余はいかにしてラマナ信奉者となりしか? その4                                            

 

 

 

振り返るとそこにははんなりとした感じの中年の日本人女性が静かな微笑をたたえていた。おやおや、やはり日本人も来ているのだなあ・・・と思ったのだがその女性は次のように言葉を続けた。

「今こちらには『日本ラマナ協会』の柳田侃先生が定住しておられますが、もしよろしかったらお話してみませんか? 御案内いたしますよ。」

 

「日本ラマナ協会」という名を聞いたのはこれが初めてのことであった、もちろん時間も充分あったので「先生のお宅」まで案内して頂く事となったわけである。道すがらお話を伺うとこの女性は協会の会員で明日まで先生のお宅のゲストルームに滞在しているとの事であった。

正門から5分くらい歩いた所に先生のお宅は建っていた。2階建ての簡素なコテージである。一体どんな人物が住んでいるのだろうか?この出会いが私の人生を大きく左右するなどとはまさかその時点で判ろうはずもなく、私は柳田先生にお目にかかることとなったのである。

 

ひょいとあらわれた柳田先生は上半身裸で白いドーティ姿・・という完全に現地スタイルであった、「ああ、そういえばホールで時々見かけた『東洋系の爺さん』じゃないか、日本人だったのか・・」というのが最初の感想であった(チベット系かな?と思い込んでいたのだ・・笑)。

聴けば大学の先生だったという。当時68歳、年齢から逆算すると在世中のバガヴァンに会えたことになる、早速そのことを質問したが残念ながら答えはNOであった。(1950年は昭和25年、まだ日本は占領下にあったのだ・・・・日本人が在世中のバガヴァンに会ったことはないとのことである。)

先生は話し好きな方で楽しく面白い歓談が盛り上がるひと時となり、同時にアシュラムについてもあれこれと教えていただくことが出来たわけだが(やっと建物全体の関連が理解できた)、これが滞在最終日というのが残念であった。私に声をかけてくれた女性は翌日バンガロールへ出るから「代わりにゲストルームに泊らないか?」とまでお誘いを受けたのだが、このときは「もう充分だ」という気がしていたので、予定通り翌日私はマドラスへ向かったのである。

こうして私の初めてのティルヴァンナマライ訪問は終わった。

 

さてここまでなら別に特別な話というわけでもない。

バガヴァン=アルナーチャラの恩寵が顕現し、それをリアルなものとして痛切に感じ取るには時間がかかることが多いらしい(実はアルナーチャラは「効き目が遅い!」というのは信奉者には結構知られた事実である・・笑)。そして私の場合は約1年後に、全く思いもよらぬ形でその顕現を体験することになったのだ・・・・。

 

この96年の夏に先生翻訳による「ラマナ・マハルシの言葉」が出版されたわけだが、私は内容はともかくとして先生の略歴を見て驚いた・・・大学の先生といっていたので当然「インド哲学」とか「宗教学」辺りだと思っていたら、「国際経済学専攻、経済学博士(甲南大学名誉教授)」とあるではないか?! 

「変な先生だなあ・・・」というのが正直な感想であったが、手紙好きな私は結構先生と手紙のやり取りを続けていた(このやり取りが1年後に大きな意味を持つのである)。

 

当時の私はタイのパンガン島に妻子を残し、日本へ単身帰国して「出稼ぎ労働」?してお金が溜まり次第タイへ戻る・・という生活を繰り返していたのだが、こういう不安定な状態というものはやはり長続きするものではない。私自身はそれなりに「タイに生活の拠点を移し堅気の生活をする」事を目指してあれこれの計画を順次実行していくつもりだったのだが、残念ながらその辺りが旨く理解されていなかったようである。

明けて97年1月、タイに戻った私を待っていたのは妻からの「離婚の申し出」であった。まあそこで3週間ばかりどたばたしたのだが、私にもやはり「自由になりたい」という根本的な渇望があったのだろう、スピード離婚が成立する結果となった。

 

「真っ当な堅気の生活」を目指してタイに戻ったのに、突然再び「自由」の身に戻ってしまったのである。

これからどうしよう・・・とは殆ど悩むことなく、「よおし、このままインドだ!」と即断即決、しかしながらやはり「離婚」というのはそれなりに衝撃はあるわけで、リシケシのヨーガの師匠の下で修業しよう・・というのはその時の心境ではあまりにもハードに感じられ、「うーむ、どこへ行ったらいいだろう?」と迷った挙句、

「そうだ!またティルヴァンナマライへ行こう、今度は長期滞在してみたい・・・」という気持ちが沸き起こってきたのである。

バンコクから南インドはそう遠くないのである(意外と知られてないがバンコクとマドラスはほぼ同じ緯度上にある、因みにマニラも然り、この3都市は真横に並んでいる)、こういう時は躊躇すべきではない、「旅は行った者勝ち!」なのである・・・・いざ空路マドラスへ!

 

2月5日辺りだったと思うがこうしてとんでもない運命の展開により、約一年ぶりに「2度と来ることもあるまい」と思っていたはずのテイルヴァンナマライを訪れたわけである。今回は是非ともアシュラムゲストとして滞在してみたいと考えていた・・「柳田先生にお願いすればどうにかなるだろう」という期待があったのである。

幸いにして先生宅のゲストルームは空いていて、私は先生から宿泊許可を頂いた。当時先生はアシュラムから絶大な信頼を寄せられていたので、先生の推奨があればアシュラムゲストとして認められる・・という状況だったのである。

かくして私もアシュラムのゲストとなり、今回初めてアシュラムの食堂に入って食事をいただけることになった。私の思惑としては出来るだけ長期滞在したいと考えていたのだが、それを知った先生はおよそとんでもない話を私に持ちかけてきたのである。

 

「鈴木さん、もしよかったらこの家の留守番屋をやる気ありませんか?・・・」

 

    

 

 

 

(日本ラマナ協会会長 柳田侃先生・・アシュラム敷地内に建てられた専用住居「Arul Ramana(通称 ヤナギダハウス)」のリビングルームにて97年2月撮影。2004年8月逝去・享年78歳)

 

次回に続く。   

 

 

 

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