アルナーチャラはインドの最も古く、最も神聖な聖地の一つである。
それは地球のハートであり、世界の霊的中心である。
『スカンダ・プラーナ』は、「聖地の中でも最も神聖な地がアルナーチャラである。
それは世界のハートであり、シヴァ神の聖なる神秘のハート・センターである」と宣言している。
多くの聖者たちがそこに暮らし、彼らの神聖をその丘に融合させてきた。
今日でも、聖者たちは丘の洞窟に住み、ある者たちは夜になると光となって丘の上を動き回ると言われる。
~シュリ・バガヴァン・ラマナ・マハルシ
アルナーチャラとは、丘(山)、寺院の神および町のすべてが同じ名前をもつ聖なる場所であり、タミル語でアンナマライ(Annamalai)と呼ばれます。アンナマライという名は、シヴァ神のタミル名のひとつであるアンナルマライ(Annalmalai)からきたものといわれています。現在町の名はティルヴァンナマライ、アルナーチャラは主としてこの町の背後に聳える聖なる丘(山)をさしています。
アルナーチャラはインドの最も古く、最も神聖な聖地のひとつです。シュリー・シャンカラはアルナーチャラをスメル山(須弥山、古代インドあるいは仏教の宇宙観で、世界の中心に聳えるという高山)として語っています。
そしてラマナはアルナーチャラが地球のハートであり、世界の霊的中心であると宣言しました。
アルナーチャラの起源についての神話
丘の起源について語られた古代の伝説がある。
あるときヴィシュヌ神とブラフマー神は、二人のうちどちらがより偉大かという口論に陥った。彼らの争いが地上に大混乱をもたらしたため、神々はシヴァ神に二人の争いを仲裁してほしいと懇願したのだった。シヴァ神はそのため自分の姿を光の柱に変えると、あなたがたのうち、この柱の先端を先に見いだした者がより偉大であると彼らに告げた。
ヴィシュヌ神は猪の姿をとり、光の柱の底を見つけるために大地を掘り進んでいった。ブラフマー神は白鳥の姿をとって舞い上がり、その頂点を探しに行った。ヴィシュヌ神は結局柱の底を見いだせなかったが、すべての生けるもののハートの中に息づく至高の光を彼自身の中に見いだし、瞑想に我を忘れた。そして彼は身体も、自分が探していたということさえ忘れてしまった。ブラフマー神は旋回しながら落ちてくる花びらを見て、だまし勝ちしようと、それらを持って帰り、それを光の柱の頂上で引き抜いてきたと宣言したのだった。
ヴィシュヌ神は負けを認め、シヴァ神を讃えて祈った。「あなたは真我の知識、あなたはオーム、あなたはすべての始まりと中間と終わりです。あなたはすべてを照らすすべてです。」シヴァ神は彼こそが偉大だと申し渡し、一方、ブラフマー神は恥入って自分の誤りを告白したのだった。
この伝説では、ヴィシュヌ神は自我を、ブラフマー神は知性を、そしてシヴァ神はアートマンあるいは真我を象徴している。
リンガムすなわち光の柱では人々の目にはあまりに眩しすぎるため、シヴァ神は代わりに自分自身をアルナーチャラとして現した。
「月が太陽からその光を得ているように、他の聖地もアルナーチャラから神聖さを得るであろう。私を礼拝し、光明を得ることを願う者たちへの恩恵として、私はこの姿をとった。アルナーチャラはオームそのものだ。毎年カールティカイには平和をもたらすかがり火として、私はこの丘の頂上に姿を現すだろう。」
これはアルナーチャラの神聖さだけを物語るものではなく、アルナーチャラが中心となるアドヴァイタ教義と真我探求の方法がいかに卓越しているかをも表している。「最終的には、誰もがアルナーチャラに来なければならない」というシュリー・バガヴァーンの言葉によって、このことが理解できるだろう。
・・・以上「ラマナ・マハルシの伝記 賢者の軌跡」(アーサー・オズボーン著・福間巌訳)より引用
シュリー・アルナーチャラ・マーハートミヤ(シュリー・アルナーチャラの栄光)
ナンディは次のように言った。
「それは聖なる場所である。すべての中で、アルナーチャラはもっとも聖なるものである! それは世界のハートである! それをシヴァの秘められた、聖なるハートセンターであると知れ!
