生前解脱した聖者にとって、死とは単に「肉体という衣」を脱ぎ捨てただけだとされており、そういう背景のもとに、ここでは死後65年以上経過した現在であっても、
あくまでラマナ・マハルシがサット・グルであるからなのです(これを可能としているのはアルナーチャラ山の、とてつもない超越的聖性というべき力であろうかと思います)。
彼は死の少しまえに「人は私が去ろうとしていると言う。しかし私がどこへ行く事ができるというのだ。私はここにいる。」と述べていますし、亡くなった瞬間に上空に巨大な光の玉が出現し、アルナーチャラ山の頂上に向かって飛んでいった!!というエピソード(当時の目撃者がまだ少なからず存在しています)が彼の現存の証左でしょう。
これは単に文学的修辞ではなく、瞑想ホールなどで座っておりますと時として「ああ、ラマナがおわしまする!」と確かに実感する事ができます。この感覚を単に自己陶酔的心理操作による錯覚であると考える人はそれ以上踏み込めないでしょうし、あるいは逆にこれはいわゆる霊能力によるものではないか?と考える(あるいは勘違いする)人もいるでしょう。
しかしラマナの存在を感じるという事は何か特別な能力ではなく、要は「恩寵」というものを直接体験として理解できるか?がカギであると思います。「バガヴァンの臨在」は特別に神秘的でも、ましてやオカルト現象ではないのですから。
Sri.RamanasramamはYogaアシュラムではないのでYogaの身体操作の技術を学べるわけではありません。
一般的にYogaアシュラムというと、指導者たるマスターの元に明確なカリキュラムが用意され、スケジュールも決まっていて定められた期間まじめに勉強してすごせば終了証がいただけるという、システム化した資格取得の為の学校のような感じの所も多いわけですが、ここSri.Ramanasramamにはそのようなものは一切ありません。
信奉者・求道者がいくらここに長期滞在しているところで、何か「立派な肩書き」がもらえるわけではないのです。ここに在るのは聖アルナーチャラ山の比類なき恩寵と、それと一体化しているラマナ・マハルシの直接的指針だけなのです。
アシュラム・ゲストには質素な部屋と三度の食事&午後のティータイムのお茶が供されます。ただそれだけです。
ヒンドゥの祭式による様々な儀式やヴェーダ聖典の詠唱、バジャン(御詠歌のようなもの)は日課としておこなわれていますが、これらへの参加・不参加はあくまで自由であり、
誰からも一切強制されず指導もありません。セミナーもレクチャーもワークショップも全くありません。
なぜならばここは何かしらを「達成・獲得」するためではなく、ラマナ・マハルシの教えの本質である「私とは何か」を探求する場所だからです。
Sri.Ramanasramamの生活は「何か」をしている、「何か」である状態を強要されないので、そこへ放り出された「私」は「私」そのものに直面せざるを得ません。まさしく自己探求にふさわしい場所といえるでしょう。
ここへは人それぞれの「問題」を抱えてやってくるのですが、考えすぎて何が何だかわからなくなった時は、ふと気づけば聖アルナーチャラ山は「ぐははは…」と沈黙の笑いで恩寵を放ち続け、ラマナ・マハルシは探求者の魂それ自身へと、直接働きかけてくれるわけです。
アシュラムにあって「グルのダルシャン」こそは最重要であるわけですが、ここでは 24時間無制限、いつでもOK! ということです。
そしてただ単に「在る」こと自体が「至福」そのものである・・・!という真理を体験できれば、それがヨーガの学びの本質であると確信します。これがこのアシュラムの最大の魅力であるといえるでしょう。