「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)

 

〜SRI H.W.L.POONJA

崎山綾子翻訳

 

 

 

第6章 真我探求:私は誰か? ☆Part3-d

 

(サイト管理者より・・・・画面構成の都合上、章全体を複数ページに分割して掲載します。用語解説は各ページ末に収録)

☆Part1☆Part2☆Part4☆Part5☆Part6

 

第6章は全体が長大なので、小見出しごとに☆Part分割したファイルを更に、a,b,c...と細分割して掲載します。

[a]・[b]・[c]・[e]・[f]・[g]・[h]

 

 

 前ページ(Part3-c)からの続き・・・・

 

 

真我探求についての疑問を取り除く

 

 

 

Q:「私は誰か」と言うこの質問をすると、静かにしていることができません。疑いが起こってきます。でも心の平安を望んでいます。

 

 

 あなたが静かでないということは、この質問が正しくなされなかったということだ。マインドそのものにこの質問をしなければならない。この思考(私は誰か)の源にこの質問をしなさい。

 

 「私は誰か」という質問はどこからやってくるのかまず理解しなさい。壁から? 本から? この「誰」はどこからやってくるのか? この質問をこの「誰」に尋ねなさい。

 

 静かにできないと話すこと自体が静寂からあなたを連れ戻す。探求はあなたを家に連れ戻すことだ。外に連れ戻すべきでない。

 

 さて「誰」がどこからやって来るのか尋ねなさい。顔を後ろに向けなさい。人々のマインドは前向きに働いているので問題がおこる。逆方向に働かねばならない。逆戻りして「誰」がどこからやってくるか見つけなさい。

 

 

 

 

Q:源泉を見つけることができません。

 

 

 

  「誰」の以前に何がある? 何もすることはない。(パパジはテーブルの上にある水の入ったカップを持ち上げて)このカップはどこからやってくるのか? このカップはテーブルからやってくる。このように単に見つけ出しなさい。そう、もう一度、この質問はどこからやって来るのか?

 

 

 

 

Q:それを見つけることができません。

 

 

 

 それを見つけることができないこの「私」は何か?

 

 

 

 

Q:私のマインド。

 

 

 

 マインドと「私」は同じものだ。マインドの以前に何がある? 「私」が起こってくるとき、それはどこからか起こってくるに違いない。どこから起こってくるのかね?

 

 

 

 

Q:わかりません。

 

 

 

 対象を捜しだすには見る人が必要だが対象には触れてもらいたくはない。後ろを向いて欲しいのだ。「私」が起こってくる源をただ見なさい。あなた方は対象を見ることに慣れてしまったが、私たちが話している「これ」は対象ではないので対象化することはできない。

 

 対象ではない「それ」にマインドを逆戻りさせなさい。対象は現われて消え去る。あなたの肉体は対象で、「それ」は対象ではない。

 

 

 

 

Q:それを感じることができません

 

 

 

 「それ」は「私」以前にあるので、もちろん「私」はそれを知覚することはできない。だからこの「私」には触れないこと。「私」はマインド、思考だ。

 

 それに触れないこと。「私」に触れないで答えて欲しい。

 

 

 

 

Q:私にはできません。

 

 

 

 「私」に触れるなと言っただろ!!

 

 

 

 

Q:この真我探求をいつもし続けるのですか

 

 

 

 真我探求をいつも続けてする必要はない。それをやる必要があるのは、一度だけだ。繰り返す必要はない。

 

 「私は誰か」見つけ出すだけでよい。そして、その答えは「今」見つかるだろう。尋ねなさい!「私は誰か」耳を傾けて聞きなさい!それについて考えないこと!ただ一度だけ尋ねなさい。それについて考えないこと、答えを見つけようと努力しないこと。私が言っていることが分かるかね?

