余はいかにしてラマナ信奉者となりしか? その5
「鈴木さん、もしよかったらこの家の留守番屋をやる気ありませんか?・・・」
・・・この柳田先生の申し出が全く予期しない「青天の霹靂」というに相応しい出来事だった・・のは言うまでもあるまい。
先生の住居はその建築費がドネーションとしてアシュラムに献呈されてアシュラム敷地内に建てられたものであり、先生存命中から「所有権・管理責任」はアシュラムに属していた・・・ただしその居住権については「先生が逝去するまでの期間」にあっては「先生本人もしくは先生が許可した者」に絶対的に限定する、という契約が結ばれていたのである。
そして2階に一部屋あるゲストルームには、「先生が許可した者」のみ宿泊できたわけだが、それは同時に「アシュラムゲスト」としても見なされてアシュラムの食事を頂くことが出来たのである。
2年強という年月を先生はそこに定住されていたのだが、いかなる心境の変化であろうか? 再び日本(京都)とアルナーチャラを適宜往復する生活へ戻されることに決められたわけだが、インドの治安状況として、長期間「空き家」にしているとかなりの高い確率で「空き巣」の被害に遭うということもあり、先生にしても「信頼のおける(管理を任せられる)人が住んでくれたら・・」という想いがあったのだろう。
ちょうどそんな折りに私がアシュラムへの長期滞在を希望して、先生を頼って「のこのことやってきた・・」のである。
しかし当時「住所不定無職?」であっただけでなく、「品行方正で真面目な方が殆ど」であるラマナ信奉者の方々にあって、ご存じのようにやたらユニークな言動が目立つ私は「極めて異端的」な存在なのである(笑)、到底堅気者ではなく得体の知れないこの私の一体どこが先生に評価されたのであろうか?・・・これにはいくつかの理由があったことと推測される。
一つにはその当時私が従事していた仕事というのが「内装屋の現場作業・管理サポート」業務であり、「空き屋の管理」におけるちょっとした修繕や手作業というメンテナンスという点で適任だった・・ようであるし、
柳田先生は若かりし頃は「海軍兵学校」に憧れたこともあったそうで、それ自体は健康上の理由もあって実現されなかったものの(因みに終戦が18歳誕生日の5日前のため、ギリギリで徴兵されずに済んだとのこと)、大学卒業後は学者になる前に「石川島播磨重工業(現IHI)」に入社して、広島県呉市にある事業所(旧海軍呉工廠・・戦艦大和を建造した)に勤務されていた・・という経歴があった。
・・・という次第でどこか「海軍贔屓」の傾向があった先生にとっては、元「海上自衛隊潜水艦乗務員」という特殊な経歴を持つ私はそういう方面で得点が高かったらしいのである(笑)
私は当時36歳、アシュラムに行き来している人たちの中では「若手」であり、堅気の定職に就いていないが故に「時間的には極めて自由が利く」身分ということが、先生からすれば「留守番屋」にはうってつけ!だった・・と言えるのだろう。
そして私の方の旅程としてはもとより「電撃離婚」での予期せぬ根底からの大変更となったわけで、日本では実家に住んでいたから「維持費」はゼロだったこともあって、要するに「手持ち資金」が許す限り帰国時期は延長できる・・状況なのであった。
それでもさすがに先生が再びアシュラムに戻ってくる時(この年は10月半ば頃に戻って来られた)まで留守番する・・のは無理だったのだが、「私が戻るまででなくても結構です、鈴木さんの予定が許す限りで良いですから」と言うことであった・・・。
もちろんこの申し出を断る理由はどこにもないどころか、あまりにも「棚からぼた餅」的なありがたい話ではないか!!
いうまでもなくこれはラマナ=アルナーチャラが、私に当面の住居&食事を与えて下さったわけなのである。
かの比類無き臨在と恩寵はこのように思ってもみない唐突さで、こちらのエゴの思惑とはかけ離れたところで顕現されたりするのだ・・・・。
かくして日本出国時点では全く予想だにしなかったラマナアシュラムでの長期滞在の生活を送ることとなり、同時にそれは私の人生を決定的に支配することになっていくのである。
(柳田先生から「留守番屋」を打診された97年2月、先生宅の屋上にて撮影・・その当時ここはアルナーチャラの全容を臨める特等席でもあった!)
次回に続く。