「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)

 

〜SRI H.W.L.POONJA

崎山綾子翻訳

 

 

 

第2章 サットグル:真のグル  ☆Part4

 

(サイト管理者より・・・・画面構成の都合上、章全体を複数ページに分割して掲載します。用語解説は各ページ末に収録)

☆Part☆Part☆Part

 

 

前ページ(Part3)からの続き・・・

 

 

 

Q:「グルなし、教えなし、弟子なし」とあなたは言いますが、私はこの事について少し疑問に思っています。明後日、私はフランスに帰ります。グルなしで、ラクナウに帰って来ることなしに、私の内なる声に従うだけで自由を獲得することができるのですか?  覚醒した人の恩寵、現存が必要なのではありませんか?

   

  グルとグルの恩寵なしにあなたは目覚めることはできない、自由になることはできない。明晰な目を持って、正にその角度に立っている人が月を指差すことができる。偏見を持って、間違った場所に立って、間違った角度を見ている人は、月を見ることはできないので助けが必要だ。

 

明晰な目を持った人は、あなたの目の向きを彼の指と一列に並べるようにと言う。すると木の上のカラスの頭が見える。そして、指とカラスの向こうを見ると月がそこにある。しかし、指やカラスの頭に捕まったなら月を見ることはできない。指針は月と何の関係もない。

 

だから、明晰な目を持った人が指やカラスから目を離すように言う。グルの姿に執着してはいけない。殆どのグルは指に執着している弟子を保持して、そしてグルも弟子も満足している。エゴが膨張すると、指が崇拝されて月は忘れられる。

 

私心の無いグルだけが、グルを超えてゆくようにという。自分は単なる指針で、執着する必要のないメッセンジャーだと宣言する。

 

私心の無い、明晰な目を持ってすべての人を助けるグルを見つけ出すのは難しい。

 

 

 

Q:あなたはグルなし、弟子なしといいますが、ここにいる多くの人々があなたから恩恵を得ているのはなぜですか?

   

 

私がグルなし、弟子なしというのは、与える人と受取る人がいないということだ。物理的な人はいないということだ。グルは物体ではないし、弟子も物体ではない。与える人は物体でもないし、受取る人も物体ではない。

 

これが私の意味するところだ、与える人はいないのだ。物理的な肉体には永遠性はない、肉体は現れては消え去る。肉体がどんな教えをあなたに与えることができるのか?  マインドと感覚が何を教えることができるのか?  マインドや感覚そのものに永遠性はない、常に変わり続けている。

 

  真の教えは唯一永遠によって与えられ、

  永遠によって受けとられる。

  永遠は永遠に何も与えるものはない、

  だからそこにはグルも弟子もない。

  あなたはすでに「それ」だ、

  物体ではない、感情ではない、心ではない。

  これらの形態を取り除くと他に何が残っているか、

  何が必要なのか見てごらん。

 

これを見つけるために非常に多くの方法がグルによって与えられるが、どれも時間をかける価値はない。新しく得たものはすべて、いつか失うからだ。すべての獲得は一時的な獲得だ。全ては来て、去っていくのだから。獲得しなかったものを見なさい、すでにそこにあるものを見なさい。

 

あなたがすでに持っているものを、誰があなたに与えることができる?  私がグルや教えはないというのはこのためだ。ある人たちはこれを信じることができないが、これは事実だ。あなたは誰にも、自分にも依存することはできない。依存は平和や愛ではない。何にも依存しないことが幸福だ。

 

何が平和か見つけなさい、外側からどんな助けも必要としないものを見つけなさい。これは、いくら時間をかけて修練しても知ることはできない。時間の中では見つけることはできないとしたら、一体どのようにしてそれを見つけるのか? 

 

時間そのものは幸福ではない、時間を感じる時はいつもマインドがある。マインド・時間・思考の間には何の違いもない。だから、平和が欲しいなら時間のことを考えないことだ。思考はいつも過去のものだから、何も考えないことだ。

 

  平和は決して過去に属するものではない、平和はこの瞬間に現存する。

 

思考は過去のもの、マインドも過去のもの。どんな思考、マインドあるいは過去も持ち込まないとき、その時が知恵と光と平和の瞬間だ。それは獲得したり、達成したりできるものではない。

 

それはすでに「ここ」にある。すでにここにあるものを得るのに、経験は必要ない。「平和は既にここにあるよ、グルから得ることはできないよ」といってくれる人が必要なだけだ。

 

