「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)

 

~SRI H.W.L.POONJA

崎山綾子翻訳

 

 

 

第9章 世界は幻想 ☆Part1

(サイト管理者より・・・・画面構成の都合上、章全体を複数ページに分割して掲載します。用語解説は各ページ末に収録)

☆Part2 ☆Part3☆Part4☆Part5

 

 

 

世界は幻想

 

 

 波に隠されているのは海

 名前に隠されているのは基盤だ 

 顕現に隠されているのは「あなた」

 あなたが誰か忘れないなら

 この顕現は宇宙の踊りだ

 名前のないものがあなたという形を与えた

 それがドラマを演じるために、愛するために、真我を知るために

 このことを忘れてはならない

 

 

 

ナラヤナ:幻想の想像

 

 

  海は波のことを忘れないが

 波が海のことを忘れてしまう。

 これがために世界が顕現するのだ。

 戯曲を演じるためにはこの忘れっぽさが必要だ。

  世界は祝祭のためにのみ存在する。

  顕現は楽しまれるべき、宇宙のドラマにすぎない。

  すべてはドラマで、実在するものは何もない。

  考えることはすべて、それになるのでドラマが続いて行く。

  このドラマはあなたによって創られた。

  そして、それを破壊できるのはあなただけだ。

 

 

 

 

 

Q:創造とは何ですか? この幻想はどのようにして起こって来るのですか?

     

 

 最初に意識は静まりかえった湖のように存在していた。そして、さざ波が起こる。これが名前と形だ。意識から「私は意識だ」という思考が起こって来る。これが「私」という感覚だ。そして欲望が起こって、これがエゴだ。

 

 さざ波は湖とは別個のものだと考えて、これが時間と空間という限界を創り出す。このさざ波は思考のまばたきと同じだ。これが意識から起こって来るエゴだ。

 

 しかし、さざ波は湖や水と何の違いもない。これを忘れると問題が起こって来る。感覚が起こり、感覚の対象物が起こり、すべての顕現があなたと一緒に戯れるために、あなたを欺くために、創り出される。

 

 あなたが「すべては想像だ」というとき、あなたは醒めているのでそれはもはや想像ではなくなる。顕現という夢から醒めなさい。あなたが真我から離れないならエゴは起こってこない。対象は感覚にすぎないし、感覚は肉体にすぎない。肉体はマインドにすぎないし、マインドは「私」にすぎない。

 

 この「私」は意識だから、実にこの世界の創造はあなた自身の反射にすぎない。思考が世界を創り出すのだから、この「私」の源泉を完璧な警戒心をもって思考をストップすることで見つけ出しなさい。

 

 

 

Q:私達が見ている世界が宇宙の全体性ですか?

     

 

 存在の水準は数多くある。私達より上の水準は美しい存在によって占められているし、下の水準は半人間、非常に醜い存在によって占められている。

 

 私は非常に美しくて肉体が透けて見える水準にいる人々を訪れたことがある。他の水準では半分顔で、半分醜くゆがんだ顔を持った人々が存在し恐怖を感じた。

 

 私達がここでモクシャを達成しないなら、次は神になって最終的にはこの水準に戻ってこなくてはならない。ここが自由を勝ち得る唯一の場所だ。神でさえ自由が欲しいのなら、ここに生まれ変わらなければならない。

 

 意識はそれが考えるどんな形も取ることができる。ゴールドが宝飾のどんな形をとってもゴールドとして残るように。海が海として留まりながら波を創り出すように、意識がその本質を失くすことなしに宇宙を創り出す。そこには、多様性も単一性も存在しない。

 

 「それ」はただ「ある」。あなたはこれに気づいていない。これがロープが蛇に見える理由だ。近づいて見ると蛇ではないことが分かるのだが。

同じことが「私」についても言えるのだ。

 

 詳しい調査をして見ると「私」は存在しなくて、この宇宙は無の中に、意識の中に消えてしまう。かって何も起こらなかった、これが究極の真理だ。考えるとそうなるのだからこの真理を考えなさい。

 

 この蛇の毒歯を破壊して、あなたの真我を知りなさい。

あなた自身の真我に留まりなさい。創造者とは誰か、何が創られたのかと考えないことだ。

 

 単に、あなた自身の真我に定住しなさい。すべての形を持った全世界が源泉から,即ち無からやって来る。思考が源泉から起こる・・「私を倍加させよう」。

 

 

 そうして、存在が過去、現在、未来とくり広げて行く。25000年前ヴェーダはこれについて述べている:

 

   EK Koham  Bhahosham:私を何倍にも増やそう。

    この創造の目的は真我が愛して楽しむことである。

    だから人間として生まれて来た目的は、

    自由になって楽しむことである。

 

 

 すべての形は音である。形のすべては音から起こって来る。あなたが口にするどんな名前も形になる。しかし、どんな形にもならない一つの音がある。

 

 この未知なるものが既知なるものすべての基盤だ。既知はいつかあなたを騙すことになる。だから現れもしないし消えもしないものと友情を結びなさい。

 

 意識は一瞬にして限りない生誕と創造を経験する。これらの創造は、これらの*リーラは、真実でも偽ものでもない。真実は、創造も経験者もないが、なおかつ創造と経験者が存在するのだ。

 

 これは、マインドにとっては逆説だ。しかし意識の中では、対象と主体の間には何の違いもない。「私は誰か」という即座の探求の中で、それ自身がそれ自身を明らかにする。

 

 さもないと創造は永遠に続くことになる。探求しないことが創造のベースであり、探求することが自由のベースである。自由とは、あなたの本質は「存在・意識・至福」だと実現することだ。

     

 

 

Q:私達の真の本質が「存在・意識・至福」なら、なぜそれを離れてこの肉体としての形を想定するのですか?

     

 

 それを離れたと、なぜ想定するのかね? これは愚かなことだ!この想定そのものが、私が今説明した幻想の創造だ!!幻想を創り出すこだ!!

 

 あなたは「存在・意識・至福」ではないと誰が教えたのかね?  この想定が無限の輪廻を引き起こしているにすぎない。あなたは決してこのホームベースを離れなかったという確信をなぜ持たないのかね?

 

「 私は存在・意識・至福」、「私は自由だ」という確信をなぜ持たないのかね?

     

 

 

Q:私が自由だと感じなかったからです。

     

 

 「私は生まれてもこなかったし、決して死ぬこともない」という確信をなぜ持たないのかね? あなたの考えることがそのまま起こるのだから、考えたいのなら「私は『それ』のみだ」と考えなさい。

     

 

 

Q:真我とリーラは同じですか。

     

 

 両方共同じことだ。海と波の間にどんな違いがあるかね? 海があるところには必ず波はあるし、波のあるところには必ず海がある。海では波が必ず遊んでいる。そして、波は最終的に海に戻って静かになる。

 

「私はリーラ」と言ってそれを楽しみなさい。

 

 

   もし真我があって、リーラがあるというなら、

    あなたは悟っていないことになる。

    それらに「違いはない」し、「違いがない」ということもない。

    何もない。唯一真我のみ

 

 

 

 

 

 

次ページ(Part2-a)に続く

 

 

 

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