その場所で、シヴァは輝かしいアルナの丘として、常に住している!」と。
古来の驚嘆すべきアルナーチャラのリンガが形をとって現れた日は觜月(ムリガシラ)のアールドラーの星群の中にある。またヴィジュヌやその他の神々が光り輝く主を礼賛した日は、マハーシヴァラートリの日である。
シヴァは次のように言った。
「実際は燃える火のようであるけれども、この場所での一つの丘としての私の輝きのない外観は、世界を維持するための恩寵と愛情に満ちた気づかいの結果である。ここで私は偉大な一者(シッダ)として常に住している。私のハートの内部には、世界のすべての喜びを伴った栄光もまたみられることを想起せよ。
この壮麗なアルナーチャラは、一見しただけで、存在をエゴと限定された世界に分割するすべての欠点を取り除くに十分なものである。
永続的な骨折りなくして習得できないものーヴェーダーンタの真実の意味ーが、この丘を直接に見えることがのできるすべての人にも、遠くから心の中でその丘を思う人にさえも、容易に獲得されるのである。
この丘の半径三ヨジャナ以内に住むことは、それ自体ですべての欠点を消散させるに十分であり、(イニシェーションなしにさえ)至高者との合一をもたらすであろう、ということを私は定める。」
女神は次のように言った。
「これは、いつも敬虔な帰依者たちの住居である。ここで他者に悪事を行う人びとは、病に苦しんだ後、生命を奪われるだろう。邪悪な人びとは、瞬時に、ここで悪事を行う力を完全に奪われるであろう。火の丘という形を呈している主、アルナーチャラの怒りの燃えている火の中に落ち込まぬようにせよ」
・・・以上「ラマナ・マハルシの言葉」(アーサー・オズボーン著・柳田侃訳)より引用
サイト管理人注記
南インド神話におけるアルナーチャラについて著述されている書籍で邦訳があるものとしては、「神々の世界」グラハム・ハンコック著・大地舜訳があります。
補足的参考文献としては一読の価値があろうか?と思われますし、図書館の蔵書としても普及しているようなので機会があればお勧めします。→
アルナーチャラについてのラマナのお言葉あれこれ&問答&賛歌
☆この宇宙で解脱に達することができるのは、地球だけである。地球上の全ての国々の中でも、解脱においてはバーラタが最上である。さまざまな聖なるパワーが人々に働きかけるバーラタのあらゆる聖地の中でも最高の聖地、それがアルナーチャラである。(バーラタとはインドを表わす古語・・・日本における「ヤマト」のようなもの)
☆アルナーチャラは地球のハートだ。それはシヴァ神の原初の姿であり、叡知の炎の山である。
☆この山はシヴァ神そのものだ。私たちが身体と自己同一化するように、シヴァ神自身もこの山と同一化することを選んだ。純粋な気づきであるアルナーチャラは、慈悲心から、彼を求める人たちのために、目に見える山として姿を現すことを選んだのである。
☆アルナ=赤、炎のような輝き。その炎はただ熱いだけの普通の火とは異なる。これは叡知の炎であり、熱くもなければ冷たくもない。アチャラ=丘。
つまりアルナーチャラは叡知の丘を意味している。
☆アルナーチャラの「ア」は「それ」を意味し、「ル」は「あなた」を、「ナ」は「である」を意味する。
☆「ア」、「ル」、「ナ」は存在、意識、至福を意味するだけでなく、真我、個我、そしてその二つの合一をも表している。
それゆえ、「アルナ」とは「汝それなり」を意味し、「アチャラ」は「不動」を意味するのである。
「静寂の瞬間~ラマナ・マハルシとともに」より抜粋 (Five Hyums To Arunachala p107 「九つの宝石からなる首飾り」第2節より)
☆ヴェーダーンタ哲学の全旨は、四つの言葉に凝縮することができる。
デーハム、身体は、 ナーハム、私ではない。 コーハム、私は誰か。 ソーハム、私はそれである、最初に、なぜ身体が「私」ではないかが説明される。もし「私は誰か」と探求するなら、そのときあなたのハートの中で、全てに遍在する神アルナーチャラが「私は私であるものである」として輝きだすあろう。
「静寂の瞬間~ラマナ・マハルシとともに」より抜粋 (Day by day p113)
☆宇宙はカンバスの上に描かれた絵のようなものであり、そのカンバスが赤い丘アルナーチャラである。立ち現れて沈みゆくものは、それが立ち現れてきた源と同じものからできている。宇宙の究極の姿、それがアルナーチャラという神である。
☆誰がアルナーチャラの偉大さについて語れるというのだろう?
この山はある特定の時に造られ、別の時に破壊されるようなものではない。それはスワヤンブー・リンガムなのだ。「リンガム」という言葉は、「合一」を表す「リンガ」と「形を成す」という意味の「ガム」に分割できる。この言葉には他に神、アートマン、形、シヴァという意味もある。
スワヤンブー・リンガムは、神の自発的な行為によって自然に姿を現す。それは人間の創造でもなければ、地質学的な自然形成でもない。
この山は実際には地上には属さない。天上界の質のすべてが、この山には備わっているのだ。
☆太陽は宇宙を照らし出すが、アルナーチャラの太陽はあまりにも眩しく、宇宙さえ光に覆われて、ただ永遠の輝きだけがある。
アルナーチャラが私のハートを開花させ、ただ永遠に輝き続けますように!
