「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)

 

~SRI H.W.L.POONJA

崎山綾子翻訳

 

 

 

第9章 世界は幻想 ☆Part2-a

 

(サイト管理者より・・・・画面構成の都合上、章全体を複数ページに分割して掲載します。用語解説は各ページ末に収録)

☆Part1☆Part3☆Part4☆Part5

 

 

第9章は全体が長大なので、小見出しごとに☆Part分割したファイルを更に、a,b,c...と細分割して掲載します。

[b][c]

 

 

前ページ(Part1)からの続き・・・・

 

 

マーヤー:幻想の力

   

 

  

    ほの暗い道であった。
    その道端に恐ろしい蛇が横たわっているのを見る。
    そして他の方向から突然誰かが、蛇の側を通り過ぎてやって来る。
    その人は何をそんなに恐れているのかとあなたに問いかける。

   あなたはその人が踏みこえた毒蛇について話す。
    そしてその人は、それはただのロープだと言って聞かせる。

    毒蛇は存在しない。決して存在しなかった。
    幻想と想像の力がロープという現実を隠してしまうのだ。

   毒蛇の概念がロープを隠してしまうように、
    幻映がアートマンを隠してしまう。
    アートマンがすべてだ、潔癖の意識。
    永遠に自由で至福に満ちている。
    しかし、本質的に存在しない名前や形でこれを隠してしまう。
    主体や対象に与えられたイメージでこれを隠してしまう。
    考えることは、何かであると想像することだ。
    「実在」の上に何かを覆いかぶせることだ。
  それは一時的な夢の現実を創りだす。
    この信じられない*1マーヤーの力は唯一アートマンからやって来る。

   名前と形のすべてはこのマーヤーだ。
    この名前と形に囚われると基盤の実質を見失ってしまう。
    指輪を見たらゴールドを見ない。
    名前と形が虚空に溶けこむと存在になる。
    名前と形が幸福を与えてくれることはない。
    名前と形のあるところでは何かが隠されてしまう。
    その何かが幸福だ。

    目覚めの状態はエゴがスターで、カルマが監督で、マーヤーがプロデューサーの映画だ。
    目覚めの状態でさえ夢の状態と同じことだ。
    「実在」はいつも「実在」で、非実在は決して実在でありえない。
    あなたが真理に眠っているとき、唯一この幻映を夢見るのだ。
    だから、目覚めなさい。
    毒蛇は存在したためしはない。

   「自由」とは幻想の幻想性が取り除かれることだ。
    疑いはあなたと「自由」の間にある幻想の壁だ。
    それを追い求めて幻想の現実を堅固にするのをやめなさい。
    期待がそれをさせるのだ。
    マーヤーは終わりのない、決して存在しない想像だ。
    マーヤーが投影したリーラは内側からやって来る。
    マーヤーのドラマのために真理の知識が幻想的になる。
    世界は主体と対象でなりたっている。
   「実在」を知るためには何の上に主体-対象が映しだされているのか見つけだすことだ。
    何にも影響されないスクリーンを見つけることだ。
    このように真我を黙想していることが世界の偽りの顕現、幻想を根絶することだ。

 

 

 

Q:この世界という幻想、マーヤーがなぜ存在するのですか?
    

 

  なぜなら、あなたがマーヤーを必要とするからだ。あなたがマーヤーを必要とするのだ。あなたには満たしたい欲望がある。だからそれを満たすためにはマーヤーが必 要だ。
    
 あなたは川を求めて焼きつく砂漠をさまよい歩く、しかし川は蜃気楼にすぎない、それは存在しないのだ。 あなたの欲望が川を創り出す。
    
 少数の人が歩くのをやめて、外に面している顔を内側に向ける。 そして内なる真の流れに、ネクターの流れに向かって行く。

 

 

Q:この世界の現実は幻想だと物理的に証明できますか?
    

