だから、私は毎日みんなに、ただ、どこから思考がやって来るか見つけだしなさいと言っているのだ。
「私がこれを、又は、この人を手に入れたら幸福になるだろう」これはエゴのごまかしだ。この世界では誰もあなたに幸福を与えることはできない。
幸福である為には、静かにしていることだ。どんな関係もあなたに幸福を与えることはできない。愛する人でさえもあなたに幸福を与えることはできない。彼らはあなたの血を吸って生き、血がなくなるとあなたを見ることもない。これが世界のありようだ。
この人生でそれに気づくなら自由を勝ち得るチャンスがある。この為にここにやって来たのだ。ついに、あなたはここにやって来た。サットサンガに参加できる幸運と知性を持った人間としてついにここにやって来た。
あなたがしなければならないことは、エゴがやって来たらその根を断ち切って静かにしていることだと明確に理解することだ。今、それを求めてそれをするのだ。挫けないこと。
何が起こっているかただ見ていること、誰が永遠にあなたのそばにいて逃げ出さないか見分けなさい。あなたの周りの人はみんな逃げ出すだろう。
Q:私がリシケシにいるとき、多くの人からあなたのことを聞きました。それでラクナウにやって来ました。最初のサットサンガで人々がどんな経験をしているのか、知って驚きました。真我探求が思考と感情に同一化するのを止めることができると知ったからです。
そうだ、毎日彼らは彼らの経験について話している。驚くことはない。何か新鮮で新しいものを最初に見た時は経験であるに違いない。結婚式の後の夜は経験ではないかね?
しかし、あなたの顔つき、目つき、話からして、あなたはこの経験をしたことがないのを示している。あなたの顔を見てごらん。
この経験はその人の全存在を、内も外も変えてしまうので声や肉体でさえもその人の経験の状態を示すものだ。いつかあなたも又これを味わうだろう。
あなたの宿題が終わり質問がなくなったとき、この経験が起こる。
Q:思考と感情に同一化するのを止める方法を教えて下さい。
もう一度言おう。真我探求によってだ。全てが止まる。「私は誰か」と真我探求すると全てが止まる。ただ静かにしていなさい。瞑想をやめて、瞑想者を見つけなさい。
Q:静かにしていなさいと言われたとき、すぐにマインドはどのようにしてと尋ねます。
ここではあなたは何もしないのだ。単に静かにして問題があるなら私に尋ねなさい。何もしないこと。何も考えないこと。ほんの一瞬何もしないこと。
考えること全ては、過去に属し、どんな利益も得ることはできない。それは役にたたない。だからマインドを過去に行かせないことだ。マインドは過去を意味する。
もし何かが起こるならそれはこの瞬間に起こるだろう。過去ではない。マインドが過去にさ迷うのをストップさせなさい、そうすると、あなたは静かだと分かる。
全ての人がいつも過去について考えている。だから、いつもトラブルの中にいる。私は過去について考えないようにと助言する。
Q:私のマインドは壁を頭で突き続ける頑固な山羊のようですが、思考と思考の間には平和があります。
二つの思考の間にあるこの空間を見ることがすぐに自由を得る為のもう一つの方法だ。同じ事が呼吸の間にも言える。息を吸って、息を吐く、この呼吸の間には時間がない。これは1分間に16回起こる。全ての思考は、この無の空間からやって来るに違いない。この息の吸入はどこから起こって来るのかな。
Q:どこからともなく起こります。
そうだ、思考の場合も同じことが言える。この思考は無からやって来るに違いない。考える前は、あなたは考えていない。だからどこから思考がやって来るのかその場所に行くとしたら、真我探求(私は誰か?)も同じ所に行き着くということだ。
しかし、それは説明されていない。それは説明されるべきだ。この真我探求はどこからやって来るのか? 無から! 思考の前、真我探求の前、呼吸の前。
「私」という思考は、そのどこにもない。それは「どことも知れないところ」からやって来て、その「どことも知れないところ」があなたで、あなたは思考ではないと私が言ったなら、「私」という思考は消え失せるに違いない。