「静寂の瞬間~ラマナ・マハルシとともに」より抜粋 (Talks p429)
問答その1
私は尋ねた。
なぜあなたはこの岩山を神として讃えるのですか?
バガヴァーンは答えた。
アルナーチャラがただの岩の塊だとでも思うのかね?
今もここに、多くの聖者やヨーギーが洞窟の中で暮らしている。
アルナーチャラは神、シヴァ神だ。
アルナーチャラはあなたのハートでもある真我なのだ。
問答その2
帰依者
アルナーチャラの四十八キロ周辺内に暮らす人、あるいはそこで死ぬ人は、求めずとも解脱に達すると言われています。
ところが解脱はただジュニャーナによってのみ得ることができるとも言われます。『プラーナ』も真我の知識を得ることは困難だと述べています。ですから、解脱を得ることは困難なのです。
それなのにこの丘の周辺で暮らし、そして死ぬ人に、アルナーチャラは惜しげもなく解脱を授けるとも言われています。どうしてそのようなことがありえるのでしょうか?
マハルシ
シヴァ神は「私の命令によって」と言っている。ここに住む人は入門儀式や伝授も必要とせず、解脱を得ることができる。それがシヴァ神の定めたことなのだ。
問答その3
質問者
「アルナーチャラに捧げる五つの賛歌」は、あなたによってアルナーチャラに捧げられたものです。あなたはアドヴァイタ学派の師です。どうして神を分離した存在として崇めることができるのですか?
マハルシ
帰依者、神、賛歌はすべて真我なのだ。
質問者
それでもあなたは神に呼びかけています。あなたはアルナーチャラの丘を神として特定しているのです。
マハルシ
あなたは真我と身体を同一視している。帰依者が真我とアルナーチャラを同一視してはいけないだろうか?
質問者
もしアルナーチャラが真我なら、どうして他の多くの丘の中から特別に選び出されたのでしょうか?神はいたる所に存在しています。なぜあなたはアルナーチャラを神と特定するのでしょうか?
マハルシ
アラハバードからこの地にあなたを引き寄せたのは何だろうか?これら大勢の人々は何に魅了されたのだろうか?
質問者
シュリー・バガヴァーンです。
マハルシ
なぜ私はこの地に惹きつけられたのだろうか? アルナーチャラによってである。その力を否定することはできない。アルナーチャラは外側ではなく内側に在る。真我がアルナーチャラなのである。
・・・以上注記なきものは全て「アルナーチャラ・ラマナ 愛と明け渡し」(福間巌編)より引用
シュリー・アルナーチャラへの八連の詩 より 第1~3節 (ラマナが「なんらかの要請によるのではなく全く自発的に」書かれた極めて数少ない詩の一つである)
第1節
よく聴け、それは知覚のない丘として立っている。その働きは神秘的で人間の理解を超えている。物心のつかない年頃から、アルナーチャラは驚くべき高貴な何物かとして私の心の内部で輝いてきた。しかし私はそれがティルヴァンナマライと同じものであることを他の人を通じて知るようになったときにさえ、その意味を明確に理解していなかった。私の心を静めて私をそこへ引き上げ、そしてその近くに私が来たとき、私はそれを不動の状態で(立っている)のを見た。
第2節
「見る者は誰か」。私が内部を探し求めたとき、私は見る者の消滅とその後に生き残る何者かを見た。「私が見た」という想念が現れなかったら、どうして「私は見なかった」という想念が現れうるだろうか。(ダクシナムルティーとして現れている)あなたでさえ、いにしえの時代に沈黙のみによってそうすることができたのに、誰がこれを言葉で伝える力をもつのか。沈黙によってあなたの(超越的な)状態を伝えるためにだけ、あなたは、天空から地上まで光り輝く丘として立っている。
第3節
私が、形をもつものと見なしてあなたに接近するとき、あなたは地上に一つの丘として立っている。もし(心をもって求道者が)形のないものとしてあなたに(不可欠な)形を探し求めるならば、彼は(つねに存在する)エーテルを見るために、地球を旅する人のようである。想念なしにあなたの(限りのない)本性を熟考することは、砂糖人形のように、人の(分離された)自己同一性を消失させることである。(ネクターの)海と接触するようになったとき、(また)私が私は誰かを悟るようになったとき、(あなたのではない)他の何がこの私の自己同一性なのか。ああ、高くそびえるアルナの丘として立っているあなたよ。
・・・以上「ラマナ・マハルシの言葉」(アーサー・オズボーン著・柳田侃訳)より引用
おお、アルナーチャラ=ラマナ !!
