「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)

 

~SRI H.W.L.POONJA

崎山綾子翻訳

 

 

 

 

第11章 精神修行について:存在は修行で達成できない ☆Part1-d

 

 

(サイト管理者より・・・・画面構成の都合上、章全体を複数ページに分割して掲載します。用語解説は各ページ末に収録)

☆Part2☆Part3

 

第11章は全体が長大なので、小見出しごとに☆Part分割したファイルを更に、a,b,c...と細分割して掲載します。

[a][b][c]

 

 

 

 

 

 

 

前ページ(Part1-c)からの続き・・・・

 

 

探求、修行、過程という罠

 

 

 

Q:度々あなたは仏陀を例にあげます。私の理解によると、彼は瞑想を通じて悟りを達成したことになります。しかし、あなたは瞑想には限界があると言っているように思えます。これについて話していただけますか? 仏教徒としては瞑想しなければなりません。


 

 仏陀としてではなく仏教徒としてだ。仏陀は死んで、彼の弟子達は彼がしたようにすることができなかった。弟子達は仏陀がしたように全てを放棄することができなかった。その為に、弟子達ができる事をやらなければならなかった。しかし彼らは静かに座っていない。

 仏陀は全てを、瞑想でさえも放棄して静かに座っていた。彼はただ静かに座っていた。彼の自由は瞑想の結果ではなかった。仏教徒は仏陀について、悟りについて考えたことがない。彼らは宗教的修行と方法に忙しくて仏陀がしたように静かに座るということを忘れてしまった。

 だから、賢明に「私は誰か」というこの質問を解決しなさい。そうすると分かるだろう。これを教える教師はいない。アーナンダが菩提樹の木の下で仏陀が見つけたものは何かと尋ねても仏陀でさえ話すことは出来なかった。沈黙したままだ。この沈黙は説明することは出来ない。

 しかし、どこに行っても沈黙ではなく、教師の言葉の遊びが氾濫している。真理から逃げ出さないことだ。仏陀は逃げ出さなかった。滞まった。それを得るまで何も食べなかった。この強い決意が必要だ。逃げ出さないこと。それはあなたが決めることだから、私はこれ以上何も言う必要はない。


 

 マスターが死んだ後、弟子達はその教えに従わないものだ。あるマスターの部屋にネズミがたくさんいて、瞑想中に彼の足を噛んで瞑想の邪魔をした。この理由から彼は猫を飼うことにした。そうすると全てのネズミは消え失せた。

 彼には二人の主なる弟子がいた。その一人が二匹の猫を飼うことにした。猫は瞑想中彼の両足に繋がれた。なぜなら彼のマスターがしたよりも二倍の効果があると考えたからだ。

 もう一人の弟子がこれを見て、競争心を起こして4匹の猫を手に入れて、両手両足に猫を繋いだ。さて、彼らの弟子の数が猫の数に比例して増えていったので、お互いに競争して猫の数を増やして行った。今度は彼らの弟子達も猫を飼い始めた。こうして瞑想は忘れられてしまった。

 ネズミを取り除く為にマスターは猫を飼った、これは全く理屈にかなっている。しかし、猫の為に悟りが起こったのではない。これが世間で起こっていることだ。

 

 

Q:何年もの精神的訓練は無執着とリラックスを生み出すように思います。悟りの前に過程や進展があるのですか?


 

 真理は執着と無執着を越えている。執着しているものから無執着になると、他の何かに執着するものだ。だから、無執着は執着する他の何かが必要になるので、それは無執着ではない。執着は無執着に依存し、無執着は執着に依存している。

 本質は全ての概念を越えた所にある。それは想像を超えたものであり、進歩も過程もない。

 進歩するには誰かによって過去からの方法を与えられることだ。誰かが従った方法があなたに与えられる。そうして練習し始めるのだ。だからどんな方法でも、あなたが獲得したいものを頭に描いて練習を始める。何年後には達成することができるだろうと計画されている、前もって計画された達成だ。この計画はあなた自身の思考の産物だ。

 現実にはそれはすでに「ここ」にあるのだから過程はない。すでに「ここ」にないのなら、手段を通じてそれを手に入れてもいずれ失くすだろう。手に入れたものはいずれ失くすものだ。

 しかし、もし手に入れたものでないのなら、それを失くすことはない。なぜならいつも「ここ」にあって、いつも「ここ」にあり続けるからだ。

 

 

Q:本や練習は必要ないとあなたは言いますが、あなた自身多くの本を読んで、何千時間という*1サーダナをしたと聞いています。それならなぜこの助言をするのですか?


 

 理由は、私が7歳か8歳のときある体験をして、真理がそれ自身で姿を現した。私が努力したわけでもなく、訓練したわけでもない。それはただ、それ自身で姿を現したのだ。

 誰もこれについて説明してくれなかったし、どんな本にも書かれていなかった。後に多くの聖者が書いた本を、ギータ、バカバタム、ウパニシャッド、ベーダも含めて全て読んだが、私自身の経験とピッタリ一致するものは何もなかった。

 誰もかって「私である」ところの「それ」について話していないと分かった。理解の為に私は多くの本を読んで、北から南まで旅して多くのグルに会った。

 しかし、彼らが話した事は本に書いてある通りで、本に書かれたことをそのまま話しているにすぎなかった。私が会った数人の人たちは誰も真理を達成していなかったし、「それ」について話すこともなかった。

 その為に私は、全ての教えや本や誰かが「それ」についてのべた文章を拒絶した。そうして私は私のマスターに会ったのだ。

 数人の人達は私の言っていることを理解して、「それ」を掴んだが、彼らは何が起こったのか説明することは出来ない。40年間私は人々に説明するようにと頼んでいるが、誰も説明することはできない。理由は説明に必要な知性とマインドが伴って来ないからだ。

