「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)

 

〜SRI H.W.L.POONJA

崎山綾子翻訳

 

 

 

第6章 真我探求:私は誰か? ☆Part3-e

 

 

(サイト管理者より・・・・画面構成の都合上、章全体を複数ページに分割して掲載します。用語解説は各ページ末に収録)

☆Part1☆Part2☆Part4☆Part5☆Part6

 

第6章は全体が長大なので、小見出しごとに☆Part分割したファイルを更に、a,b,c...と細分割して掲載します。

[a]・[b]・[c]・[d]・[f]・[g]・[h]

 

 

 前ページ(Part3-d)からの続き・・・・

 

 

真我探求についての疑問を取り除く

 

 

 

 

Q:私は幸福に踊り続けていたいのですが、マインドとハートが戦うのを避けることができません。

 

 

 

 この戦いは不可能だ。戦いが起こるのはマインドがあるときだ。ハートがそこにあるとき、マインドは存在しないので戦いはない。あなた自身の真我と関係をもたないとき、戦いが起こる。その時、思考の軍隊の指揮官はマインドだ。ハートをもう一度見てごらん。

 

 

 

 

Q:ハートを見ようとするといとも簡単に感覚機能に取り付かれて捕まってしまいます。ハートだけを見る為に完全にマインドの働きを止めることができません。

 

 

 

 感覚の役目とは、五感の一つを通じて、対象を観察するということだ。感覚を通じて、対象を見るとき、誰が感覚に気づいているのか?  これをやるべきだった。誰が感覚に気づいているのか?  それを知性と呼んでもよい。知性は感覚の役目を知っている。誰が知性に気づいているのか?

 

 マインドは決定力のある知性に気づいている。そうして、感覚、そうして対象がやって来る。誰がマインドに気づいているのか?  それを「私」と呼んでもよい。

 

  「私」がマインドに気づいている。マインドは知性に気づいている。知性は感覚に気づいている。感覚は対象に気づいている。誰が「私」に気づいているのか?

 

 今、あなたは思考のない所へ、沈黙へと、平和へと、源泉へと、戻っていく。

 

 これが全ての働きをとめる方法だ。どこからエネルギーがやって来るのか見つけなさい。いつも平和であるものは何か、決して騒がされないものは何か見つけ出しなさい。

 

 あなたが気づいているということを、どうして知っているのかね?

「私」が気づいているとどうして知っているのかね? 「私」という思考よりももっと深いところに行かねばならない。

 

「私」よりも以前にあるものは何か?  あなたが「私」だと誰が決めているのか?

 

 あなたは5ステップ感覚より後にいる。そこが平和の源泉だ。あなたのホーム、自由とも、意識とも言われている。 もう一歩後ろに、意識以前に下がることもできる。これが思考を止める方法だ。

 

 あなたの源泉に向かって行きなさい。どこに行くのか、場所はどこか、見つけ出しなさい。これがあなたを静かにさせる。感覚、マインド、知性、「私」を越えてあるものは何か見つけ出しなさい。「私」を越えたものが意識だ。

 

 

 

 

Q:マインドを超えてこの意識、ハートを見つけるために、私自身にいつも「私は誰か」と尋ねています。

 

 

 

 「いつも」とはどういう意味だ? 毎日食べるようなものではない。この質問は一度だけするべきもので、そして、そのとき答えを見つけるのだ。

 

 

 

 

Q:私を騒がせるものにもっと注意深くあらねばならないと分かっているのですが、この注意深さはマインドのトリックではないのですか?

 

 

 

 あなたに必要なこの注意深さはマインドのトリックではない。マインドのトリックはあなたが注意深くしていないときだ。そのときマインドがトリックを仕掛ける。注意深くしているときはトリックを仕掛けるマインドが存在しない。

 

 今、あなたは私の前に座っている。この今の瞬間、注意深くしていなければならない。過去を見ないこと。

 

 

     現在の状況に注意深くありなさい。

     幸福を得るにはこれで十分だ。

     この瞬間だけ注意深くしていなさい。

     状況が過ぎ去れば、それに執着しないこと。

     過ぎ去った状況に執着することがすべての人の問題だ。

     これが苦しみと悲惨さの原因だ。

 

     起こったことは元に戻すことはできない。

     だからそれに執着しないことは理に適っている。

     単に過去の状況に執着しないこと。

 

 

 あなたに英知があるなら過ぎ去った過去の出来事に執着するのは無駄なことだと理解するだろう。とにかくこのことを理解しなければならない。この理解は自然に与えられた状況を楽しみながら平和で美しい人生を送るのに十分だ。

 

 障害や思考は平和な家庭に住むねずみのようなものだから、あなたは猫のようにあるべきだ。あなたが猫であることを忘れるとねずみがやってくる。猫がねずみに注意深くしているようにあなたの思考に注意深くありなさい。