 

 概念を証明することはできない。概念が幻想のすべてであり、この世界の現実のすべてである。こんこんと清水の湧きでる井戸から離れないことだ。離れて砂漠に行った人が蜃気楼を見て、この幻想に苦しめられる。

 真理は経験することも、証明することもできない。それは不可能だ。すべての人がこの幻想に巻きこまれて、マーヤーは誰かを知らない。すべての人がこの彼女を愛し、その見返りは不幸と不安と苦しみだ。


 どのようにして幸福で永遠に至福に満ちていられるか、カビールから学びなさい。彼はマーヤーに歌っている。

    お前はりっぱな詐欺師だ。
    誰もお前に気がつかないが
    私はお前が誰か知っているぞ。

 

 

Q:神は自分の所にやって来る人すべてを助けるとあなたは言いました。又、あなたは神だとも言いました。だから私は神であるあなたに、この幻想を今日一度に全部、破壊して下さるようにお願いします。今ここで。
    
 
 この幻想を私に見せてごらん。そうしたらマッチも使わずにそれをすぐに燃やしてしまおう。しかし、私にそれを見せてくれなくてはダメだ。このガールフレンドを私に見せてほしい。あなたについてではなく、この彼女についてどうするか決めたいのだから。

 私が彼女の面倒を見よう。彼女は破壊されることを望むか、又は私が彼女を洗礼したら彼女はあなたと一緒にいることができる。

 
  まず初めに幻想の意味を知るべきだ。幻想とはマーヤー、マーヤーの意味は存在しないもの。だからどうして私が存在しないものを破壊することができるのかね? 

 スクリーンの上に投影されたものが幻想だ。映画館でスクリーンの上の映像に夢中になるとそれは投影だと気づくことはできない。この映像の中で、ある人は幸福で、ある人は悲しんで、ある人は海で死ぬ、ある人は墓場に埋められる。

 あなたはこれらのスクリーンの人々に夢中になり苦しんでいる人や楽しんでいる人と同一化してしまう。これがサンサーラのお話だ。

 
 この映画が終わると、他の映画が写される。そのとき、しばらく映像が写しだされていたスクリーンを見ることができる。このスクリーンは全く色づけされていないし、海の水で濡れてもいないし、火で燃やされてもいない。

 これらの映像は本当ではない。ほんの少数の人がこれを知っていて、同じ映画を見るために二度とやって来ることはない。しかし、ある人々は同じ映画を何度も何度も見ている。

 あなたがスクリーンだと知ったなら、映像のすべては幻想だ。そして初めて、幻想を楽しむことができる。そのスクリーンの上であなたが肉体として現れる。男であろうが女であろうが、この肉体が遊ぶためには反対の性の肉体が必要だ。

 
 これが通常繰り返されているストーリーだ。それは終わることがない。単に静かにしていなさい、そうすると、あなたは決して生まれてこなかったと知ることになる。生まれた人が死ぬということはただの概念だ。あなたがこれを知ったなら、大変幸福になる。

 これがあなた自身の真我とのロマンスの始まりだ。どこにいようともこれを人々に話してあげなさい。
    


 

Q:このマーヤーのドラマの中で、人間の役割は何ですか?
    

 

 人間として生まれて来ることはとても貴重なことだ。なぜなら、この生誕の中でのみ、すべては幻想だと知ることができるからだ。おそらく人口の1兆に10人、自由を達成したいと決心を固めるだろう。その内で幻想のゲームに勝つ人は非常にまれだ。

 真理は内にある。しかし感覚の対象を外に追い求めて、いつも他のどこかを見ているのだ。しかしこのすべては幻想だ。今これを知りなさい。どこから幻想が起こって来るか見つけなさい。この思考がどこからやって来るのか見つけなさい。

 そうすると、あなたの内にいつも定住している愛を見つけることができる。すべてがあなたの肉体も含めて幻想だと分かるだろう。

  
  現れて消えるものは実在ではない。


 砂漠の川の蜃気楼のように一度それは幻想だと知ったなら、それからあなた自身を切り離すことができる。「幻想を超越した人」になる。この蜃気楼によって渇きを癒やそうとする人々は決して満たされることはない。彼らは益々トラブルに巻き込まれて行くだけだ。

 この川は蜃気楼だと知った人たちはそこには行かないだろう。彼らはマーヤーは現われるが存在しないと知っている。これを理解したならどこに平和と幸福があるのかと尋ねるに違いない。

 この探求があなたをサットサンガに連れてくるのだ。

 

 

Q:外側の状況と内なる感情的な反応の間に何か関係があるのですか、それともすべては幻想ですか?


