「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)

 

〜SRI H.W.L.POONJA

崎山綾子翻訳

 

 

 

第7章 バクティ:神への愛  ☆Part4

(サイト管理者より・・・・画面構成の都合上、章全体を複数ページに分割して掲載します。用語解説は各ページ末に収録)

☆Part1☆Part2☆Part3

 

 

前ページ(Part3)からの続き・・・ 

 

 

明け渡し

 

 

 

Q:どのようにして、神の意志に対する信念を深めることができますか?

     

 

 

 今は信念は必要ない。神の意志や個人の意志でさえ必要ない。それはひとりでに起こるものだから、すべてを意志なしですることができる。信念には、信念を持つ為の他の人が必要だ。その人は誰かね?

 

 あなたが立っている床に使う同じ大理石で神の彫像が造られ、それを崇拝しているのだ。それは同じ石だ。その石に思寵を懇願しているのだからすべての「意志」はあなたのマインドの中の概念だ。

     

 

 

 

Q:神の意志でさえ概念ですか?

     

 

 

 いわゆる神はいない。それはあなたが創り出したものだ。牧師や教会によって、あなたの頭に押しつけられて来たものだ。だからあなたの信念は誰かからの借りものだ。神はあなたの創造物だ。

 

 神について話す為に、分離した存在としてあなた自身でさえ創り出された。神を対象化することはできない。見ることはできない。神は対象を超えた「見ている人」だ。

 

 その至高のパワーに戻って行きなさい。「それ」があなただ。「それ」が私である。死後、天国や地獄を与える神の概念から自立していなさい。私は「それ」だと知ることによって、「今・ここ」に天国を見なさい。

 

 

 

 

Q:一瞬ですが、私は「それ」と分離していないと感じました。

     

 

 

 この分離の不在が「それ」に明け渡すことであり、「それ」に明け渡すとあなたは「それ」になる。そこに分裂はない。個人はかつて生まれたことはない。

 

 そこに二はないのだ。二元性がある所には虚偽がある。「それ」の中には二元性は現れない。唯一「それ」だけだ。その「ある」ことが「私」だ!

     

 

 

 

Q:「存在」が私の面倒を見てくれていると強く感じます。それがジャナカ王の面倒見ているように。

     

 

 

 これが至高の信念だ。「存在」が母親のようにあなたの世話をしている。だから「存在」に完全に明け渡しなさい。ただリラックスすると恐れはない。このリラックスすることがあなたの真我を知る唯一の方法だ。

 

 他人を見るとリラックスできないが、あなた「自身」を見るとリラックスすることができる。恐れはない。

 

 

 

 

Q:何時間も静かに幸福に過ごすことができますが、明け渡しがいつも私を呼んでいます。どうか、真我に完全に明け渡せるように導いてください。

     

 

 

 あなたがサットグルに明け渡すことは絶対的に必要だ。あなたの明け渡しは、子猫のようであるべきだ。母猫が子猫を掴んで、彼女の望む所に運ぶ。子猫は無関心だ。

 

 又一方では、猿の子は生まれた時から母親にしがみつかねばならない。猿の子は母親の腰にしがみついて、いつも恐れている。彼らの目を見たら分かるだろう。

 

 母猿が枝から枝へと飛び移るとき子猿は落ちるのを恐れている。時々、子猿が落ちるのを見たことがある。だから子猫のように明け渡ししなさい。

 

 この明け渡しには時間は掛からない。一瞬必要なだけだ。この短い時間の中で、何億年もの間に犯したすべての間違いを洗い流すことができる。これがサットサンガに出席している美しさだ。

 

 サットサンガはサンサーラの海を横切ってあなたを運ぶ為の筏だ。あなたを貪り食おうと待っているサメを心配する必要はない。この筏は非常に安全で確かな乗りものだ。これに乗っていると、どんな悲惨さもあなたに触れることはできない。

 

 

 

 

Q:完全に明け渡すことと、単に受身でいることの間には大きな違いがあると思います。私は、愛、真理、源泉に完全に明け渡したいのです。この宇宙で他のことは何も問題ではありません。どうか、完全な明け渡しに私を導いて下さい。あなたの目を見つめて永久に変わってしまったこのハートからの感謝をどうか受けとって下さい。

     

 

 

 もしあなたが誰かを愛して、同時に他に誰も愛していないとき、これを完全な明け渡しというのだ。半分の明け渡しの例は、あなたがある女性にすべてのお金を与えて、信頼と忠誠の約束をするが、隣人の妻にも同じことを言っているとしたら、嘘をついていることになる。これが部分的な明け渡しだ。

 

 ある夜、両方の女性が一緒に出会って、彼女達はあなたを共有していることを、あなたの約束は偽りであったことを発見する。これが不正直というものだ。

 

 少なくともあなたの真我に対してはいつも正直でありなさい。目覚め、夢、眠りのすべての状態を通して、「それ」はとにかくすべてを知っているのだから、すべての行動を見ているその人からどのようにして、あなたの罪を隠すことができるのか?

