さて、そうしてアシュラムに通う日々が始まった。
ラマナ・アシュラムにおける最初の印象というものは、一つには孔雀がそこかしこに静々と歩いていて単純に感心したことと、正門前の道路が結構交通量が多くてバスやトラックなどがびゅんびゅん爆走するのでかなり「うるさい」なあ・・・ということで(インドに行ったことがある人ならば「クラクションの凄絶な協(狂)奏合戦!!」を御存知であろう)、書物に書かれていた「針一本落ちてもその音が響く静寂・・・」というものが現代では通用しないことを知り少々残念であったこと、それからもう一つは、「一体このアシュラムではどこが『礼拝の中心対象』なのだあ?」ということであった。
これは私がこのサイトを立ち上げる動機のひとつにもなったわけなのだが、アシュラムの中の建物の全体の関連がどうにも解り難いのである。
何故かといえばラマナ・アシュラムというものは最初から「全体の建築計画」があって出来上がったものではなく、いわば成り行きでこの地に最初の建物(母堂のサマディ・・・つまりお墓)が出来、以来増改築を積み重ねて現在に至るわけで、ちょうど日本の老舗の温泉宿のように本館、別館、新館・・・とあるような具合なのだ。現在でも新しい土地や既存の建物を購入したり、新たな建物を作ったり、そこかしこの改修・改装工事も頻繁に行われている。
だから実は礼拝の中心対象はいくつもあるわけなのだが、とにかく日本語情報は殆ど無いし案内してくれる人もない。ゲストではないからダイニング・ホールには入れなかったし、瞑想ホールにしてもゲスト以外が入っていいものかどうか?が判らない上に、そもそもそこがどのようなものなのか?(バガヴァンがそこで27年間にわたり起居されていた!)と言う事自体も判らなかったのである。
結局最初の訪問期間中には瞑想ホールの中に入らなかった・・・もっともそれは私が英語が殆ど出来ない上に人見知りしてしまう性格が災いしていたのだが、現在にあっても向こうに住んでいる信奉者たちというのはあまり自分から積極的に働きかける・・・ことはしないのである。
というわけでシャンティないい感じの所だなあ・・・・とは思ったものの、特別に「おお、これは凄い!」というような感動は全く無かったのである。アルナーチャラを毎日身近に見ていても「ふーむ、これがシヴァの御山かあ・・・」程度にしか感じられなかったし(ヒマラヤの方がやっぱり規模が凄いし)、南インドの南国的情緒にしてもタイのパンガン島に住んでいた私には特別な感慨もないどころか、「ホームシック」すら感じさせる始末であった。
しかも何日か経過した時点で体調を崩してしまった、熱がでて飯が食えなくなり腹も下り始めてヘロヘロの状態になってしまった・・・、まあバックパッカーにしてみればこの程度のことは時に見舞われる症状であるからどうということは無いのだが、体調が悪いとやる気がなくなるのはどうしようもない(御山に登る気も巡礼する気もでてこない・・・そもそもギリ・プラダクシナ自体知らなかったし )。「ホーム・シック」状態も強くなって、そろそろ帰る頃合かなあ・・・と気持ちが傾いてきた。
ちなみにアルナーチャラに限らず「聖地」と呼ばれるような土地では、時として「体調」を崩すことが間々あるものである。これは「病気」ではなく、いわゆる一つの「浄化作用」なのだ・・・というのがこの「業界」?の常識である。「妻子の元に早く戻りなさい」と言う事なのだろう・・・と思うことにして体調回復を待ってマドラスへ出発することにした。
というわけでおそらく1月24日であったと思われるのだが、バスのチケットも予約してアシュラムへ「最後の」訪問に出かけてぶらぶらした後でお土産などを買った。今日で最後かあと思えば去りがたい気もしないではないが、もともとラマナ・マハルシに熱烈に「憧れて」やってきたわけではないし、特別な「(スピリチュアルな)体験」が起きたわけでもないから、「まあ、こんなものかな?」・・・というのが正直な感想であった。
当時は妻子持ちでありそろそろ腰をすえてタイでの生活を「真っ当な堅気のものに」しよう!という気持ちであったから、「再びここへ来るという事はまずは無いのだろうな・・・」という思いがしていた。そういうあれこれを想い巡らしながら正門の方に向かって歩いていった。そのまま宿に帰るつもりだったから、もしこの直後の出来事が無ければこれが最後の訪問になっていたはずである。
ちょうど樹齢四百年らしいイルパイ樹の近くまで来たときである、背後から日本語で「あのう、日本から来られた方ですか?」と穏やかな感じの女性の声に呼びとめられたのである・・・・。
(樹齢四百年のイルパイ樹、この傍らで声をかけられたことが私の人生を大きく変えることになった・・・その時こそ私がラマナ=アルナーチャラ」に掴み取られた瞬間である)
次号に続く。