余はいかにしてラマナ信奉者となりしか? その13




                                           



「内なる聖火」ビジョン体験




19年12月6日〜23日までアルナーチャラ訪問、全日をラマナアシュラム・ゲストとして滞在してきた。

10日は「ディーパム大祭→の最終日であり、この日の夕方18時に
アルナーチャラ山頂に聖火が点るという、ティルヴァンナマライ最大のイベント・クライマックスを迎えた。












今回の訪問は久々にこの聖火を遙拝しよう・・・という目的でこの時期を選んだのであった。

(当日の様子は「滞在日記」に書いている→


そしてこの時期の夜間にギリプラダクシナをする・・・ということは、「聖火を仰ぎ見ながら歩く」というなかなか滅多にない、大いなる祝福が降り注ぐ時空間の中をひたひたと歩いていく「奉祝ギリプラダクシナ」となるわけでもある。







「聖火の元に歩く」・・・・聖火奉祝ギリプラダクシナ




私がディーパム聖火の時期に滞在するのは4年ぶり9回目であり、これまでにももちろん
「聖火を仰ぎ見ながら歩く」ことをやってきたのであるが、今回の「聖火奉祝ギリプラダクシナ」では、何度か歩いている際に

「内なる聖火」とでもいうようなビジョンの数々が波状攻撃的に到来する?・・・という状況を体験することになった。


そしてこの一連の体験は、その時その場所だけの「精神昂揚的な一時的な感興」ではなく、現在になってもかなり「存在の通奏低音的基底」として意識され機能している・・・ように感じられるので、

前号までの3回に渡って書きつづってきた、私がラマナ信奉者と成らざるを得なかった3つの深層体験(「刃傷事件」・「南無大師遍照金剛」体験・「クール・アーナンダ」体験)に続く4つ目の、
「内なる聖火」ビジョン体験として掲載しようということになった次第。














「聖火&満月・・そしてギリプラダクシナ」





12月11日は満月でもあり、「聖火を仰ぎ見ながらの満月ギリプラダクシナ」となったのだが、その際には、

ギリプラダクシナとは、
「この肉体が歩いているのではない!」

・・・ということをふと感得したのであった。


「『この肉体』が歩いている」と意識している限りは、その「肉体」が対峙している「アウタールート」は現実的様相としての、「近代的な開発整備」が進行して往年とは隔世の感が強い「道路」であるに過ぎない。


だがこの「アウタールート」とは、果たして「単なる道路」でしかないのだろうか?

否・否、三度否!・・・この道は同時に、
「アルナーチャラ」が我々に差し伸べている「霊的チャンネルとしての巨大なる回路」でもある!


そもアルナーチャラとは「現実的様相」としてはもちろん「ただの花崗岩の固まり」である標高820メートルほどの山に過ぎない・・のだが、その様相に対峙している基点が「この肉体」だから、そのレベルに相対してそこに「山としてある」のである。


しかしアルナーチャラの本性とは、
「天地を貫いて屹立する巨大なる光の円柱」 なのであって、その本性に対峙している基点とは決して「この肉体」ではない・・・のだ。


「この肉体」として感じている「エゴ」ではなく、「私」という純粋意識がこの道を歩くとき、それは「霊的チャンネルとしての巨大なる回路」となって、「天地を貫いて屹立する巨大なる光の円柱」であるアルナーチャラへ「吸収され一体化する(これはいわゆる「心理的同一化」とは意味が違う)」という秘儀・秘蹟が実現する。


・・・・のではないだろうか?

つまり「ギリプラダクシナ」とは、真我の探求としての「私は誰か?」の問いかけを、「誰が歩いているのか?」と置き換えた「全体的なダイナミックな『動く瞑想』」としての営為なのでもある。






「PUNARVAS奉祝ギリプラダクシナ」




そして12月14日はPUNARVAS(ラマナの毎月の誕生日を祝う日)であり、その佳き日の夜にこそ「アウタールート全行程を聖火を仰ぎ見ながら」の「奉祝ギリプラダクシナ」を歩こう!!・・ということにした。

(前述の「満月ギリプラダクシナ」は出発時間が早かったため、「歩いている途上で聖火が点る」タイミングであったので。)


かくして出発は当然18時の聖火点火(昼は消えているので初日から11日間「毎夜点火」される)の後になるのだが、この日は朝から天気が悪く時々降雨でアルナーチャラも雲に隠れがち・・という状況で、「さあて、これはどうしたものかな?」・・・とジリジリと悩むことになってしまった。

もし「雨が降っていて聖火も見えない」状況ならば、果たして歩く必然性はあるのか?・・とさんざん逡巡したのだが、結局これはもう18時の時点で最終決断するしかない、ということになった。

そして18時が近づいてきてアルナーチャラの様子はどうか?と外に出てみると、山頂に居座った雲がなかなか動きそうにない・・・「ううむ、ダメかなあ?」と思いつつも、雨は上がっている。

ならば聖火は諦めても「PUNARVAS奉祝として歩く」ことそのものにはどうにかなりそうではある・・のだが、この期に及んでもまだ踏ん切りがつかない(笑)。


ところが18時となった瞬間に、するすると山頂の雲が薄れて
「聖火が点灯される瞬間」がはっきり見えたではないか!!