 

 思考に警戒してそれがどこからやってくるか見てみなさい。さて、今どんな思考があるのかいいなさい。

 

 

 

 

Q:(質問者は何かを理解したように笑っている。)

 

 

 これがねずみを食べた後の猫のスマイルだ。思考がないときすべてが消え去る、そのとき笑うことができる。これが起こるのは「今」で過去ではない。あなたの仕事をしなさい

 

 警戒して注意深くしていて、あなたを騒がせる思考、どんな思考がやって来るか言いなさい。このように注意深くして、あなたの前にやってくるねずみに飛びかかりなさい。

 

 ただ注意深くしていて、何もしないことだ。

    

 

 

 

Q:あなたは、悟りはフィンガースナップの内に起こると言っていますが、私はここにほんのしばらくいるだけですが、どのようにこれが起こるのですか。

 

 

 

 それは無時間の中で起こる。あなたは「しばらくの間」というがそれは時間の中にある。あなたは時間を計っている。だから、それは一億年かけて指を鳴らしてもうまくいかないだろう。フィンガースナップには時間がない、そして、これが悟りが意味していることだ。あなたのマインドは時間でいっぱいだ。

 

 

 

 

Q:真我探求を通して私は平和と幸福を経験しましたが、未知への恐怖がやって来てそれを疑ってしまいました。

 

 

 

 どのくらいこの平和は続いたのかね?

 

 

 

 

Q:ほんの数分間です。そして思考がやって来ました。

 

 

 

 なぜこの幸福を諦めたのかね。又、何の為に諦めたのかね。幸福から去るという決定はよいものではない。平和の中に定住しなさい。何億年もあなたは心を乱され続けて来た。

 

 一度平和を見つけたのなら、なぜこの混乱の中に戻って行くのかね。これを理解しなさい。何があなたに平和を与え、何があなたを動揺させるのか見分けなさい。そして良いほうに従いなさい。

 

 

 

 

Q:私に平和を与えてくれる「見ている人」を見つけ出すことができません。

 

 

 

 「見ている人」を見つけ出すことができないというのなら、それは良い経験だ。あなたは眼鏡を通して見るが眼鏡は見ることができない。眼鏡の後にあるものを見なさい。目の後にあるものを見なさい。

 

 誰が見る人に見ることができるようにさせているのか?「見ている人」がもはやそこにいないので死んだ人の目は見ることができない。もう一度「見ている人」を見ようとしてごらん。

 

 

 

 

Q:「誰が考えているのか」と真我探求すると思考やセンセーションがもっとやって来ます。どのようにして思考のおしゃべりを静めることができますか。どのようにして私は溶けてしまうことができますか? 小さな思考の切れ目は、私の情熱を解き放してはくれません。

 

 

 

 それは本当ではない。切れ目はあなたを解放する!解放しないといつ言うのか?  切れ目の間に言うのか、思考と思考の間の空間に言うのか、空間の後でいうのか?

 

 

 

 

Q:空間の後で。

 

 

 

 未来について考えるのは切れ目の後だ。思考と思考の間に過去が、未来が、情熱が見えるのか?

 

 

 

 

Q:何にも見えません。

 

 

 

 これが私達が話していることだ。

 

 

 

 

Q:どのようにしてこの空間を大きくすることができますか?

 

 

 空間の全ては、この空間からやって来るのだから、空間を無限に大きくすることができる。この空間にいながら「どのようにしてこの空間をより大きくすることができるのか?」と問ねることによってもっと大きくすることができる。

 

 思考と思考の間の空間にいて、もしこの質問をすることができるなら真我が正しい答えを与えてくれるだろう。今、尋ねなさい!! (思考と思考の間に居るということは無思考を意味する。)

 

 

 

 

Q:(彼は沈黙の中に完全に吸収されている)

 

 

 彼は今、楽しんでいる。彼は甘味をかみしめている。彼は彼の最愛の人と非常に近いところにいる。彼女の口びるから1インチ離れているだけだ。彼は若者だから私はこのような喩えを使わねばならない。(くすくす笑い)。ウパニシャドからの古典的な喩えはこのような若い男性にはうまく働かない。

 

 

  飛び込んで全体と一つになりなさい。

  そしてこれさえも終わりになるだろう。

  私はこの同じ甘味をまだ楽しんでいる

  (彼の喉が愛でつまる)

  それは満ち溢れて「ここ」にある。

  それはこのように簡単だが誰もそれを見つめようとしない。

  ただそれを見つめて、近くに行きなさい。

  近くに行きなさい、未来も過去もない、

  欲望もない、存在もない、無存在もない、創造もない、

  そして「それ」が最後にある。

 

 

 大変すばらしい。このように若い青年が理解したのは、大変喜しいことだ。

 

 

 

 

 

 

次ページ(Part3-f)に続く 

 

 

 

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