「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)

 

〜SRI H.W.L.POONJA

崎山綾子翻訳

 

 

 

第6章 真我探求:私は誰か? ☆Part2-c

 

 

(サイト管理者より・・・・画面構成の都合上、章全体を複数ページに分割して掲載します。用語解説は各ページ末に収録)

☆Part1☆Part3☆Part4☆Part5☆Part6

 

第6章は全体が長大なので、小見出しごとに☆Part分割したファイルを更に、a,b,c...と細分割して掲載します。

[a]・[b]・[d]・[e]

 

 

 前ページ(Part2-b)からの続き・・・・

 

グルによって導かれた真我探求

 

 

Q:*1Atma  Vicaraに私を案内してくれますか。

 

 

 Atma  Vicaraの言葉の意味は、「あなた自身のatmanについていつもトータルに考えている」ということだ。

このVichar(真我探求)を導いている内なるatmanをトータルに考えていなさい。

 

 Vicaraのことについては考えないで、どこからVicaraが起こって来るのかそれを考えなさい。どこからVicaraが起こって来るのか? そこに何があるのか? 誰がこの質問をしているのか?

 

 

 

Q:エゴが質問しているのです。

 

 

 そうだ。このVicaraはエゴのみだ。何かしなければならない、何かを得なければならないというのはエゴだけだ。しかし、このエゴはどこからやって来るのかな。

 

 

 

Q:真我から。

 

 

 それでは、あなたはエゴか真我か?

 

 

 

Q:真我です。

 

 

 そう、真我から。海から波が起こり落ちていく。波は海、真我以外の何ものでもない。もしあなたが真我なら何であろうと起こるものは起こらせなさい。気にしないことだ。関心を示さないことだ。

 

「私は真我(Aham Atman)」それが全てだ。真我には姿がない。主体でも対象でもない。すべてを超越している、すでに存在している、だからそれになるのではない。真我探求、方法、マントラは必要ない。なぜなら「私は真我!」

 

 この「真我だ」という信頼がそこにあるべきだ。全ての人が真我ではなくエゴを信頼している。あなたのあるがままでいるというのは非常に簡単だ。他の何かになろうとすると問題に巻きこまれる。「私は存在」「私は真我」ということを100%信頼しなければならない。

 

 

 

 

Q:真我を信頼するのは難しい。

 

 

 しかしあなたはいとも簡単にエゴを信頼している。どれ位この信頼が続くかね? エゴというのは「私は肉体」そうだね? どれ位この信頼が続くかね?  80年以上、90年かね?

 

  それでは90年間信頼するとしよう、その半分は眠りでとられてしまう、残りは、学校に行くことや妻を持って、子供を育てることに使われる。これがあなたの信頼でその結果は何か?

 

  同じ信頼するなら、あなたに何か役に立つものを信頼すべきだ。真我はいつも存在する。「それ」を信頼しなさい。サットサンガに出席する人々にとっては、この完全な信頼が必要だ。

 

「私は肉体ではない。マインドではない、対象ではない、感覚ではない」こうしてサットサンガが始まるのだ。まず最初に永遠でないものを取り除きなさい。

 

 

 

 

Q:落着きのなさはどうしたものでしょうか。

 

 

 落着きのなさの根底には、私があなたに話した休息がある。落着きがないと感じる時は、その根底に一秒ごとに現われる休息がある。

 

  しかし、誰も気にかけないのだ。ホテルで誰かがチェックアウトして、次の誰かがチェックインする間に何があるかな?

 

 

 

Q:空室です。

 

 

これが休息と呼ばれるのだ。全ての間隙に、休息がある。しかし誰もそれに注意を払わない。呼く息と吸う息の間に何がある?

 

 

Q:休息。

 

 

  そうだ。誰もそれを説明できない。誰もそれを知らない。もし、あなたがこれに気づいたなら、真我として居ることができる。「私は二つの思考の間にある」「私は呼吸、吸う・呼くの間だ」これを憶えていたら努力する必要はない。

 

 「私は二つの間のそのギャップだ」と注目するだけでよい。そこには死や不満は入ることはできない。死や不幸は入ることはできない。これが簡単な指導手引だ。

 

 誰でも静かにしていることはできるが、本当に沈黙の経験をしない限り違いは起こらないだろう。

 

 

 

 

Q:「私」のない沈黙ですか?