これを理解することができる人は非常に希だ。殆どの人は、平和とは感覚的な快楽だと思っている。そうではない。男と女のセックスから来るのではない、セックスからの快楽は一秒で終わりだ。消えてしまわない喜びを見つけなさい。

 

多くの聖者は何かしなければならないとあなたに忠告する。西洋では教会に行かねば地獄に落ちるといわれている。あらゆる所でこの恐れが植え付けられる。世界中の瞑想場ではヨガや奉仕や瞑想がスケジュール化されている、

 

ここラクナウでは何かをするようにとは言われない。することはもう十分だ、何億年もの間多くのことをやって来たのだ。ここではあなたはもうやり手ではない。もし私が自由を獲得するためにこれやあれをしなさいというと、自由は何かをした結果得られるものだと勘違いする。自由はあなたが何をしたか、あなたが何をしているかとは全く関係がない。

 

  ただ私と一緒にいなさい、

  あなたの「自由」は私の仕事だ。

  あなたは何もしないで、ただ静かにしていなさい。

  ほんの一つの思考でさえ浮かんでくるのを許さないことだ。

 

私はこれ程多くの休息をあなたに与える。他の人たちはいつも考えているけれども、あなたは考えることさえ必要ない。私はもう一度言おう。あなたは何も考える必要がない、私があなたの代わりに考える。ほんの一秒間何も考えないなら、あなたがラクナウに来た目的を達したと知るだろう。

 

もしあなたが目覚めなかったら、私の喉元をつかんでお前は嘘つきだと言ってもよい。それをする前にほんのフィンガースナップ、半秒、1/4秒、静かにしなさい。そして、この1/4秒間に目覚めなかったら言ってごらん。

 

 

 

Q:私の欲望の多くがラクナウで満たされるのはなぜですか? 望むことが全て実現するので私が望むことに実に注意しなければならないと言うポイントまで来ました。

 

ジニャーニの現存にやってくる人々の欲望は満たされる。それは壁にゴムボールを投げつけるようなものだ。ボールは跳ね返ってくる。聖者は何もしないので聖者がその欲望を満たすと言うことはない。彼は山のように不動だ。ともかくこの静寂に出会うと欲望は満たされる。

 

静寂は近くにやってくる誰もに平和を与える、まれに成熟したソウルには悟りさえ与える。聖者はあなたが欲しいものは何でも与える、たとえそれがあなたの運命でなくとも。グルの舌は神や運命に支配されないからだ。

 

悟りへの欲望が在るなら聖者の静寂の中で、山のように静かに座っている無欲の人の現存の中で、それは満たされる。グルの現存の中で静かに座っているだけで十分だ。ジュニャーニのハートを勝ち得たら頼まなくてもすべてが与えられる。

 

 

 

Q:弟子のグルに対する強烈な愛と執着の為に、グルが来世に生まれ変わらざるをえないというのは本当ですか?

   

 

それは不可能だ。グルというのは弟子を覚醒に導く人だ。マジック売りは、有名ないわゆる聖人と呼ばれる人たちがそうだが、グルではない。

 

  グルというのは、弟子が頼まなくても弟子に光を与え、平和を与える人だ。

 

他の人はコマーシャルグルだ。金もうけや*1アシュラムの建築に興味があるだけだ。欲望なしのグルがよい。欲望のない人の平和は、世界中の誰とも比べものにならない。

 

グルの姿に執着すべきではない。いずれ消えゆくものは永遠ではない。すべての姿や形は消えてしまうがその本質は形の無いものだ。もし形に執着するなら、間違いを犯していることになる。あなたに光を与えるのは形ではない。それは何か、あなたのハートに深く内在している何かだ。その何かが光を与えるのだ。

 

「それ」があなたのグルだ。そのグルは存在の全てのハートの中にいる。人間ばかりでなく動物や植物の中にもいる。あなた自身の本質を内に見るとき、この事が分かるだろう。そのとき、全ての植物や動物が私に話しかけたように、あなたにも話しかけるだろう。

 

 

 

Q:チベットのことわざに、「グルというのは火のようなものだ、近づくとあなたは燃えてしまう。しかし、充分近くにいないと熱でさえも感じないだろう」というのです。

   

  これは本当だ。グルの近くに行くとエゴが燃え尽きてしまう。たとえ遠くにいてもあなたは燃えてしまう。ホールの後ろの方に行って試してみなさい。熱がそこにもあるのを感じるだろう。

 

あなたはここに座って熱を感じなさい。

 

 

