したがってここで何をするのか、何を学ぶのかについては完全に個人の自由と責任になります。

 

「何をしていればいいかよく解らない」と感じて困ってしまうかもしれません。

ここでよくよく考えていただきたいわけですが、「何をしていいかわからなくて困る。」というのは逆の見方をすれば、我々は日常生活において常に「何かをしていなければならない。」と強迫的に条件付けられているという事ではないでしょうか?

 

会社へ行って仕事をしなければならない、学校へいって勉強しなくてはならない、家で雑事をこなさなくてはならない。娯楽や趣味でさえうっかりすると、その楽しみを得る為の条件付きの枠組みに束縛されている事にあまり注意がいきません。何故でしょうか?

 

よくアイデンティティの確認云々といいますが、実際我々がやっているのは「何かしている」「何かである」というその「何か」によって「私」を「私」たらしめようとしているのです。特に職業とはその最たるものでしょう。ある人に始めて会った時、我々はその人の職業を尋ねます。そしてその職業内容で、その人物についての大方の見当をつけてしまいます。無職の人物(特に男性)に出くわすと我々は困惑します。その人物について「大方の見当」がさっぱりつかめんからです。

 

普通に社会生活を送るには、「大方の見当」が象徴するシステムに従っていればどうにかなるのですが、それで全てが丸く収まるのなら、「精神世界」なんぞ不必要なわけです。ところがそれでうまくいったためしはほとんどないでしょう。何故ならばこの条件付きの枠組みの中で「何か」によって「私」を「私」たらしめているのはEgoの働きだからです。

 

Egoという機能は常に活動し拡張してゆくようになっています。従って昨日よりは今日、今日よりは明日と、より増幅して情報をとりいれる必要に迫られます。「何か」であり続けるため、「何か」をし続けるためには常に「より以上」の情報が欲しいのです。そうでなくては「私」を維持できないのです。

  

さてそこで自分の職業にまつわる一切のあれこれ、家族・友人・あらゆる人間関係における様々な物事や思惑、そしてTV・ラジオ・電話・ケータイ・パソコン・新聞・雑誌・本・インターネットetcによって無自覚に行われている、膨大な情報操作(つまりそれが条件付きの枠組みであり、すなわち「世界」でもあるのですが)を一切合切すっぱり断った時、果たして何が残るでしょうか?

 

一体この時何をもって「私」でしょうか?いや「私」であるところの「何か」を断つのだから、この時の私とはどういうものなのでしょう?「私とは何か」・「私とは誰か」という自己探求の最大命題であり、禅でいうところの「父母未生前本来の面目」というのはこの時の、一切の条件付けから解放された絶対自由の「私」、を問うものなのです。

 

瞑想とはそのように在る状態の事であり、様々な「意識誘導のテクニック」そのものを指すのではありません。そしてこの時に初めて、神や仏、悟り、宇宙意識、ハイアーセルフ、真我etcといったものが意味をもって来ます。何故ならこれらは知識を越えた直接理解、直接体験、直接存在だからです。