「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)
〜SRI H.W.L.POONJA
崎山綾子翻訳
第6章 真我探求:私は誰か? ☆Part3-f
(サイト管理者より・・・・画面構成の都合上、章全体を複数ページに分割して掲載します。用語解説は各ページ末に収録)
☆Part1・ ☆Part2・☆Part4・☆Part5・☆Part6
第6章は全体が長大なので、小見出しごとに☆Part分割したファイルを更に、a,b,c...と細分割して掲載します。
前ページ(Part3-e)からの続き・・・・
真我探求についての疑問を取り除く
Q:どのようにして、観察者を消すことができますか。私は暗闇を見ているようで、全ての明晰さを失くしてしまいます。
暗闇を見るためには光の中にいるに違いない。暗闇の中にいるときは暗闇を見ることはできない。あなたは暗闇を見る人で暗闇は対象だ、だからあなたは光であるに違いない。
光から顔をそらすと、あなたの影、 暗闇だけが見える、光に顔を向けなさい。そうすると影でなく光だけが見えるだろう。影に背を向けて、光に面しなさい。
今、これはあなた次第だ。幻想を理解したならあなたは悟ったことになり、あなたが悟ったと考えるならあなたは幻想の中にいることになる。だから誰が暗闇を見ているか見つけだしなさい。
誰が暗闇を見ているのか? 誰にとって暗闇なのか? 誰の視覚の対象なのか? 今見つけ出しなさい。誰が暗闇を見ているのか?
これを見つける為には、静かにして、努力しないこと、動かないこと。その時、暗闇はない、暗闇という思考でさえかき立てないことだ。
Q:私が真我探求すると、ひどい頭痛がします、どうか助言して下さい。
頭痛がするなら、あなたはこの真我探求と戦っているに違いない。自分は誰か知ることと戦っているに違いない。その時、ストレスがある。 頭痛は努力しようとする結果だ。
正しい真我探求のやり方は、単に「私は誰か?」「この探求はどこからやって来るのか?」と尋ねることだ。これをもっと軽く取りなさい、山を乗り越えようとしているのではないのだから。
ここでは、どこにも行かない、 努力もしない。ただリラックスして何が起こるか見なさい。「私」がどこに住んでいるか見分けなさい。まずマインドを明晰にして、「私」がどこに居るか見つけ出しなさい。
いったんこれが確認されたら、「私」がいるところまで道をたどっていけばよいのだ。そこに行くのにどんな乗り物が必要か見つけだしなさい、車? 飛行機?
「私」に到り着くのにどんな乗り物も必要がないといずれ分かるだろう。乗り物のかわりに、あなたが成すべき事はマインドの動きを止めるだけでよい。「私」を見つける為に、どこにも行く必要がないと分かるだろう。真我探求は、緊張を取り除く、緊張を与えるのではない。
Q:私の注意の一部分は、静寂を見つめているようですが、他の部分は、思考と戦って緊張を起こします。
これはよい練習だ!あなたのダイヤモンドに注意をむけていると、泥棒を遠ざけるのだ! 静かにして、思考に注意する。あなたが覚めていたらどんな思考もやって来ない。注意深く見ているときは思考はやって来ない。これをすると、自然に気づきそのものになる。
Q:私は内なる静寂を見ようとする意図がありましたが、どんな意図も持つべきではないと言うあなたの教えが今わかりました。
緊張なし、意図なし、ただ注意している。内と外の間に戦いなし、リラックスしていなさい。
これを私は軍隊で学んだ、「気をつけ」の姿勢で同時にリラックスして立っている。又、プラナヤマも役に立った。ライフルで的を狙って、私のように、10発撃って10個撃ち落とす為には息を止めなければならないからだ。
Q:静かにしようとしているのですが、リラックスできません。
リラックスしたいという欲望を捨てなさい、何が残っているか言ってごらん。
Q:束縛されているという感じがまだ少し残っています。
束縛されていると知っているならもはや束縛されていない。なぜなら、束縛を知ることによって束縛からあなた自身を切り離して束縛を対象化しているからだ。この解放で束縛されていた「私」が意識に注ぎこむ。 川が海に注ぎこむように。
Q:(彼は理解して、微笑みだして、話すことができない)
何が残っているか言ってごらん? 32本の歯が私に語っている。あなたの顔全体と目が違っている。それは何かね?