 あなたは全く一人だ。マインドなし、知性なし、あなたは一人だ。「それ」を手に入れた人達はそれを説明することは出来ない。彼らは何を手に入れたか分からないが、彼らは手に入れたことを知っている。

 それは経験でさえもない。なぜなら経験はマインドに依存しているからだ。マインドが経験者、経験の対象、それらを信じ続ける経験を創り出す。それらは全て説明することができる。

 しかしマインドを越えたものは説明することはできない。知識の本ベーダでさえ、4巻の後では「ネィティ ネィティ」と述べている。25000年前に書かれたこの本は「それ」は書かれ得るものではないと正直に話している。最良の説明はネィティ ネィティ、「これでもない、これでもない、私は知らない。」

 

 

Q:私はとても誇り高いマインドを持っています。しかし、先週あなたはプライドの寄生的性癖を全て明らかにしてくれました。この経験を通過するのは病気を通過するようなものでした。このことに深く感謝しています。パパジ、完全な悟りは過程を踏むのですか? それとも過程という考えは延期するということですか?


 

 あなたの本質はどんな過程を通しても達成することは出来ない。この過程という考えは悟りを延期しているだけだ。全ての人が過程を踏み、延期したい。

 彼らは巡礼地を回ったら平和を得るだろうと期待して巡礼者になる。しかし平和を得ることはない。彼らは慈善事業をやり、寺院や橋や井戸を建築するが、それによって平和を得ることはない。人々が遂行したこれらの活動は、死後天国に行って報われるだろう。無駄にはならない。

 しかし巡礼先のヒマラヤで高山病で苦しんでも、平和を見つけることはできない。たとえ29000フィートのエベレストの頂上に行ったとしても、平和を見つけることはできない。そこに行った人々は、平和を見つけることができず、消耗して帰って来た。

 平和はどこにも見つけることは出来ない。海の底にも、空の上にも。平和は簡単に、過程を踏まず、手に入れることができると知るまで、平和を求めて、何年も費やさねばならない。ただ、一度か二度サットサンガに出席するだけで、今生で、今年に、この時間に、今に、悟りを得るかも知れないのに。


  今生で自由になるのだと決心したなら、
  マインドがあるというのは作り話しだと分かるだろう。


 このマインドが延期だ。延期がある所にはマインドがあるに違いない。そして何世代に渡って延期されてきたに違いない。誰もが延期するのを止めてどんなことをしてもそれをやり遂げると決意するだけでよい。

 この強さがやって来ると「それ」はそれ自体で姿を現す。過程を踏まず、努力とは全く関係なく、それは起こる。ある人はそれを恩寵と言っているが、内なる美によってこの恩寵を勝ち取りなさい。

 外側の美しさはあなたに平和を与えることはない。二日前、ミスユニバースのコンテストで外側の皮の美しさを見ただろう。この美は二・三年で消えてしまう。

 だからまず内なる美を考えなさい。内なる美を見るなら、どんな審判も、競争も必要ない。人々はこの内なる美によってあなたに引きつけられるのだ。

 

 このティルヴァンナマライのマハルシはどんな称号も持たないが、彼は美しさの全てを持ち合わせた最も美しい人だ。

 女王が彼の所にやってきて、ダイヤモンドや宝石や他の物が彼の前に差し出されたが、彼はそれを見ることさえしなかった。

 スペインのソフィア女王がやってきたとき、私はその場にいた。彼女はアシュラムのマネージャーに近づいて、彼女をマハルシに紹介するように頼んだ。そうして金の装飾品やダイヤモンド、籠一杯の果物がマハルシに運び込まれた。マネージャーはマハルシ自身の弟であるが、マハルシにその贈り物を見てもらいたかった。何千ドルの価値がある物をもって来たのだ。女王を祝福してもらいたかった。

 しかしマハルシは彼女にも彼女の持ってきたものにも目もくれなかった。私はこれを見ていた。多額のお金とあなたの前を女王が歩く、あなたはそれを見ないはずがない。彼女とお金を見て、少なくともありがとうと言うだろう。

 しかしマハルシは山のように不動であった。そのときあるスワミが「マハルシはあなたを祝福しているのですよ」と女王に告げた。しかし彼女は、このインドスタイルの祝福を理解することができなかった。

 不動、何も見ない、目はあいているが、彼女を見ていない。これが本当の美しさだ。

 

 

Q:パパジ、この美しさ、究極の自由への道をどうか私に示して下さい。


 

 自由への道があると誰が言ったのかね? どこでこの地図を手に入れたのかね? 道はないのだ。

 

  自由への道はない、「道」とはどこからか出発して、他のどこかに到着するということだ。
  そして、目的地までの距離がある、
  しかし、あなたはどこにも行く必要がない。
  距離を創り出すのはマインドのトリックだ。
  だから、道も、自由も両方忘れてしまいなさい。
  忘れてしまったら、あなたが「いる」ところにいなさい。
  他の場所に走る必要はない。
  とにかく、このマインドの概念を取り除かねばならない。

  どこにいようともあなたのいる所にいなさい。

  これを実践したなら、即座に、
  何億年もの間、探し求めていたものは、「あなた」であると分かる。
  探求は必要ない。
  探求は失くしたものを探すことだ。
  何も失くしたものはないのだから、
  それを探し求めることは意味がない。

  ここで、ただ、静かにしていなさい。
  マインドから思考を起こらせないことだ。
  そうするとあなたは本当に誰か知るだろう。

 

 

 

次ページ(Part2)に続く

 

 

 

 

 

用語解説

 

*1サーダナ 神霊的修練、修行

 

 

 

 

 

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