 

Q:「それ」の中に身を沈め、溺れてしまいたいので、私の手を取ってどうかそこへ連れていって下さい。

   

  溺死とは川や海にあなた独りで行くことだが、「私の手を取って、私は溺れたい」とはどういう意味だ?  私には理解できない、このようにして溺死はできない。というのは、あなたはあなたを沈ませまいとする防御者と一緒にいるからだ。

 

防御者を持たない人はサンサーラの海に溺れてしまうが、防御者と一緒のあなたは無事にその海を渡ることができる。しかし、グルの加護を求める人は少ない。

 

カビールが言うには:

 人間は、このサンサーラの海の中で押し流されて地獄に行く。私は、何人かをこの流れから引き上げて岸に連れてこようとしているが、多くの人はこの加護を拒否する。

 

さて、尊くて賢いカビールがどうして次のように言ったのか、私には解らない。「人がこの加護を受け入れないなら、尻を蹴飛ばして流れの一番早い川の真ん中に投げ込め。」(くすくす笑い)。

 

カビールは大変物静かな人であったから、その人がこんな事を言うにはよほどの問題があったに違いない。私の場合は尻を蹴飛ばすかわりに、世間の荒波に押し流されている人のところに行って、私自身一緒に押し流されるのだ。

 

そして蹴飛ばすかわりに、その人にキスをしてこう提案するのだ。「私たちは押し流されているので、この流れから抜け出しましょう。私は抜け出すのによい場所を知っている。」そしてその人を世間の荒波から連れ出し、安全な岸まで連れて来る。だから、たとえあなたは押し流されても引っ張り出される。力によってではなく、愛によって!!

 

 

 

Q:なぜ私たちは、あなたと一緒にいるというだけでこんなに幸福なのでしょうか?  たとえ、あなたが何も言わなくても人々は目覚めていきます。

 

 

真理があるところには引力がある。だから、人々は真理そのものであるその人のところに行くのだ。姿ではなく、「それ」が人々を引き付けるのだ。知恵を持った人の姿は、慈愛に溢れているので人を引き付けるのだ。「それ」がそれが持っているものを与えたい。だから、人々はやって来て恩恵を得ているのだ。貧しい人には、他の人に与えるものがない。しかし、王なら一握りの真珠や宝石をあなたに与えることができる。

 

 

 

Q: あなたの精神界への遺言は何ですか?  あなたがなくなった後、何かが達成されるのを見たいという野心がありますか?

   

 

私がここにいないという日は決してやって来ないだろう。あなたは35億年も行ったり来たりして輪廻を繰り返しているとしても、私は「ここ」に、この場所にいる。永遠に居続けたこの場所にいる。「それ」が私の住処だ。私は決してどこへも行かないし、どこにも戻って来ない。

 

私には遺言など何もない。私がここにいようがいまいが、どんな違いもない。私は誰にも何も押し付けないので、個人的な遺言や野心や何かが達成されるべきだという欲望もない。

 

 

 

Q:あなたは肉体を離れた後、どこに行くのですか?  地球に戻ってきますか?

 

  もし私が戻って来る為には、私は行かねばならない。もし私が行くなら、私は戻ってこなければならない。だから、真理は私が来るのでも、私が行くのでもない。これが真理だ。

  誰が行くのかね?  あなたは真我についてではなく、肉体について話している。真我はやって来ないし、行きもしない。なぜ、「それ」がどこかに行かねばならないのかね?  全ては真我の中に含まれているのだから、なぜ行かねばならないのか? 

 

王は王国の全てが彼のものだから、あの家又は宮廷を買いたいという欲望は起こらない。だから、あなたが王になったときはどこかに行くという欲望はなくなるだろう。ただ手を叩いただけで、全ては満たされるのだから。

   

 

 

Q:あなたの教えの本質は何ですか。

   

 

教えることを通じては得ることができない、「それ」について教えたい。私の教えは教えることができない。全ての教えがそこから湧き上がって来る、その本質については教えることはできない。

 

この本質は全てを超越しているので、教えるとか教えないとかの問題ではない。「それ」は、そこから全ての言葉が湧き上がって来るところの「それ」である。

   

 

 

Q:存在の源泉ですか?

   

  そこから全てが、言葉も含めて全てがやって来るところだ。

 

 

第2章 サットグル:真のグル 終了

 

 

 

 

 

用語解説

*1アシュラム 森の中の隠遁所、聖人やヨ-ギとその弟子達の住居。

 

 

 

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