こうなるともう「歩け!!」という御神意であることに疑いなく、「よっしゃ、歩くぜ!!」とあたふたと準備して喜び勇んで部屋を飛び出して歩き始め、「PUNARVAS奉祝ギリプラダクシナ」のスタートとなった次第。



そして結果的にそれは正しかった・・・というのもこの14日のギリプラダクシナでは、その状況なればこその「新たなる重要なインプレッション」の数々がもたらされたからである。

それは
「この肉体が歩いているのではない」から更に発展したより深遠なる真理である「内なる聖火」という啓示だったのだ!!






「内なる聖火」とは?





この「PUNARVAS奉祝ギリプラダクシナ」は結局最後まで雨には降られなかったものの、聖火の方は「時折雲が被って見られない」状態であり、最初の内はそれがいささか残念であった。


しかしそのような状況であるが故に・・

「歩いているのが『純粋意識である私』であるならば、今この私の内側に『聖火』はある・・・はずじゃないか!!」

というインプレッションが閃いたのである。


つまり実際に山頂で燃えている聖火とは、「この肉体としての視覚」が捕捉している象徴・表象としての「映像」だから、雲に隠れたら物理的に「見えない」のであって、

「聖火」それ自体の本質とは、
「天地を貫いて屹立する巨大なる光の円柱」であるアルナーチャラの本質そのものであり(すなわち「真我」そのもの)、そして歩いているのは「この肉体ではなく『純粋意識である私』ならば、真の意味で「今この私の内側に『聖火』はある」のではないか?


いやいや「内側に聖火がある」というよりも、
「純粋意識」=「ハート」=「真我」であるのならば、更に=「聖火」ではないか?

ならば、時と空間を超越して「いつでも・どこにいようとも、今ここのこの瞬間に(こそ)『聖火』は永劫に燃えている!のだ。

そして同時にそれは、
「私」=「純粋意識」=「聖火(真我)」

・・・・ということになるではないか!!






それでふと、ラマナが自ら描かれた「シュリ・チャクラ・ヤントラ」を想起すると、要するにこれって「ハートとして輝く聖火」そのものではないか!!・・・と得心したのである。







                                




それまで私はこの「シュリ・チャクラ・ヤントラ」を見ても全然「感動」したことはなかったのだが、

今回それが
「ハートとして輝く聖火」なのだ!と直感出来てからは、それに対峙した時のインプレッションが全然違う「深さ」を伴うものに変貌した・・ような気がする。







「私は『星』を内包する者でもある」





そして20日夜は今回の滞在におけるラスト・ギリプラダクシナ(通算418回)であった。


(17日も歩いたが、これは今回訪問のもう一つの「ミッション?」である、「ギリプラダクシナ・アウタールート全体の写真再撮影」→ のため、聖火が燃えていない昼間の時間帯に歩いた・・のであった。)


14日同様に18時の点火を遙拝してから出発、今度こそ「全行程を完全にクリアな聖火を仰ぎ見ながら」となるか?・・・と期待したものの、残念ながら次第に雲がかかり始めてしまい、例によって「雲に遮られて見られない」という状況に。

しかも「パンチェムカ・シュライン」・・アルナーチャラの5つの峰全てが見渡せるポイント(強力な「パワースポット」でもある)で見えたのが最後となり、その後は最後まで雲の中。




















ではあるものの、パンチェムカ・シュラインにて最後に見えた時の状態というのが、これでなかなか印象的なのであった。

「チカチカと瞬いて『青白い』光を放つ」感じが数回繰り返された後、雲に隠れて見えなくなる。

(物理的現象としては、雲と風による対流作用による錯視・・というところだろう。)

・・・というものだったのだが、私の心境にはなかなかそれが象徴的なイメージとして捉えられたわけではある。



それは、
「私は『星』を内包する者でもある」・・・ということの新たなる自覚なのである。

皆様ご存じのように、私のホーリーネームは「シリウス・マハナンダ」であるのだが、アルナーチャラの本質が「全てを焼き尽くす(ニルヴァーナとして)光の円柱」であるのに似て、「シリウス」という星の名前は、古代ギリシャ語でやはり「焼き尽くす」という意味なのである。

そうなのだ・・私はその「焼き尽くす」という星の名を頂く者でもある。














もちろん実測される「色」としてはアルナーチャラの聖火とシリウスの光には大きな相違があるのだが、これは聖火の方はマテリアルとしては「ギー(牛乳から抽出した油)」を燃やしているので「燃焼温度」が低くてオレンジ色であるわけで、














本質としての光はやはり純粋たる「白色」なのであり、むしろ表象としてはシリウスの「青白色」と近似しているはずである(これは「牽強付会」であるが・・笑)。


つまり最後に見えた「青白い」光とはまさしく「シリウス」の色なのであり、その星の名を頂く者としては「聖火」=「星(シリウス)」であり、
外見として見えている炎が完全にハートの中に収束されたのだ!