 

 

 なぜ「私」について話すのか? それは努力によって達成できないものだ。ただ静かにしていなさい。マインドが以前の執着に戻っていかないようにするには、努力が必要だが、私が話していることには努力をする必要はない。沈黙に対してでさえ。

 

 それが何であろうと努力しないことだ。努力しないこと、そうするとこの経験が起こる。努力によって幸福になることはできないのだから努力しないこと。沈黙への妨害は、過去の執着からやって来るのだ。

 

 

 

Q:かつて、リシケシの大きなアシュラムにいたとき、この平和を感じたことがあります。

 

 

 これは、アシュラムのために起こったのでなくあなたの真面目さによって起こったのだ。どこででも平和を持つことができる。ヨガや他の事について話すこれらのアシュラムはあなたを混乱させるだけだ。

 

 1942年に私もその同じアシラムに行ったことがある。彼らは、ヨガやマントラについて話しているが真我探求(Atma Vichar)については何も話していない。

 

 全てのアシュラムで、あなたの人生と時間を無駄にしただけだ。長時間の滞在なしでこれらの疑問が明らかにされるサットサンガに出席した方がよい。

 

  どんなアシュラムからどんな利益も得られないだろう。彼らはただ瞑想して、本を読んでいるだけで静かにしてはいない。彼らは昼も夜も勉強して、この勉強はあなたの助けにはならないだろう。

 

 そう、静かにしていなさい、どのようにして?  私が教えよう! 努力をしないことだ。これにどんな害があるのか。努力の結果は、誰でも知っている。単に静かにしていなさい。この一瞬にこの結果を得るだろう。その時、この一瞬があなたと恋に落ちるだろう。

 

 あなたが平和と恋に落ちるのではなく、平和があなたと恋に落ちるのだ。あなたが平和を感じないのは、至高の平和があなたを拒絶したのだ。You have no chance!  あなたは来世を待たねばならないだろう。人間になるか、ロバになるか。しかし、それはこんなに簡単なのだから、今世を最高に活用しなさい。

 

 

 

 

Q:私はマインドと同一化したくありません。観念や混乱にのめり込むのをやめるように助けて下さい。

 

 

 マインドと同一化したくないなら、マインドとは何か知らなければならない。マインドを見てごらん。あなたがマインドとの同一化を確立しているのだ。あなたがマインドの欲しいものを供給しているのだ。

 

 だからまずマインドとは何か見つけ出しなさい。そうするとそれと同一化できるか、できないかが分かるだろう。マインドを理解することができなくても思考を理解することはできるだろう。思考がどこからやってこるのか見つけなさい。

 

今やりなさい。

 

 

 

 

Q:思考はどことも知れないところからやって来ます。

 

 

 もしどこからともなくやって来るならどうしてそれが何かであり得るのか?  何かはどこからかやって来るに違いない。このように思考がどこにもない所からやって来るのならそれは全く実体のないものだ。何もないものだけがどこにもない所からやって来るのだから。実に簡単だ!!

 

 

 

Q:(彼は理解する)私は今あなたと居て深い平和を感じています。他に何もたずねることはありません。

 

 

 あなたが「ここ」にいる時はただ静かに座っていなさい。質問する必要はない。もし質問がやって来たらすぐにこの質問はどこからやって来るのか見つけ出しなさい。そうすると静かに座っていることができる。質問が起こって来る源泉が平和と静寂が存在する場所だからだ。

 

  

  質問によって道から外れないことだ。

  なぜならそれらは全て過去に属するからだ。

  そしてそれらはあなたの苦しみの原因となる。

  もし平和でいたいなら、

  今起こっている質問はどこからやって来るのか見つけ出しなさい。

  質問が起こって来る直前の場所を見なさい。

  これを今ここで体験に置き換えなさい。

  そうすると、どのようにして静かに座るかが分かるだろう。

 

 

 

 

Q:どのようにして内側を見て、源泉に戻っていくのですか?

