余はいかにしてラマナ信奉者となりしか? その8                                            

 

 


 

前回紹介した記事は98年の長期滞在中に書いたものであり、この98年の滞在は前期・後期に分かれるものとなった・・のだが、当初からそのように計画していたわけではなくこれもまた「想定外の経緯」があって、結果的に「アルナーチャラに呼び戻されて(後期滞在して)しまった・・・」という成り行きなのであった。


本来の予定ではその前期だけで98年の滞在を終了し、その後は「世界を巡る長期のバックパッカー旅」に出発する!!・・・つもりで準備を進めていたのである。

しかもその旅は「某おねーさんと一緒に出かける」ということで話が出来上がっていて、「わくわく・ルンルン」気分が盛り上がっていた!!わけでもある(笑)。


かくしてラマナアシュラムを去るにあたっては、

「かくかくしかじか、そんなわけなので今後こちらを訪れるのはいつになるやら見当がつきません、これはもう随分先のことになると思います。どうか皆様お元気で!!」

というようなやりとりで別れの挨拶をしてアシュラムを出発し、帰国の途に着いた・・日本で最終準備に入っている「某おねーさん」と合流して、先ずは「大阪から海路で上海へ行く」という段取りになっていたのである。

 

現在は空港〜アシュラム間の移動はタクシーを使うようになったが、この当時(37歳)はまだまだ体力もあり「世界を巡る長期のバックパッカー旅」を企画する位だから、当然路線バスで移動していたので、もちろんこの時も路線バスである。

南インドから日本へのフライトというのは現在でも状況はあまり変わらないが、チェンナイ(ORバンガロール)から真夜中に出発するケースが殆どなので、前泊することはなくアシュラムから空港へ直行することが多かった。


そして当時はまだ道路状況も今ほど整備されていなかったので時間もかかる上に、時に「途中でバスが故障する」というアクシデントもあったのだが、なんとこの時に私が乗ったバスは途中で3度もエンジントラブルを起こして止まってしまう・・・という状況に陥ってしまったのである。


国際線フライトの出発に際してこういう事態に見舞われる・・・というのは大変心臓によろしくないのだが(笑)、しかしどうにかこうにかバスは時間ギリギリで空港に到着し、クローズ寸前のカウンターに滑り込んでチェックインし、係員の「急げ!!」の声を後にしてセキュリティ・チェックをもどかしく通過、なんとか出発に間に合った。

 

 

さてさて、その後の展開もかなり面白いのだがそこは省略することとして、確かに予定通り帰国後は「某おねーさん」と合流し、いざ大阪から蘇州号で上海へ・・・いよいよ「世界を巡る長期のバックパッカー旅」が始まった!!・・はずであった。

ところがどっこい、そうは問屋が卸さない・・・なんと最初の到着地の上海にてこの「某おねーさん」と大喧嘩をする羽目になり、「馬鹿野郎、おまえの顔なんざみたくない、ここで別れようぜ!!」ということになってしまった(笑)。


(因みにこの「某おねーさん」とはそれから18年経過した現在でも交流が続いている・・・彼女もまたその後頻繁にアルナーチャラを訪れることになってアシュラムでもちょっと知られた存在であり、臨在サイトでも掲載している「アシュラム周辺マップ」の制作者の一人でもある。)

 


さてそうなってみると、「世界を巡る長期のバックパッカー旅」というヴィジョンはみるみる色褪せてしまい(そもそも「おねーさんと一緒に!!」というのが大きかったのですなあ・・笑)、これからどうしたものかなあ?と考えたあげく・・・・


結局またまたアルナーチャラへ行くことになった・・・現地の皆様に「もう当分お目にかかれないのでお元気で」などど挨拶した舌の根も乾かぬ約75日後に、私はアルナーチャラに舞い戻って来たのであった(笑)。


で、実はその再びアルナーチャラに戻ってきた日というのが、なんとディーパム聖火点火の2日前・・・だったのである。

 

 

(動画は2015年のディーパム大祭の様子)


 

本来ならばディーパム聖火点火に合わせてアルナーチャラに滞在しよう・となると、これは宿の確保が大変困難なのである・・当日は満月でもあるので推定30〜50万人の大巡礼団が押し寄せてくるのだ!!

 

ディーパム大祭の解説はこちら→


 

 

私はこれまでに8度この聖火点火にまみえているが、この98年のディーパムが最初・・・しかも実はそのことを「全く知らずに」現地に舞い戻って来てしまったのだ。

前述のように点火日前後数日は宿の確保が大変で(当日は民間のホテルなどは通常の「10倍の料金」に高騰する!!)、かなり前の段階で準備を始める必要があるのだが、脳天気な私はもちろんそんな段取りは何もしていなかった(ディーパム祭の時期であること自体を知らなかったのだから・・)。


もっとも当然ながら柳田先生には事前に手紙を出してあった・・この時もまた1ヶ月強の滞在を希望していたからである。

舞い戻ってきた私を迎えた柳田先生は若干当惑されていた・・というのは、先生宅の「ゲストルーム」には聖火点火に合わせて来訪するゲストの先約が入っていたからである。

しかし柳田先生は「まあ、何とかなるでしょう」と請け負ってくれた・・おそらくはアシュラムのどこかに泊まれるように掛け合うつもりでいらっしゃったのかもしれない。

 

そしてどうなったか?

結局先生がアシュラムオフィスと交渉する必要は全く無かったのだ・・・というのは、どういうわけか「予定されていた先約」が先方の都合でキャンセルされてしまった・・・からなのである。

かくして私は想定外だった「後期滞在」の日々を再び柳田ハウスにて送ることになった次第なのだが、

 

「何も知らずに聖火点火直前に戻ってきて、宿もすんなり用意されている」

 

・・・という状況は、これはもうとてつもない「恩寵」であるとしか思えないではないか!!

(以来私は現地の定住者に、「鈴木さんは御山に可愛がられているのよ」と言われるようになる・・)


そしてこうなってみれば、前期滞在を終えて空港へ向かった時に「乗車していた路線バスが3度も故障して止まってしまった」・・・という出来事も、

 

「これはラマナ=アルナーチャラが私を引き留めようとされた」のではないか?

 

・・というインプレッションがふっともたらされ、ううむ・・・と畏れおののかざるを得なくなってしまった(笑)。

 

「留まりなはれ!」という御神意を強引に押し切って帰国して「世界を巡る長期のバックパッカー旅」へ出発したものの、結局はラマナ=アルナーチャラにぐいっと襟首をつかまされ引き戻されてしまった・・・わけなのだ、しかもディーパム聖火の直前という大いなる祝福のタイミングに「飲み食いも寝るところ」も向こう持ちで!!(笑)

 

 

よくよく言い回されている箴言として、

 

「ひとたびアルナーチャラに捉えられた者は虎の口にかかった獲物の如く、決して逃げ去ることは出来ない」

 

というものがあって、私もこの箴言をよく聞かされて「知識」としては既に知っていたわけだが、この時こそはこの箴言を「全き真理」として骨身に染みて体験する(最初の)契機となったのである。


そしてその体験は必然的に、「ラマナ=アルナーチャラ」に対する懐疑精神を超えて、かの「比類無き臨在と恩寵」への信奉心を生じしめるプロセスになった。

この段階に至ってようやく?日々の礼拝や瞑想、そしてギリプラダクシナについても「これはもうちょっと真面目に取り組んでみよう」という気持ちになってきた(笑)。


かくしてこれ以降は私自身の意志としても、積極的に「アルナーチャラでの長期滞在を繰り返す」という人生・・に移行していくのであった。


 

次回に続く。

 

 

 

 

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