Q:エネルギーですか?
エネルギーと知性は同じだ、知性がエネルギーだ。思考だ。識別する為の、マインドで考える為の、感覚で行動する為の、このエネルーがどこからやって来るのか見つけ出して欲しいのだ。感覚の対象でさえエネルギーにすぎない、このエネルギーの泉はどこか?
これはアートマン=真我からやって来る。これが静寂の中で見られるものだ。あなたはこの真我そのものだ。この真我は、未知なるもの、無なるものだ。全ての波はこの無からやって来る。
この公式によって無が知性、マインド、感覚、対象になる。人々が幸福で平和でない唯一の理由は自分がアートマンだと悟らない為だ。一度これを知ったなら海がその波を楽しむように、あなたはこのサンサーラを楽しむことができる。
Q:これを経験したと感じますが、一時的です。静寂はやって来て、去って行きます。
(笑って)これは静寂ではない。あなたがマインドに供給した静寂の概念だ。あなたは何か美しいものに注意を与える、ということはマインドが楽しむ為にこの「美しい」という概念をマインドに供給しているのだ。
花を見るとそれを美しいと呼ぶ。山羊は、その同じ花を食物と呼び、あなたの目の前でそれを食べてしまう。マインドに供給されるものは人によって違う。違いがあるものは「それ」ではない。ダイヤモンドは宝石商にとっては貴重だが、化学者にとっては凝縮されたカーボンにしかすぎない。
あなたは与えられるものを選び取る。選択があるところに永遠の休息はない。永遠の休息と平和には特徴は何もない。それはいつもすでにここにあるので、選ぶことはできない。
本当の平和を見つけることができないなら、
それを探そうとしないことだ。
探求を止めた時、何が残っている?
Q:これは非常に簡単に思えます。
簡単だ。あなたがそれを複雑にしているのだ。それは簡単だ。
努力しないで静かにしていなさい。
そうすると表面の騒々しい対話は止まる。
その時、基盤が上に浮かび上がって来る。
それは簡単だ、これに従いなさい。
それが見えるかね?
Q:何も見えません。
そうだ、あなたは「何もないそれ」だ。あなたはその「見ている人」即ち意識であって見られるべき対象ではない。あなたは証人。活動を見ている証人だ。
Q:思考の源泉を見つけようと大変努力していますが、マインドが強く抵抗して手に負えません。
努力するのではない。それにマインドと思考の間には何の違いもない。マインドなしに思考はありえないし、思考なしにマインドはありえない、あなたに起こっていることは、マインドが生き延びようとしている証拠だ。
魚が死にかかっている時は、もっと活動的になる。
そのようにマインドの最後の瞬間も
水から飛び出してもがいている魚のようにもっと活動的になる。
この魚は長期間あなたを困らせてきたのだから、今、それをご馳走にしなさい。
あなたが出来ることは考えないこと、努力しないことだ。
考えることは存在しない過去にあなたを連れて行く。だから、考えないことが、平和でいる唯一の方法だ。夜、眠りの状態の中にいる時、あなたは幸福で平和に満ちている。
しかし目覚めの状態の中では、マインドが存在するので、あなたは考えて結局は苦しむ事になる。深い眠りの中では、幸福でこの幸せは一体何かでさえ知らない。あなたは、理由なしに「幸せだ」。そして、 眠っている間あなたは幸せであったと知っているはずだ。
なぜなら、あなたが目覚めて、友達がよく眠れたかどうか尋ねると「私はとてもよく眠れた。夢も見なかった」と答えるだろう。だからあなたは幸せであったが、この幸せがどこからやって来るのか知らない。
思考がない時、ただ存在している時が幸福だ。
深い眠りの中で体験する幸福が、
未知の源泉からやって来る幸福が、
あなたの真の本質だ。
しかし、あなたが考えると苦しむことになる。
だから日中は眠って夜中は静かにしていなさい。
この意味は単に「考えない」ということだ。
ほとんどの人が彼らの真の本質については眠っていて、彼らの欲望を満たすのに必要な活動を実行する為に世界に対して目覚めているということだ。
少数の人が自分自身に目覚めていて、世界には目を閉じて眠っている。欲望を活動によって実現させたい人々は活動して実現させなさい。
しかし、あなたは眠りなさい。「私はそれだ」が目覚めていることだ。ほとんどの人が「それ」に眠っている。とても簡単だ。分かるかね?