さよう、
私は「聖火=星」を内包する者・・なのだ。

それが「純粋意識(真我)」であるならば、「サット・チット・アーナンダ」が指し示す「アーナンダ」とは「至福」を意味するわけで、「マハナンダ」とは「大いなる至福」という意味を有するのでもある。


・・・とでもいうような、かなり壮大な「ご都合主義的自己満足誇大妄想」なのであった、わはははは・・・・・!!。



しかし私の本質が「聖火=星」としての「青白い光」なのだ・・・という見解は別に私だけのオリジナルではなく、例えば宮沢賢治の「心象スケッチ『春の修羅』」の序では、

「わたくしという現象は仮定された有機交流電燈のひとつの青い照明です」

という描写で始まる・・・のと同質でもあろう。

(因みにこの文章が書かれた「大正13年1月20日」の約1ヶ月前に、現在の地にラマナアシュラムは創建された・・わけでもある)



                                          







「神々の祝福」





そしてラスト・ギリプラダクシナということで、大寺院(アルナチャレシュワラ・テンプル)の神様にもご挨拶しておこう!と大寺院の中へ・・・







ご本尊が祭られている最奥の神殿手前の広場にて礼拝&ご挨拶して、しばし休憩。


ここでも残念ながら聖火は見えなかったのだが、その代わりに?神殿正面の上にずらりと並んでいるヒンドゥの神々の彫像が(モスクワの赤の広場とか北京の天安門人民広場のバルコニーでの式典で「政府のお偉方が横一列にずらりと並ぶ」あの光景のような感じ・・)、

どうしたことか
「妙にリアルに生き生きとした」感じで、なんだか「私をご覧になって祝福されている!(=ダルシャン)」・・・ような錯覚&妄想」に陥り、あらためてこれらの神々にもご挨拶をせざるを得ない?状況なのであった(バクタにとって「見神体験」は至福そのものである)。












「『炎の浄化』による昇華」




これら一連の「奉祝ギリプラダクシナ」が終わったところで、そういえば今回のアルナーチャラ訪問に際して「日本出発日の朝方の夢見」がなかなか意味深であったことを思い出した。


「11月の半ばに変な風邪を引いて咳込が激しく、結構長引いて出発直前までなかなか完治しなかった」・・という現実的ベースがあったのだが、


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それで例によってゲホゲホ咳込んでいたら、ぎょっとするほどの「真っ黒な」痰が排出されてびっくり!!・・・しかしその後からは薄いブルーの透明な液体になったので一安心。


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・・・・という夢なのであった。


後から振り返ってみれば、その夢見が「聖火というメタファー」を通じて予期せぬ形で変形して成就した?・・かのような気がするのである。


「真っ黒な痰」に表象されるのは、おそらく「未発のマインド群」というもの(たぶん未だにくすぶり続ける「承認欲求&自己顕示欲のもたらすあれこれ・・)なのだろうが、

これらはあたかも「コールタール」みたいな「ねちゃねちゃと粘着して異臭を放つような生理的に不快な代物」な様相なのだけれど、これを単に物理的に除去するのではなく(夢ではそうだった・・)、

「燃やされる」・・ならば、その放つ光は一つのエネルギーとして、「(燃やす方の)聖火本体」に吸収されうるものとなる
・・・のではないか?

・・という新たなる見識である。









「本源の炎」に吸収されいく・・・





「それらが除去された状態(ニルヴァーナとしての)」が、もし「理想」でしかない・・としたら、その「理想という想念」それ自体(&それへの「執着」)が「新たなるエゴ」として機能し続けていることになってしまう・・「夢見」の段階ではそこまでだった。


だから「燃やされて灰燼に帰す当体」の方でもなく、「それらが除去された状態」とかに力点があるのでもなく、

「絶対的聖性の本源・本質」である聖火に、それらが「炎として吸収される=一体化する」ということこそ、「『炎の浄化』による昇華(あるいは『ニルヴァーナ』の一様相)」なのではないだろうか?