時代のニーズに適合する新しい道の創造は、アルナーチャラを世界の霊的中心にした。
バガヴァーンが肉体を脱ぎ捨て、アルナーチャラと共にある今日では、バガヴァーンから発してかれを頼りにし、
かれの援助を求める人々に向けられる恩寵と指導は、以前にもましてアルナーチャラに集中されている。
それは聖なる場所であり、多くの人びと、マハルシの在世中その弟子であった人びとと後からやってきた人びとの双方がそこに引き付けられている。
~アーサー・オズボーン
「父なる火」アルナーチャラと「火の息子」バガヴァン・ラマナとの神秘な関係は、その生涯と教えを理解するうえで、現代に生きる私たちに多くの示唆を与えているように思われます。
アルナーチャラは神(シヴァ)それ自身ですが、それはまた南インドに現存する有形の丘(山)です。バガヴァン・ラマナにおいてこれは別々のものではありません。山が神であることは私たち日本人には比較的理解しやすいことですが、それが知恵であり、真我であるということを理解するには困難が伴います
ラマナ・マハルシにとっての不二の実在は、ブラフマン=アートマンとして言及される真我です。しかし世俗の多様性の世界の観点からみると、真我はあたかも属性をあたえられたように見え、それは神と呼ばれます。世界(宇宙)は、この神によって神から顕現したものであり、真理を見るものには実在しません。
この神はイーシュワラであり、絶対者である無属性のブラフマンに対して有属性のブラフマンと言われます。それは人の心から出てきた幻影にほかならないものですが、シャンカラがそれを「名称と形態に存する諸美徳をもつものとして念想のために説かれている」と述べたように、「修行者にとって必要なもの」とされています。
既に実在の至福の中に定住していたラマナが、神をアルナーチャラとして認め、それへの帰依と熱望を表す多くの賛歌を書いたのは、未だ迷いの世界にいる帰依者、修行者たちを思ってのことである、と言われます。しかしラマナにとっては、神なるアルナーチャラへの絶対的放棄と賛美が真我の知識と不可欠のものだったのです。
アルナーチャラはラマナ自身にとって、神であり、父であり、グルでした。一般に人格神への献身は信仰(bhakti)の低い形態と見なされがちですが、ラマナのアルナーチャラへの献身は強い人格的な含意によって満たされたものでした。
南インドの聖地の中で、アルナーチャラは宇宙の五大要素の一つとしての火を象徴しているとされてきました。ヴェーダによれば火という象徴は知恵(jnana)を意味します。
実はアルナーチャラの丘は無属性のブラフマンである真我の知恵(jnana)が有属性の神への信愛・献身のなかでこそ与えられる、という真実を示すために聳えている、ということを教えたのがラマナであり、それが彼の恩寵だったのではないかと思われるのです。
このような人格神的要素を強く持つアルナーチャラへの献身と賛美が、真我探求の様式を濃く彩っているところに、この賢者の魅力があると言っても良いでしょう。
シュリ・ラマナはアルナーチャラ到来から54年間、一度もそこを離れることはありませんでした。アルナーチャラとシュリ・ラマナは不可分離のものとして運命づけられていたのでしょう。『アルナーチャラへの5つの賛歌』の多くの頌は、そのことを余すことなく示しています。また、次のような逸話が伝えられます。人はたとえば新しい万年筆を手に入れたとき、またはインクを入れ直したとき、紙面に試し書きする文字は、多くの場合自分の名のサインですが、ラマナは必ずタミル語で「アルナーチャラ」と書いたといわれています。(Ganesan,Moments Remembered)
シュリ・ラマナとアルナーチャラの関係の神秘を物語るもっとも印象的な出来事は、マハー・ニルヴァーナの瞬間に大きな星の形をした明るい光が南東の空に現れ、壮大に弧を描いてアルナーチャラの丘の頂上に溶け込んでいったという事実です。非常に多くの人が遠くからもこれを目撃しました。このことは、シュリ・ラマナがアルナーチャラという「至高の真我」の「宇宙光」の中に溶け込んでいったことを表すものと信じられています。
まことにシュリ・ラマナは人間の形をとったアルナーチャラの真我でした。そして今アルナーチャラは山の形をとったシュリ・ラマナご自身なのです(Subbaramayya)。
バガヴァンの生涯は、この愛と献身が知恵の道である真我の探求と異なるものではなく、両者は同じものであることを教えています。アーサー・オズボーンが言うように、バガヴァンが肉体を捨て、帰依者のハートの中の存在となった今日、そのことはより理解しやすくなった、と言えるでしょう。
私たちは今、人間の姿をしたラマナに会うことはできません。しかしかれは今もアルナーチャラ・ラマナとして変わることなく存在しているのです。
その教えを理解するもっとも容易な方法は、そのかれを訪ねることです。
アルナーチャラの丘は、今も私たちにラマナの教えと恩寵を与え続けています。
そしてこの聖アルナーチャラ山の周囲13キロ半を巡礼する行為が「ギリプラダクシナ」です!!