 

 

  源泉に戻っていく方法は非常に簡単だ。 

 

  外側への執着は静かに座っていることや瞑想を許さない。

  だからしばらくの間外側への執着を全て避けなさい。

  眠りに入って非常に平和な夜をすごすように昼間にこれを練習しなさい。

 

  外側への執着を全て忘れたその瞬間に膨大な愛と幸福を味わう。

  そうすると自然と外側を見るのを止めるだろう。

  外側と内側が同じになって、両方とも存在しなくなるだろう。

 

 

 この家の内側と外側の区別はほんの2インチのドアだ。もしドアがない時は外側も内側もない。このドアがマインドだ。マインドがその欲望を満たすために外側に向かっていく。このようにして、内側も又創られたのだ。

 

 マインドが静かな時は、ノーマインドであなた自身の真我だ。その時、以前には決して味わったことのない幸福を味わうだろう。しかし、あなたはそれを愛するけれども何があなたにこのマインドの平和と至福を与えてくれたのか知らない。

 

 だから以前の環境を忘れて、今いる環境(サットサンガ)に滞まるなら、あなたは至福に溶け込んで至福そのものになるだろう。実に簡単な方法だ。

 

 

 

 

Q:もし私がドアを見つけたら簡単かもしれない。

 

 

 この「もし」がドアだ。「もし」を使わない時何が起こるだろう?

 

 

 

Q:「私がドアを見つける」、いいえドアはないのだ!  内側も外側もない!  これが全てだ!全てがこれだ!

 

 そうだ!そうだ!全てがこれだ。

 

 

 

Q:疑いはなくなって、静寂なマインドと真我の間の関連を見ています。しかしマインドを静かにするのが難しく、静かにしていても、背後に何か見知らぬものが潜んでいるような感じです。これは真我ですか? 又は、マインドのトリックですか?

 

 

 あなたが言っていることはすべてマインドのトリックだ。理由は、あなたはマインドとは何か理解していない。理解していない時はいつもマインドがあなたを困らせる。それはトリックを使って「何か」として現れる。

 

 あなたはそれを見て、それが本当だと思う。あなたの前に真実として反映される全ては真実ではない。すべてがマインドのトリックだ。マインドに騙されないために唯一しなければならないことは、ただ静かにして、努力をしないことだ。

 

 あなたが言っていることは、努力するということと同じだが、ここでは、努力をしないこと、静かにしていることが要求される。どのようにしてと尋ねるなら考えないようにと頼む。どのようにして考えないでいられるのかと尋ねるなら、どこから思考がやって来るか見つけだしなさいと助言する。

 

 顔を「それ」に向けなさい。マインドの対象を見るのではなく、マインドがやって来る場所を見るのだ。

 

 マインドと思考の間には何の違いもない。マインドは思考の集まりで「私」と思考の間には何の違いもない。「私」がやって来ると、思考がやって来る。思考がやって来ると、感覚がやって来る。感覚がやって来ると、各感覚器が受けいれる対象がやって来る。

 

 見るための目、花の臭いをかぐための鼻、音楽を聞くための耳、味わうための舌、触れるための手。感覚と対象は同じだ。感覚があるとき、対象がある。

 

 さて、どこから感覚がやって来たか、そこへゆっくりと戻って行きなさい。それらはマインドからやって来た。対象−感覚−マインド。マインドはどこからやって来るのか?  エゴ!  マインドとエゴの間には何の違いもない。

 

 どこからエゴがやって来るのか?  これについてあなたは述べていない。どこから「私」がやって来るのか?その場所に向って見てごらん。

 

 これを理解すると、あなたは「私」がやって来て消えていくその場所に溶け込むだろう。このことを誰も述べていない。教師によっても、説教師によっても、宗教の本の中にも仏陀の経典の中にものべられていない。

 

 

 

 

Q:「私」とマインドの源泉を見つけるようにといいますが、どれ位、探求を続けるべきでしょうか?

 

 

 探求は続けるべきだ。歩いている時も寝ている時も、目覚めている時も夢を見ている時もそれがあなたの一部となるまで続けるべきだ。この探求の源泉に入っていくにつれて、海に近づいていくのだ。この探求を続けなさい。

 

 そうすると努力なしで眠っている時でさえそれが続いているということに気がつくだろう。ほとんどの人が探求は、瞑想するために座った時から始めて、立ちあがった時終わるものだと誤解している。これはそうではない。

 

 むしろ、あなたが完全に恋に落ちて、いつもその人の事を考え続けているように、探求し続けるべきだ。探求は、何をしていようとも一日中、頭痛や、歯痛が続くように続けられねばならない。

 

 この痛みは、会社にいようが人と話をしていようが努力なしで続いていく。このように、寝ても起きても、考えている時でも探求を続けなさい。

 

 

 

 

Q:覚醒が起こるためにはマインドが完全に破壊されなければならないのですか。

 

 

 マインドが破壊されない限り悟りは不可能だ。最もあなたに親密なものを諦めることによってマインドを静めなさい。それらのものはマインドを騒がせる原因になるからだ。

 

 もし、平和が次第に消えていくならマインドを掴んでいる何かがあるに違いない。それを見極めることによってマインドを静めなさい。本当か偽ものか?  永遠か一時的か? 本当に時間をかける価値があるかどうか? 