「それら」が無明の産物である・・としたならば、先ず「炎に照らされる」段階で明らかになる(=非無明)」わけだし、明らかになったが故に「燃やされる当体」となり得る・・わけだし、そして実際に「燃える」ことで「本源の炎」に吸収されいく・・・のではないだろうか?


実際今回滞在中は「聖火」に対峙している(歩いている時でなくとも)と、なんだかそのまま「炎に吸収されてしまう」ような魅惑的な感覚があって、うっかりするとその「炎に身を投じたくなる?」かのような、いささか変梃かつ危険な?精神状況だったりもした(笑)。








「内なる聖火」だけが「リアルの当体そのもの」である





さて、私もこれまで霊性の道を歩む過程に於いては「たまには真面目に哲学的に思索してみよう!」という時もあって(笑)、一つの課題として「今ここのリアルと虚構」という命題へのアプローチを試みてきた・・のでもある。


でまあ、とりあえずの見解として、

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この肉体として意識されている「身体的存在」の地平にあっては、現象世界における「今・ここ」で対峙直面している事象の本質は「実体のない虚構(様々な要素や条件が重層的・複合的に構築されたフェイズとしての)」であるが、

それに『リアル』が反映投射され付与された結果として、眼前に「森羅万象」の一部が「身体感覚」のフレームを通して展開されている。

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・・・という辺りまでなんとか辿り着いていたのだが、

「では、その『リアル』とは何か?」というのが難敵で、どうしてもこれまでその「公案?」の前で立ち往生するしかなかった・・わけである(笑)


しかしながら今回の一連の体験を通して、そこを切り開く啓示が必然的・自動的にもたらされる!・・こととなり、ようやくこの「公案?」を通過した・・・ような気がするのであった。


Q・「では、その『リアル』とは何か?」


A・「『絶対的聖性の本源・本質』としての、神であり真我である『内なる聖火』だけが『リアルの当体そのもの』である」


なるほど、それ以外にあり得ないではないか!!


もちろんこんな回答は、そこそこ「聖典」なり「教え」なりを勉強していれば(それに関する書籍を読み漁っていれば)、結構そこら中に?書かれている真理なのではあり、私とて「知識」としてはとっくの昔に知っていたことではある。

ただ「出来の悪い」ジュニャーナである私には、それが今回ようやく「実感として腑に落ちる」理解がもたらされた・・・ということなのだ(笑)。


ディーパム聖火というものは、
「天地を貫いて屹立する巨大なる光の円柱」であるアルナーチャラの本質が開示される・・・ということの象徴的営為の儀式であるのだが、単に表層的な祝祭イベントなのではなく、

同時にそれは「個人」にあっては分御霊としての「内なる聖火」なのでもある・・!という秘儀・秘蹟として体験することで、私はその
聖火が「リアルの当体そのもの」なのであることを、今回ようやく得心したわけなのだ。


(この問題については詳細に記述しようとすると「論考」的なボリュームになってしまう・・ので、いずれまたどこか別の機会を得て展開してみたい。)












そこから「炎を取り出す」ことができるような・・




そのような「内なる聖火」ならば、今度は逆にその炎を「採火」して無限に分化できる(つまり更なる「分御霊」とも成りうる)・・・ことにもなるはずではないか?

・・・ということにもなってくるわけだが、では私の置かれた現況ではそれはどういう営為となるのだろう?・・・と考えると、やはり「臨在サイト」の質的向上を図るということになるのであろう。


読者の皆様に、この「ラマナ=アルナーチャラという『絶対的聖性の本質的・本源的』な臨在感覚」をいかように表現し伝達し、アルナーチャラ現地への来訪を誘い決定(けつじょう)させうるのか?


それはいささか大仰に表現するならば・・・

「そこから炎を取り出すことができるようなサイト」としてのあり方

をあれこれと試行錯誤しながら実現していく・・・ということなのだ、と確信している。








恒例のおまけ?





例によって、今回この体験に最もふさわしい・・・と感じられる音楽を2つ紹介して、今回のエッセイのクロージングとしよう。


1・「ちっち&寺中名人」によるエレキギター演奏ライブ

「ブルー・スター」



おお、あたかも青白き星の光に吸収されてしまいそうななんと夢幻的な超絶技巧表現であろうか!!







2・「ハンマーグラヴィーア」ソナタ(ベートーヴェン作曲のピアノソナタ29番作品106)

ベートーヴェンの「後期作品群」の一つであり、この規模と内容を超えるピアノソナタは存在しない・・・とさえ言われるのだが、特に第1楽章は完全に聴覚を失い「存在の内側』に向かって深化していくベートーヴェンの内宇宙に於いて、昂然と煌めき迸る神の火花の奔出を想起させるような楽曲であろう。


・・・演奏はもちろんこの曲の定番でもあり、「鋼鉄の響き」で有名なエミール・ギレリスである。


















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