「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)

 

~SRI H.W.L.POONJA

崎山綾子翻訳

 

 

 

 

第11章 精神修行について:存在は修行で達成できない ☆Part1-b

 

 

(サイト管理者より・・・・画面構成の都合上、章全体を複数ページに分割して掲載します。用語解説は各ページ末に収録)

☆Part2☆Part3

 

第11章は全体が長大なので、小見出しごとに☆Part分割したファイルを更に、a,b,c...と細分割して掲載します。

[a][c][d]

 

 

 

 

 

 

 

前ページ(Part1-a)からの続き・・・・

 

 

探求、修行、過程という罠

 

 

 

Q:あなたは、悟りは今ここにとおっしゃいますが、私は過去に夢から覚めようと一生懸命に努力しましたが、失敗に終わりました。

 

 

 あなたの失敗の原因はこれだ。あなたの努力! 悟りを見つけるには、一秒でさえも努力する必要はない。試みること、努力することは延期することだ。それは時間でこの時間がマインドでマインドはエゴだ。それがここラクナウで我々が理解していることだ。

 今ここで、何も望まないで、何もしようとしないで、あなたは誰か言ってごらん。もし見つけようと努力しないなら、失敗することはない。何もしないで、今すぐにそれを手に入れないのかね? 努力しないこと、考えることすらしないこと。そうすると、あなたは誰か分かるだろう。

 

 

 

Q:悟りの道では努力は重要ですか?(彼はパパジに蓮の花を手渡す)

 

 

 湖の蓮の花が開くのにどんな努力が必要かね? 蓮の花は湖に育つが、湖に触れることはない。足が湖に触れているだけで、頭は触れていない。このように足で努力し、頭では努力しないことだ。そうすると、あなたはあなたが住んでいる世界と何の関係も接点もないことが分かるだろう。

 このサンサーラは湖だ。蓮の花のように生きたいのなら、世界と何の関係もないように生きなさい。ほとんどの人が湖の底に溺れてしまって、蓮の花と呼ぶことはできない。

 これは関係性に完全に巻き込まれていながら、しかも全ての関係性から自由に生きたいという少数の人々に対する特別の方法だ。これは秘密だ。もし、あなたが覚めていて、それが必要なら、それを手に入れることができる。さもないとそれは不可能だ。

 平和の為に努力するようにと私は助言しない、それは努力の結果から得られるものではないからだ。最良の道は静かにして、努力しないことだ。

どこかに行く為には努力が必要だ、しかし、あなた自身の真我に行くのに努力は必要ない。努力をしたいというのは、事を未来に延期していることだ。あなた自身の真我に到達する為に未来に進んで行くということだ。

 しかし、あなたは何が欲しいのか? それは、あなたからどれ位離れてあるのか? ただ、理解するだけでよい。そしてそれに到達するのにどのような過程を踏むのか、選ぶことだ。

 「それ」は内側の内側、あなたの呼吸よりも近くにある。一度理解したら、努力は独りでに落ちて行く。最愛の人がどこにいるのか知らないのなら、彼に到達する為に努力しなければならない。彼はあなたの網膜の後ろにいるとき、どのようにして彼を探し出すのか? 

 それは不可能だ。目は対象を見ることができるが、目そのものを見ることはできないからだ。内なる「それ」は非常に近くにあり、密接にあり、ハートの内に隠れている。努力を捨てれば、「それ」は「それ自身」で姿を現す。

 

 

Q:長い間探求し続けてきましたので、やっとあなたの処にやってこれて、本当に嬉しく思っています。私は27年間、ヴィッパサナをやり、ハタヨーガを22年間やりました。私は簡単にサマディーにはいることができます。40カ国の300箇所以上の聖地に巡礼しました。ある程度の平和を見つけましたが、まだ充分ではなくあなたの助けを求めてやって来ました。

 

 

 多くの修行をし巡礼もし続けて、サマディーと平和も見つけた。しかし、聖地巡礼や修行は決してあなたを満足させることはない。今あなたは消耗してここにやってきた。

 ここでは、どんな修行もどんな教授も与えない。あなたはいまだかってあなた自身の真我に入っていく最高の道を訪ねたことがない。「私」は誰かと質問したことがない。

 修行をしてきた「私」、聖地を巡礼し続けた「私」について尋ねたことがない。あなたはこの「私」がどこからやって来るのか見つけ出す為にここにやって来たのだ。

 これについては、どの教師もあなたに教えなかった。今、確かな答を出してもらいたい、どこから「私」が起こって来るのかね?

