「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)
〜SRI H.W.L.POONJA
崎山綾子翻訳
第7章 バクティ:神への愛 ☆Part1
(サイト管理者より・・・・画面構成の都合上、章全体を複数ページに分割して掲載します。用語解説は各ページ末に収録)
献身
究極の真理を愛しなさい。
知恵と真我への崇拝があなたを真我に連れて行く。
唯一あなたの真我を愛しなさい。
唯一あなたの真我を崇拝し、探し求めるなら、
後は真我があなたの面倒を見る。
無用な活動や快楽をさけてただ静かにしていなさい。
これが自然な状態だ。
絶えることなく自制と修練を続けるとすべてを失う。
マインド、感覚、知性は破壊される。
そうしてあなたはその自由と一体になるのだ。
修練というのは、いつもアートマンに向かって行くことだ。
修練は真我への完全な献身だ。
すべてを燃やし去って、愛に流れこむ。
この瞬間を最大限に利用するには
その中に溺れ込むことだ!
これが献身だ。
あなた自身を捧げる「それ」にあなたはなる。
だから愛にのみあなた自身を捧げなさい。
このネクターを味わった人はこのネクターになる。
自由はいつもここにある。
見逃しているのは、神聖さだ。
神以外のものにあなたのハートを差し出すなら、
何を一体、至高に捧げるのか。
唯一新鮮で匂いの嗅がれていない花が、神に捧げられる。
真我への愛のみが必要だ。
謙虚に真我に献身しなさい。
沈黙が永遠に酔いしれる為のワインだ。
この沈黙の中であなたは「知る」ことができる。
すべての存在を愛することができる。
しかし、それを飲んだら、話すことは終わりだ。
その体験の中にいなさい。
「それ」に明け渡しなさい。
至福を味わうことは、他のすべての味を忘れることだ。
内につがれたワインを飲み干しなさい。
真我の魅力、真我への愛を教えることはできない。
それはやって来るか、やって来ないかのどちらかだ。
この光がどこからやって来るのか見るのに懐中電灯はいらない。
あなたが光だ。
別離の苦痛と涙は祝福される。
最愛の人から別れて居るこの痛みは、
最愛の人と一緒に居る喜びより価値がある。
その涙は神への美しい贈り物だ。
献身者、本当の献身者は神のハートそのものだ。
Q:あなたが教えていることとバクティ・ヨーガとの間の関係を理解するのを助けてください。
*1ジュニャーナと *2バクティの間には何の違いもない。
愛によって神に近づくことがバクティだ。非常な献身と愛を捧げることだ。ただ愛する時、最愛の人はあなたに姿を現わす。
愛すると知ることにもなる。愛することは知ることだ。もし誰かを愛してその人のことを知るなら、その人も又あなたを愛する。知ることは愛することだ。だから、ジュニャーナとバクティは同じ鳥の二つの翼だ。
愛があるところには知識があり、知識があるところには愛がある。あなたが誰かを愛すると、愛された人はどんな秘密も持つことができないので、あなたはその人のすべてを知ることになる。
もし、その人を知るなら愛することになり、その人も又あなたを愛して知ることになる。それは一つで同じことだ。人々はこれらは違ったものだと、それについて大きな議論をしているが、事実この二つに違いを見つける人は無知な人だ。
あなたは「それ」を最も愛するので、あなたのマインドの中には誰も存在しない。そうすると「それ」が姿を現わして、あなたに宝石を手渡すのだ。
Q:真我を知る為のいろいろな方法があるのですか。
知識の書かれた聖典によると、三つの方法がある。
一つはジュニャーナ・ヨーガ、それは知識だ。二つ目はバクティ・ヨーガ、献身。三つ目はカルマ・ヨーガ、活動・行動だ。
知性のすぐれた人は、森の中のリシに会いに行って「Ko Ham? 私は誰か?」と尋ねる。「Tat Vam Asi あなたは『それ』だ」とリシは答えるだけだ。
この会話だけで、弟子は「Aham Brahmasmi、私は『それ』だ」と言って、すべてが終わるのだ。これは知的で頭がよくて、ただ言葉を聞くのではなく、言葉の意味を理解できる人のものだ。
その意味は「それ」の中にある。教える人が「それ」だと言うと、教えられる人が「それ」を見つめて同意する。「私は『それ』だ」。そしてグルは言う、「幸運を祈る。行きなさい」
2番目は献身だ。献身とは内なる至高の力に降伏することだ。「その」力を崇拝することによって、「その」力を見つめていることによって、あなたは「その」力そのものになるのだ。
マインドを「その」力に明け渡すこと、「私は離れた実体だ」というエゴを持たないことだ。「私が神だ」と知ること、これを頭ではなく愛によって勝ちとるのだ。
理解することによってか、あるいは献身によってか、「それ」になるのに違いはない。幼い子供はミルクを飲む為に母親の所に行く。子供は誰が母親か知っているし、母親も誰にミルクを与えるべきか知っている。
3番目はカルマ・ヨーガ、これはあなたが何をしようともあなたの行動の結果を求めないことだ。あなたはただ行動するだけで、結果は至高の存在の手の中に委ねるのだ。
現実にはこれらの三つは同時に走っている。知識、バクティ、カルマ、これらの一つに執着したら他の二つは自然とあなたに従ってくるものだ。誰かと知り合いになったら、その人を愛することになる。もし、誰かを愛したら、その人のことについて知ることになる。あなたの活動は愛する人の為、知っている人の為に起こる。何の違いもない。
Q:私はバクティの道にいます。バクタが真我探求をするのは可能ですか?