 それはすべて幻想だ。マインドそのものが幻想だ。あなたが考えるものは何でも幻想で、幻想を取り除くためには考えないことだ。何年もこれを練習してもらいたくない。しかし、ほんの一瞬、目のまばたき、一息、半息、でよい。そうするとあなたのすべての問題は解決される。(くすくす笑い)

 

 

Q:愛もまた幻想ですか?


 愛は幻想ではない。愛の中ですべての幻想がなくなる。幻想のないところに真の愛が起こってくるのだ。

 

 

Q:このことを忘れないために新しい名前をいただけますか?


 

 マドウー・蜜という名前をあげよう。私がなぜこの名前をあなたにあげるのか説明するためにある話をしよう。


 昔、ある男が森を歩いていて偶然にも井戸に落ちてしまった。彼はあわてて井戸の中に生えている蔦を掴んでそれにぶらさがった。

 井戸の中で下を見たら腹をすかしたワニが口を開いて待ちかまえている。上を見たら白と黒の二匹の野ねずみが蔦をかじっている。

 井戸の真上に蜂の巣のついた木があり、その巣から丁度彼の口に届くように蜜が垂れていた。彼は蔦につかまりながら蜜の一滴一滴を楽しみ始めた。この楽しみのためにねずみとワニの事を忘れてしまった。


 これがマーヤー、人生のお話だ。男は死の井戸にぶら下がっている。ワニは死そのもので白と黒のねずみは昼と夜、時間の経過を意味している。蔦は人間の寿命、時間によって切り刻まれて行く。蜜が快楽で私達を死と時間から引き離す。これがまさにこのサンサーラの状況だ。そしてみんな幸せだ。(笑)


 ねずみに寿命を切り刻むのを許さないことだ。しかしまず第一に,井戸に落ちないことが一番よいのだが。次の足がどこに着地するのか見なさい。注意深く生きなさい。

 井戸に落ちてワニの恐怖にさらされるより、木に登って蜂の巣丸ごと手に入れる方が良いに決まっている。これを今、決心しなければならない。
 
 さもないと死のワニはあなたを待っているし、ねずみは蔦をかじり続けるだろう。誰もすぐに蔦をつたって登って行こうと考えない。たとえ短い登りでもそれを考えない。井戸の外に出たら幸福と至福の蜜を楽しむことが出来るというのに。


 だからこのイメージを毎日憶えていなさい。これが最高の教えだ。すべての人が自分自身の死に気づくべきだ。蜜を一滴一滴楽しんでいて誰もかつて死を避けた人はいない。

 自由でありなさい。そうして、始めて人生の蜜を味わうことが出来る。感覚を通しての快楽は蜂の蜜と同じようなものだ。それは恐ろしく暗い井戸に人を閉じこめてしまう。これは単なるお話ではなく、教訓だ。
  


Q:今、蔦を登って来る方法がありますか?
  

 まさにその通りだ。「今」が蔦で「今」が出口だ。蜜を一滴一滴味わうのを止めて、ねずみがあなたの寿命を切り刻んでいるのを見なさい。だから、あなたが賢明なら井戸から飛び出すだろう。

 怠け者のように待っていないことだ。あなたを困難に巻き込む可能性のあるものを楽しまないことだ。決めなければならないことは、

 「何があなたのためになるのか? 何があなたに幸福を与えてくれるのか? 蔦にぶら下がっていることが幸福か?」

 少数の人がこの井戸という世界から飛び出す。死はワニで、寿命は蔦だ。ねずみは昼夜を分たず蔦を切って行く。待っていることは賢明ではない!


 賢明な人々は仏陀のように飛び出す。彼はその国で最も美しい女性達と眠っていたが真夜中にすべてを捨てて宮殿を去った。ほんの少数の人々がこれをやり遂げた。

 2600年経った今も私達は仏陀を憶えている。このようにみんな仏陀になることができる。欲望というベッドから目覚めて起きあがるだけでよい。


 

 

次ページ(Part2-b)に続く

 

 

 

 

 

用語解説 

 

*1マーヤー 幻想という意味

 

 

 

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