 

 

Q:(沈黙)

 

 答えることができないのかね?「私」の源泉を探しているとき、マインドはどこにあるのかね? 修行や巡礼をしてきた「私」の源泉を探しているこの短い時間にマインドは働いているかね? マインドはどこにあるのかね?

 これも又、分からない。それならたぶん、マインドはないと結論を下すことができる。もしそこにあったなら、それを見たに違いない。マインドー時間ー空間の間には何の違いもない。

 あなたを空間と場所に連れていったのはマインドで、全ての修行をしたのも同じマインドで、サマディーに入っていったのもマインドだ。マインドはあなたを騙し続けてきたのだ。

 あなたは功徳をつんで来たに違いない。私はそれを認める。この功徳が、今報われるのだ。エゴがヒマラヤの頂上にある寺院を訪ねようと提案することによってあなたの邪魔をし続けて来た。

 現にそこに行く人々はエゴを大きくして帰って来る。エゴはそれらの寺院を訪ねたと言うことによって、行く前よりももっと大きくなる。彼らは寺院の「神」が何を与えてくれたのか何も言わない。

 それらの寺院から得た*1プラサードは平和でも幸福でもなく、菓子やココナッツや果物である。彼らはこれで幸福だ。彼らが戻ってきて、これらのプラサードを友人や家族の間で分かち合って幸福だ。

 世界中であなたに平和を与えてくれる場所は存在しないし、あなたに悟りを与えてくれる「神」も存在しない。あなたは数多くの寺院を訪ね続けて来たが、私が今あなたを連れて行こうとしているあなた自身のハートの洞窟にある寺院には訪れたことがない。

 「私」の源泉を見つけ出すことから始めたが、以前の「私」はそれを見つけ出すことができなかった、「私」は消えてしまった、マインドは消えた、空間も消えた、時間も又消えた。

 さて、三度目だ、場所や人やマインドや時間を考えることなしに、思考や努力なしに「ここ」に滞まって、もし何か見えるのならそれは何なのか言ってごらん。

 

 

Q:分かりません。

 

 ああ、あなたは分からない。「分からない」と言っているのは誰かね?「分からない」というのは知識そのものだ。分からない、何もない、無だと知ることができるこの「私」は何なのか? この「私」は何かね?

 

 

Q:分かりません。

 

 又、あなたは分からない。なぜ、分からないのか言ってあげよう。何かを知る為、又は何かを見る為には必ず「私」がそこにあり、マインドが必要だ。「私はハンカチを見ている」―観察者、見ている人がいるに違いない。

 あなたは対象を見ている人だ。さて、誰が見ている人かね? 見つけ出しなさい。対象を見ているとき、あなたは観察している。そして対象は観察されている。さて、誰が観察者か見つけ出しなさい。

 

 

Q:これは難しい。

 

 なぜ、難しいのかね? あなたは40カ国の300箇所の聖地を観察した。これは難しかったかね?おそらく肉体的な困難があったに違いない、

 これに関して、誰が疲れきったのかと尋ねることが出来る。肉体が疲れた、肉体の疲労を観察したのは誰かね? 見ている人を見る為に何をしなければならないかね?

 答えは見ている人を見ることはできない。なぜなら、そのとき二人の観察者が必要となる。しかし観察者は一人なのだから。観察者を見ることができないのなら、何をすべきかね? 

 答は簡単だ。観察者は見られたことがないし、誰にも触られたことがない。それではどうするのかね? 言ってあげよう、観察者は肉体であるはずがない、なぜなら肉体は見られるからだ。それはマインドであるはずがない、なぜならマインドは考えるが、あなたはマインドが考えるのを見ている人、知っている人だからだ。

 今、あなたは拒否することなしに「私は観察者だ」ということを受入れなければならない。それをあなたはしていない。あなたは他の誰かを捜し求め続けてきたが、平和の中で忍耐強く静かに座り続けて来たあなた自身の真我を探したことがない。

 これには時間はかからない。とても近くに親密にいるのだから。これがあなたが見逃す理由だ。近すぎるのだ。目は指を見ることができるが、どうして目が目を見ることができるのかね?

 

 

Q:鏡の中で見ることができます。

 

 そうだ、鏡は目を映し出すが、鏡を取り除いたら、反映も取り除かれる。そのように反映そのものである「私」という鏡を取り除きなさい。他の反映を見る為には誰かが「私」の中に反映している。

 それを知る為には目の網膜の後ろに行かねばならない。

 

 

Q:どのようにして?