これが私が何度も言っていることだ。これを尊重しなければならない。あなたの源泉、どこからあなたがやって来たか、これを尊重しなければならない。
そうするとあなたはかって消えたことがないし、いつもここに居たということが、全てがあなたに属するということが分かるだろう。すべてがあなた、あなた自身の真我だ。これをただ理解するだけでよい。修練はいらない。
私はどんな修練も信じない。「私はそれだ」と感じなければならない。これは修練によっては得られない。あなたがあなた自身になるのに修業する必要はない。あなたはすでに「それ」なのだから。
このように、この「それ」には限界がなく、国境はない。この「それ」はいつも存在していて永遠だ。だから「それ」になるのではなく、「それ」であらねばならない。
Q:瞑想者を探し出して「それ」になろうと何年も努力していますが、「それ」を探し出すことができません。
それなら、それを見つけようとしないことだ。それなら、あなたの探求をあきらめなさい。疲れたのなら探求をやめて「長い間探求してきた。いまだに見つけることができないとしたら一体何があるのだろうか?」と尋ねなさい。
さて、助けを求めて誰かを探さないこと、すべてをあきらめなさい。瞑想と探求をあきらめなさい。さて何が残っている?
Q:パパジ、私は完全に理解したわけではありません。しかし、恩寵が差し迫っているのを感じます。
なぜ未来に延期するのかね? それはあなたが静かでないということだ。静かにしていることが最終的な経験だ。これ以上何も必要ない。未来に延期して何かをしようとするならあなたは静かでないということだ。
静寂とは内なる静寂だ。唇ではなくマインドが静かでなければならない。そう、内なる静けさを保つように勤めなさい。思考がやってくると静かにしていることはできないので思考を起こさないこと。
静かにしているのに努力は要らない。努力しないこと、どこからも思考が起こるのを許さないこと。これが静けさと呼ばれる。これに成功したならあなたは終わりだ。これ以上何もすることはない。
Q:マインドが「それ」そのものに向かっていく課程を説明することができますか。
マインドの向きを変えなさい。何が起こるか見てみよう。
マインドが今いる状況から、型にはまって動きが取れない状況からマインドの向きを変えなさい。対象から、対象のないところに向きを変えなさい。対象がないかぎり、マインドはマインドでありえない。「ボール」がない時「バット」には何の意味もない。
マインドの向きを変えなさい。そうすると対象に触れることはできない。その時何が起こるか? マインドの向きを変えて対象から離れたそのときのマインドの状況は何か、説明しなさい。
私はあなたのマインドの向きを変えることはできない。あなた自身でやらなければならない。眠りに入るとき、毎夜、マインドの向きを変えている。あなたのマインドを内に向けると、どんな感じがするかね。あなたが眠るときマインドは内に向けられる。これをどのように説明するかね。
もしマインドを内に向けたなら、あなたの顔つきが変わるものだ。もし何かを説明することができるのなら、マインドはまだ作用していて、向きを変えていないということだ。
マインドの向きを変えたら、ノーマインドだ。説明者なし、説明なし、説明するものは何もない。これがマインドを内に向けた後の状況だ。やりなさい。やりますと言っているだけではだめだ。
真我探求は非常に簡単だ。あなたの好きな所ですることができる。家で、会社で、街中で。ただ、この思考「私は誰か」をいつも持っていて理解しようとしなさい。
「この全てはいったい何なのか?」「どこからこの世界がやって来るのか?」「誰が苦しんでいるのか?」「どのようにして苦しみを取り除くのか?」
「私は誰か?」探求しなさい。どこへ行こうともこれをするのにたいした努力はいらない。いつかサットサンガに出席して、探求は終わりになるだろう。毎日、人々は2−3時間ここにやって来て恩寵を得て、彼らの国へ帰っていく。