 

 正直でいなさい。「神の意志を実践させたまえ」と祈りなさい。「それ」の意志によってのみ、あなたのマインド、感覚、活動を行使しなさい。

 

 どのようにしてあなたの真我に正直でいるか、今、理解したかね?

 

 

 

 

Q:私の無知をあなたに明け渡します。

     

 

 

 あなたのエゴと無知を明け渡すなら、これがあなたがしなければならないすべてだ。そうすると、恩寵がその場でその腕の中にあなたを受けとめる。ほとんどの人が明け渡すことができない。彼らは言うだけで、実際には明け渡していない。

 

 私は誰かがマハルシにエゴを明け渡すことについて尋ねたのを覚えている。

 

 彼が尋ねるには「真我を知る為には、献身者が完全に明け渡すことは絶対必要ですか? 私は満たすべき責任があるので、完全に明け渡すことはできません。私はここにいても、私のマインドは私の家にあります。」

 

 マハルシはこれに答えて

 

「完全に明け渡すことができないのなら部分的な明け渡しでもうまく行く」

 

 だから、部分的明け渡しもまたうまく行く、ゆっくりと部分もまた消えて行く。そうしてあなたはプラサード、グルからの贈物を得るだろう。そして、彼はあなたを祝福する。

 

 しかし、グルの教えについては、絶対疑ってはいけない。

 

 そうするとガンパウダーのようにうまく行く。これが完全な明け渡しだ。部分的な明け渡しは、湿った木をマッチで火をつけようとしているようなものだ。

 

 あなた自身の努力を費やして、それが乾燥するまで多くのマッチ箱を使わなければならない。木も又燃えるが、煙が出て咳が出る。だから完全な明け渡しは、この煙たい明け渡しよりましだと分かるだろう。

 

 

 

 

Q:心が広くなっていくように感じますが、まだエゴが傷つけられやすいという気がします。

     

 

 

 その広がりに居なさい。努力をしないで考えないこと。

 

 

    あなたがいるように居なさい。

     「ここ」にいなさい。すべては、それ自体で片が付く。

     何かにあなたの責任を肩がわりさせなさい。

     内から何かを起こさせなさい。

     「それ」が働き出すだろう。

     「それ」が起こって来るのを許しなさい。

     これが意識の内で働いている。

     あなたは何もしない、考えないし、計画もたてない。

 

   「存在」としていなさい。「それ」が働くのを許しなさい。

     本質はマインドと思考なしに働き出す。

    単なる活動と、反応があるだけだ。

    やり手はいない。エゴはない。

    これが苦しみの終わりだ。

    「私がしている」「私がやった」「私がするだろう」は苦しみだ。

    しかし、真剣にそれを見てみると、

    あなたはかって全く何もしなかったということが分かるだろう。

 

    しかし、あなたの行為に対する見返りを望むことなしにすべてはなしえる。

      そして、次の苦しみのサイクルを生み出すどんな足跡も残さずに去って行く。

      あなたの総体に明け渡しなさい。

      あなたには限界はないし、限界という概念もない。

      意図もなし、概念もなし、唯一自由だけ。

     

 

 

 

Q:そうです、そうです、それが見えます。

     

 

 

 この見ることが、在ることだ。肉体の目を通して対象を見ることは破壊につながるが、真の目で見ることは、在ることだ。どちらの目で見るかは、あなたに掛かっている。

 

 真の視覚は目とは何の関係もない。それは内なる視覚、内なる存在だ。この目を使うなら、内を見ようが外を見ようが、いつも同じ「目」で見ていることになる。

 

 そうすると、サンサーラとニルヴァーナの間に何の違いもない。この「目」には限界がなく、内側、外側もない。二つの目で見ることを止めると真の目が開いて、神の視覚を得る。この見ることが在ることだ。

 

 

 

第7章 バクティ:神への愛 終了

 

 

 

 

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