 

 見るためには網膜の後ろ、どこからかメッセージがやってくる。「私」は反映で網膜が観察者だ。もう一歩後ろに戻りなさい。そうするとあなたが見る全ては真我の中にあり、真我からやってくると分かる。私は真我だと知りなさい。私は真我だ。

 これを疑うことができるかね。

 

 

Q:疑いません。しかし、私には分かりません。

 

「しかし」は疑いだ。疑いと「しかし」の間には何の違いもない。疑うと地獄、7番目の地獄に行くのだ。

 

 

Q:私は川の岸にいて、川に飛び込んでいないという感じがします。

 

 あなたが行ってきた修行や瞑想は川の岸で行ってきたのだ。あなたはどこにも行かなかったし、どこにも隠遁しなかった。

 なぜ長い隠遁を続けるのかね、「今」に定住することが即座の隠遁だ。

 いつか何かを放棄するのではない。どこにいようともあなたは「ここ」にいるのだ。あなたがしなければならないことは「これは実在しない」という考えや「それは実在すると証明すべきだ」という考えを取り除くことだ。だから、どこにも移動しないし、何も放棄しないで、単に何が真実であるか見つけ出すことだ。確実でないものに執着しないことだ。

 教師達との出会いと聖地の訪問は川の岸辺で起こったことだ。サットグルの所に行くと彼はあなたを見つめて、あなたは静かになる。しかし他の教師がこれをやってもうまくいかない。なぜなら、教師達はこの方法ではお金をつくることができないからだ。

 最も近いメッカは内にある。それは「ここ」にある。その為に祈る必要はない。どこにも旅をする必要もない。単に静かにして、マインドが走っていないことを見ることだ。

 最初は、マインドが競争するなら、連れ戻しなさい。再び外に走り出す、再び連れ戻しなさい。ゆっくりとマインドはどのようにして静かにするのか学んでいく。さもなければマインドは叩かれるだけだ。

 全ての方法は知的、心理的で実践的ではない。無方法が実践的だ。無方法の中で全てが起こる。この無方法の中では、何も切望しない。探求も手放しなさい。無方法は努力でも無努力でもない。それは、考えることでも考えないことでもない。

 

 

Q:努力がいらないということをただ信じることが出来ないのです。何かが起こる唯一の方法は、私がその中に私の方法で押し込むことによってだと私はいつも感じて来ました。

 

 一度押すことをやめたら、引っ張られる力を感じるだろう。この引っ張る力があなたを内に動かして行くのだ。全ての努力を捨てなさい。

 押し込むことでは何の効果も得られない。それはその中にあなたを引っ張り込んで底に沈みこませる渦のようなものだ。櫂を投げ捨て、マストを折って、ただ静かにしていなさい。

 後は、あなたの為に全てがなされる。

 

 

Q:もし私が何もしないのなら、これが起こると信頼することができません。

 

 「それ」はそれ自体で起こっている。あなたが「ここ」でやっていると考えているのかね? ただ静かにして、持っている全てのものを投げ捨てなさい。そうすると非常に楽な航海となる。あなたが船を操縦してきた為に多くの事故が起こった。

 櫂を捨て、川の流れと一緒に行きなさい。ハートが開くのに時間を与えなさい。もし、努力するなら、それは開かない。静かにしていなさい。マインドを内に向けて、ハートに話をさせて、あなたを案内させなさい。

 思考がないとき、ハートが開く。ハートを働かせなさい。努力をすることによって、それを妨げないことだ。

 

 

Q:私はこれを感じています。エネルギー・チャンスがやってきているのを感じています。しかし、それは波のように行ったり来たりするように感じます。何かがエネルギーをブロックしているようです。

 

 「やって来る」というのは開くことだ。「閉じること」は努力という形でそれに反抗していることだ。あなたは何億年もの間、努力し続けて苦しんできた。何が欲しいのか今決めることだ。努力と苦しみか、オープンハートと幸福か? それはあなたに掛かっている。

 

  ブロックはない。

  「今」があるだけだ。

  達成するべきものは何もないのだから、意図することは何もない

  ブロックを避ける為に何かをすることがブロックなのだ。

  沈黙はいつも存在し、いつも完璧で概念を越えている。

 

 

Q:私はそれを終わりにしたい。

 

 それなら「今」終わりにしなさい。誰があなたを引き留めているのかね? 全てはうまく行く、心配しないことだ。そして、挫けないことだ。それは起こっているのだから。

 

 

次ページ(Part1-c)に続く

 

 

 

 

 

用語解説

 

*1プラサード 神、グルからの贈り物、授け物。

 

 

 

 

 

←目次に戻る

 

前の記事に戻る→←次の記事に進む