 

 たとえあなたに最愛の人がいるとしても、真実は唯一あなたの真我ゆえにその人を愛しているのだ。  グルと一緒にいることによって、真我を常に瞑想することによって、マインドを静めなさい。歓喜も又マインドを破壊することができる。しかし、一度マインドを埋葬したら、二度と掘り返さないことだ。

 

 対象に対する執着を取り除かねばならない。マインドの静寂は真我への執着を除いて全ての執着を棄てることからやって来る。

一時的な対象に執着すると問題がやって来る。だから、これらの一時的な対象や世界に対しては、眠っていて、真我に対して、目覚めていなさい。

 

 探求をしないと、サンサーラにいることになる。対象に目覚めていて、真我に眠っている。探求とは真我に目覚めることであり、感覚に眠っていることだ。探求は自由に導く。思考は太陽を隠す一時的な雲のようなものだ。「私」という思考でさえ雲だ。

 

 マインドそのものである雲に気をつけなさい。このマインドはこれやあれがほしいという欲望だ。思考は、「私」という思考でさえも、ただ雲が漂っているようなものだと知ったなら、それに影響されることはない。

 

 マインドの静寂があるところに、マインドはない。その時あなたは本当に目覚めている。

 

 

 

 

Q:昨夜、夜中にほんの瞬間、何もなかった。それが「それ」ですか。それが真我ですか。そしてマインドが戻って来ました。

 

 

 どうしてマインドが戻って来たのか? この無の中でマインドはどこにいたのか?

 

 あなたのポケットに何もない時、この空のポケットから何ドル取り出すことができるのか?  無から何がやって来ることができるのか?

 

 

  一度ハートが静かになったら、

  一度それが空になったら、

  二度と戻って来ることはできない。

 

 だから、もう一度やってごらん。無の中に入っていって、戻って来ることは考えないこと。そうすると、あなたが見ている全てのものは無の中にあるだろう。

 

 

 

 

Q:度々私はそれをするには怠けすぎて、かわりに気晴らしを探し求めます。

 

 

 あなたは怠け者ではないが、あなたは最高に怠け者であるべきだ。という意味は怠けすぎて考えることができないということだ。もし怠け者でないと考えるなら、あなたは活動的だ。

 

 もしマインドを使わないときは、マインドがあなたから去っていく。だから、非常に怠け者になるか、非常に活動的になるかだ。

 

 

 

 

Q:私はそれができると信じられないだけです。

 

 

 どうして?  信じなければいけない!

 

「私は成し遂げることができる。私はやらねばならない。」と決心しなさい。

 

 あなたが「ここ」にいると、マインドはいない。マインドが「ここ」にいるとあなたはいない!「あなたは誰か」「あなたは一体誰か」言ってごらん!!

 

 

 

Q:(彼女は静かに座って微笑んでいる。)「あなたは誰か」と言われたとき、私のマインドが突然とまってしまいました。思考はなくて、幸福だけ、私はそれができるということに驚いています。

 

 

 そうだ。疑いなくそれはできる。「私は誰か」という思考以外にどんな思考も持たないことだ。この思考が、あなたを思考や観念や人や対象のないところ、無だけがあるところに連れていく。

 

 これが失われたあなたの究極の本質だ。あなたが執着してしまった世界の対象を楽しみたいがためにそれを失くしてしまったのだ。

 

 執着のためにあなたに平和を与える時間が、あなた自身の本当の愛を知る時間がなかったのだ。この平和を見つけて、カビールの言うようにしなさい。

 

 

  ほんの一秒の半分 聖者と一緒にいなさい。

  ほんの半秒の半分 ほんのその半分聖者と一緒にいなさい。

     あなたを束縛するものが自然と解き放されるだろう

 

  グルの恩寵によって、あなたは誰かを知ることができる。

  この恩寵は、あなたが蓄積した数々の罪を燃やし尽くす火の玉だ。

  全ての罪が燃えつきたら、あなたは蓮の花

  ハートとマインドが開いてしまった蓮の花

 

 

「今」が全ての人が何億年もの間待っていたその時なのだ。 これ以上無駄にしないことだ。今それを手に入れなさい。

 

 

 

次ページ(Part2-d)に続く

 

 用語解説

 

*1 Atma Vicara  真我探求

 

 

 

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