 

 どんな思考もマインドの中に保たないこと。真我探求でさえも保たないこと。真我探求も又思考だ。そして、努力をしないこと。この真我探求を維持したいというのは傲慢さだ。一度だけ尋ねなさい、そうすると答えはそれ自身で現われる。あなたは命令することも、要求することもできない。

 

 それが、自然と現われるのを時間をかけて待ちなさい。それは対象でもないし、主体でもない。どんな対象もマインドの中に保たないこと。なぜこれが起こって来るのを、黙示を、この真実を強制するのか?  それにあなたの世話をさせなさい。ただこの真理に降伏して、静かにしていなさい。

 

 静かにしてそれが現われるのを待ちなさい。あなたが静かでないとその黙示は起こらない。それは自然と現われる。それは見せ物ではない。

 

 

 

 

Q:それは存在のようです。

 

 

 何であろうとも。「存在するもの」は黙示だ。この「存在するもの」に無理やり何かをさせることはできない。静かにしていると,この「存在するもの」がそれ自身で現れる。

 

 その名は「存在するもの」だ。「存在していた」でもなく、「存在するだろう」でもなく、いつも「存在している」。

 

 

 

 

Q:あなたが言っていることをするには努力が必要だと思いますが…。

 

 

 

 何かが落ちるのにどんな努力が必要かね?  頭にやって来る対象をただ振るい落とすだけだ!!

 

 

 暑い夏の盛りに、ある男が頭の上に100kgの岩を乗せて運んでいた。彼はある人の所にいって助けを求めた。その人が言うには「10kgの鉄を持っていきなさい、鉄は岩より値打ちがある。」そう、今110kg。

 

 他の人は銅を与えた。「それは鉄より値打ちがある」しかし、今度は120kgが頭の上にある。このように、あなたがどこかに行く度に、彼らはあなたの頭に、あなたのマインドに、重荷を果せる。

 

 頭の上にどんな重荷も載せない教師は誰か?  彼らは、「この本を読見なさい」「この練習をしなさい」と、あなたのマインドに重荷を加える。重荷とは、思考、練習、ビパサナ、ウパサナ・・これらを与える教師を受け入れないことだ。教師としないことだ。

 

 本当の教師はどんな重荷も果せない。説教師だけが重荷を果す。あなたは以前に説教師といたに違いない。

 

 ただ静かにしていなさい。生まれて来る前、あなたは靜かであった。死んだ後もあなたは静かになる。そう、なぜ今静かにできないのかね。本当の休息は静かにしていることだ。

 

 苦しみがあると考えるとき、リラックスすることはできない。リラックスして幸福であるときは、あなたは何も考えていない。あなたの幸福は欲望の対象物を手に入れることからやって来るのではない。

 

 幸福は対象への欲望がなくなったときにやって来るのだ。欲望がなくなると、思考がなくなり、幸福がある。

 

 ほとんどの人は、思考でさえ気がつかない。そして、思考の流れに押し流されてしまう。警戒していなさい。いつでも思考がやって来るときはそれを見つめなさい。そうすると、思考は消えていく。

 

 考えること無しに人生の日課を終えていくとき、唯一あなたはそれを本当に楽しんでいるのだ。来るものは来させなさい、行くものは行かせなさい。あなたはただ見ているだけだ。

 

 

   瞑想とはマインドが思考を掴まえず、自由な状態の事だ。

    思考を往来させて後を追いかけていかないことだ。

   街を歩いている誰かに顔を向けて見たらあなたは見失ったことになる。

   

   ただ行かせるのがよい。

   これが人生の幸福への道だ。

   プラットホームに汽車は行ったり来たりするが、

   あなたの目的地に行く汽車に乗りなさい。

   乗りつぎの待合室で友達を作らないこと。

   彼らはあなたが行く所には行かないのだから心が乱されるだけだ。

   この世界は人々の乗りつぎ待合所だ。

   マインドは思考の乗りつぎ場所で永遠のホームではない。

   だから、行ってしまう人々と友達にならないことだ。

   あなたと同じフライトで旅する人と友達になりなさい。

   「それ」と友達になりなさい。

 

 

 

 

 

 

 

次ページ(Part3-e)に続く 

 

 

 

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