バクティは愛を通して神が帰依者を愛することだ。真我探求は帰依者が神に行くことだ。これが違いであなたは選ばなければならない。神があなたと恋に落ちるのがバクティで、あなたが神と恋に落ちるのがジュニャーナだ。
真我探求の道にいる人にとっては、神がどのようなものか知らないので間違いを犯す。しかし神が神の帰依者を愛する時、決して間違いはない。神は帰依者の一歩後ろに付き添ってすべての世話をし、帰依者が望まなくても必要なものを与えると言われている。
これに関して盲人の聖人の話をしよう。
ある日、彼は森の中を歩いていた。すると彼の前に井戸が現れた。彼は知らずに井戸の中に足を踏みこもうとしたその瞬間、事実は彼の足はすでに井戸の上にあった。
誰かがやって来て彼に触れて言った。「ババ、あなたの前に井戸がある、こちらに来なさい。」
さて、このタッチ、この触れ方がとても優しくて、細やかで、彼の生涯で決して感じたことのないものであった。彼の髪の毛はすべて逆立った。彼はあまりの驚きの為に喉がつまって、あなたは誰かと尋ねることさえできなかった。もちろん、それが誰か見ることもできなかったのだから。
しかし、彼は知っていた。そのようなタッチを与えることができるのは彼自身のアートマン、内なるハートにいる人以外誰もいない、ということを知っていた。そしてこのことについて詩歌を詠った。
私は力のない盲目で老いぼれ、
あなたは若くて力があり、私を井戸の側から救ってくださった。
私は弱っていますが、あなたが私のハートから逃げだすことができるか試してください。
あなたは山を持ちあげることができる、私はそれを疑ったりはしません。
しかし、あなたがどんなに勇敢で力持ちでも、
私のハートから逃げ去ることができるかどうか言ってください。
これが、この前に私が話した「決心」についてだ。私はその女性に歯を食いしばってこぶしを握り、「それ」が逃げ出すかどうか見なさいと言ったのだ。
それ位の強さがあれば、サンサーラの海を横切ることができるだろう。さもないと一方には鰐が、他方には鮫がいるのだから。あなたがそれらをうまく片づけることができるのなら、あなたは大丈夫だ。筏はいらない。
しかし、筏にのっている方が安全だ。この筏がサットサンガで、他の岸まであなたを連れていく。一度そこに着いたら、このサンサーラに再び戻る必要はない。
ほとんどの人が鮫の口の中に飛び込みたがる。しかし、あなたは筏に滞まると固く決心しなければならない。重要なのはサットサンガにいる期間ではなく理解だ。全生涯を使っても理解できないかもしれないし、まさにこの一分間に、1/2分に、1/4分に、理解するかもしれない。
私は毎日同じことを言っている。
あなたは意識。
あなたはアートマン。
あなたは美そのもの、愛そのもの。
あなたがこれを理解したら、このホールの家賃を支払う必要がなくなるのだが!!
用語解説
*1ジュニャーナ 知識、知恵、絶対的知識。
*2バクティ 神への愛