Q:私はマインドだと考えないで「私はそれだ」と考えることですね。
考えるなと言っただろう。その時のあなたの経験は何か? 1/2秒だけ考えないこと。今やりなさい!!どこにも行かない、そうすると平和になる、試みようとしないことだ。
この試みることは、マインドがマインドを騒がせるだけだ。平和はすでに存在するのだから、どんな試みも必要ない。平和を見つけようとする試みは、静かな湖に石を投げ入れるようなものだ。
平和はすでにここにある、外に走って行く事によって、それを騒がせているだけだ。平和を得ようと努力しないで、さて何を感じるかね? どんな試みもしないときは、マインドは働かない。
しかし、試みようとしたら、あなたを騒がせることになるマインドがやって来る。どんな試みも捨てなさい。
Q:無努力に向って行こうとすると…
無努力に向って行くというのはどういう意味だ? この動きは何か? 動かないこと!!
Q :マインドが静かになる過程があるのですか?
過程はない。マインドを騒がせるには過程が必要だが静かにしていることに過程は必要ない。サットサンガにいなさい、静かにしていなさい。常に真我を愛しなさい。努力や試みで勝ち得るというものではない。ただ静かにしていなさい。思考がやってきたらどこからやって来るのか見つけ出しなさい。
Q :あなたの時間を無駄にして申し訳ありませんが、真我探求という方法に関して明確にしたいのです。
あなたは私が言ったことを繰り返し言っているだけで実行していないのだ。もし私があなたに「レストランに行って昼食を食べなさい。」と言うと、あなたは「レストランに行って昼食を食べなさい」と言う。これがいったいなんの役に立つ?これがあなたがしたことだ。
私は私が言ったことを復唱するようにと言っていない。私は静かにしていなさいと言ったのだ。しかしあなたはまだ話をして多くのことを書いてよこす。あなたの頭に巨岩をかついでいるように真我探求の概念をかついでいるだけだ。
Q :でも何も起こってはいないのです。
繰り返して言っているだけで何が起こると言うのか。私はあなたに静かにしているようにと言ったが、静かにしている代わりに「静かにしているようにと言った。」と繰り返し言っているだけだ。
何か言いたいのなら静かにした結果を話すべきだ。マインド、エゴ、肉体を手放さないでただ話しているだけだ。思考が起こったならそれらに無関心でいなさいと私は言っているのだ。
努力なしに静かにしていなさい。私が言ったことを繰り返さないで経験しなさい。
Q:真我探求によって全体と一つになるのと、自発的な恩寵で全体と一つになるのと違いは何ですか。
真我探求はマインドを使う、努力もいるが、自発的な聖なる恩寵は努力なし、マインドなしだ。真我探求はマインドによって導かれ、時間の中にある。
恩寵には時間やマインドによる限界はない。努力で又は努力なしで何かをするという必要がない。それはひとりでに起こる。恩寵は非常に強い力をもち、説明することができないものだ。それはいつもそこにあるのにあなたはそれを受け入れないだけだ。
恩寵とはサットサンガにやって来ることだ。あなたは飛行機や汽車や車でここにやって来たと言うが、あなたは恩寵のみでここにやって来たのだと私は言おう。これが違いだ。恩寵なしで誰もサットサンガにやって来ることはできない。