アルナーチャラの丘を右肩に感じながら真っ暗闇の中を前方の一点を見つめながら独りで静かに歩いているとき、神(シヴァ)、グル(バガヴァン)と真我の合一、一体感を味わうことができます。
わたしはギリプラダクシナの体験を重ねることによって、そのことをよりよく理解することができました。
以上は柳田文献(柳田侃著述による関連資料群)よりサイト管理人の任意による抜粋編集
ラマナご自身によるギリプラダクシナへの言及のあれこれ
ここにあるすべての岩はリンガムである。ここの食べ物はすべて不老不死の妙薬だ。ここに生える木々は天上界に属する。
ここの水はシヴァ神の髪から流れ出たガンジス河の水だ。
ここはシヴァ神の領域である。ここで歩む一歩は全世界を巡るに等しい。居眠りでさえサマーディとなる。この聖なるアルナーチャラに等しい場所が他にあろうか?

他の聖山は神の宿る山だと言われている。だがアルナーチャラは山の姿をとった神そのものだ。
だからこそ、アルナーチャラの周りを歩くことには、特別な神聖さが伴うのだ。

インド中、そして世界中の無数のシッダ・プルシャ(真我実現した賢者)がアルナーチャラを訪れ、山の周りを回る。
彼らは光の姿でやって来る。私はこれまでその光を見てきた。もし本当の帰依心があるなら、あなたにも彼らが見えるはずだ。

プラダクシナは「すべてが私の中に在る」を意味する。アルナーチャラの周りを歩いて回ることには、世界を一周するに等しい霊験がある。
つまり全世界がこの山の中に凝縮されているということだ。それゆえ、すべてが真我の中に存在するのである。

「ギリプラダクシナより良いものは何もない、それだけで十分だ」。

そして21世紀の現代インドにおけるギリプラダクシナ・・・
<アルナーチャラは不滅!>
(サイト管理人注記・この文章が書かれたのは93年4月である)
昨年から一部始まっていたプラダクシナ・パスの舗装工事が本格的になり、以前にははだしの足に心地よかった砂地の道に、角のとがった石ころが敷き詰められ、コールタールで固める「簡易舗装」の工事が大々的におこなわれているのです。舗装の出来上がったところはともかく、石ころを敷き詰めた道は、まさに”針のむしろ”です。「わたしは肉体」という想念をを捨て、足の痛さを逃れようと必死でそこを通り過ぎると、また次々に難所がやってきます。
ギリプラダクシナ・パスの舗装は、幹線道路のトラックなど交通量増大による混雑を緩和するため、バイパスを作ろうという州当局の計画によるもののようです。
都市間の物流の便を計る目的で、地元住民には直接何の利益ももたらさず、逆にトラックの轟音で安眠を妨げられるだけの、「悪しき開発」の典型がここにみられます。
もちろん沿道の宗教施設への影響やギリプラダクシナをする人々への配慮など全くありません。
間もなくわたしたちは、完全に舗装された道路の上だけを通って、アルナーチャラを一周することになるでしょう。バガヴァンが通った頃を彷彿とさせる静かな並木道と美しい聖なる山という情景は、すっかり影をひそめてしまうでしょう。
(サイト管理人注記・2015年現在ではまさしく「完全に舗装された道路の上だけを通って、アルナーチャラを一周する」状況となった。「静かな並木道」は僅かに面影を残している)
しかし、わたしたちは嘆き悲しむ必要はありません。このような「近代的開発」が進めば進むほど、人びとは失われた本来の自己を求めて内面の世界に注意を向けるでしょう。周囲の道がたとえコンクリートで固められようとも、
「神そのもの」であり「知の精髄」であるアルナーチャラは厳然と聳え立ち、わたしたちの「エゴを根こそぎに」し、無知から解き放ってくれるに違いありません。アルナーチャラは不滅です。
「アルナーチャラよ!あなたはハートの中で瞑想するもののエゴを、根こそぎにする。ああ、アルナーチャラ」
以上柳田文献(柳田侃著述による関連資料群)より抜粋
第3部は「実際のルートを歩く」ための解説です。
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