第4部・ギリプラダクシナ実践体験のあれこれ

 

☆Part2 ☆Part3☆Part4

 

 

 

Part1   故・柳田侃先生(日本ラマナ協会会長・甲南大学名誉教授)の手記より

 

 

 

 

 

 


91年10月15日 

アルナーチャラ巡礼 ~ギリプラダクシナについて~


8月中旬から2週間余りアシュラムに滞在して、バガヴァンの足下で修行する幸せに恵まれました。今回は、ギリプラダクシナについて、わたしの拙い体験を記すことにします。ティルヴァンナマライの夏は北インドより過ごしやすいとは聞いていましたが、到着して意外なほどの涼しさに驚きました。といっても、日中、アルナーチャラの岩はだを吹きおろす熱風でかなりの高温(おそらく36~7度)になりますが、空気が非常に乾燥していて、朝方など爽快そのものです。

 

ギリプラダクシナは今冬すでに1度経験していたのですが、何人かで一緒に回るのと一人で回るのとでは、また一回限りのそれと毎日続けるのとでは、随分激しさの度合いがちがうことが分かりました。今回は一人で、毎日続けてみました。

 

朝4時にアシュラムを出発し、暗闇の中をわずかな電灯と星明かりを頼りに、右方の空に黒く形どられたアルナーチャラを拝みながらプラダクシナ・パスを辿って歩くのは、大変な緊張であると同時に、まさにアルナーチャラの大地に身体ごと吸い込まれてしまうような陶酔感を味わうことができます。丁度半周したあたりから夜が白みはじめ、アルナーチャラはその全姿容を現しますが、その5つの峰は時々刻々と位置と姿を変え、とても一つの山とは思えない不思議な姿で迫ってきます。

 

バガヴァン・ブリッジを渡り、パンチャムクハの祠を過ぎると、いよいよ最後の難所というべきバスやトラックが頻繁に往来するティルヴァンナマライの中心街に通じる道路に入ります。アルナチャレシュワラ大寺院の中を通り抜ける頃には既に日は高く昇っています。賑やかな大通りを裸足の外国人がおぼつかない足どりで、サフラン色の布をまとったサドゥーたちと袖すり合わせて歩いていても、現地の人は振り向きもしませんが、わたしにとっては、それが世界観が変わるほどの体験なのです。マメとキズで腫れ上がった足を引きづりながらアシュラムに帰着するのは、大抵9時頃でした。

 

ギリプラダクシナは現地の人々にとってはいまもシヴァ神信仰の重要な行事になっているようです。満月の日(8月24日)には夕方から家族連れなど老若男女が続々と列をなしてプラダクシナ・パスを歩きはじめ、夜遅くまで絶えることがありません。それには全く圧倒されてしまいます。

 

ギリプラダクシナについて、わたしはまだ殆ど知識をもちませんが、それはわたしたちの修行のなかでどのような位置を占めるものなのでしょうか?今回の貧しい体験だけからあえて回答を引き出すとすれば、それはアルナーチャラを自らの内にとり込み、それと一体化することを通じて行う真我探求の方法ではないでしょうか。バガヴァンは言われました

「アルナーチャラは地球のハートであり世界の霊的中心なのです」と。そして「アルナーチャラは内にあって、外にはないのです。真我はアルナーチャラなのです」と。

 

 

 

 

 

 

 

95年4月15日 

「肉体をもたないグル」

 

”アルナーチャラの住人”(Arunachalavaasi)になって5ヶ月がたちました。
アルナーチャラの丘の半径24マイル以内に住むものは、何らのイニシェーションを受けることなしに、全ての束縛から解放され、至高者との合一をもたらす、といわれています。しかし、このような「ご利益」を享受するには一般の巡礼者とは異なった心がけが必要とされます。たとえば、わたしが今取り組んでいる”ギリプラダクシナ”(アルナーチャラの丘の巡回)にしても、アルナーチャラに住むものにはその儀礼を厳格に守ることが要求されます。文献によって若干記述は異なりますが、沐浴して清浄な白い布を身につけ、身体に聖灰を塗り、ルドラークシャのネックレスをつけ、シヴァを想い、その賛歌を口ずさみながら静かに歩く、シャツやショールを付けず、傘をもたず、裸足で歩く・・等々です。

ところでギリプラダクシナを行う日や時間については、様々な方法があり、それぞれの効能が記されていますが、わたしはいま、午前2時頃に出発し、夜明け前に終わる方法で毎日巡回しています。そして最近この方法に大きな効能を見出すことができました。

 

アルナーチャラの丘がシヴァそのものであることは本誌でたびたびのべてきましたが、アルナーチャラの丘を右肩に感じながら真っ暗闇の中を前方の一点を見つめながら独りで静かに歩いているとき、神(シヴァ)、グル(バガヴァン)と真我の合一、一体感を味わうことができます。これが、いまわたしがギリプラダクシナを一日の修行の中心にそえている理由の一つです。

 

バガヴァンは言いました、「ギリプラダクシナより良いものは何もない、それだけで十分だ」と。またスカンダ・プラーナは述べています、「アルナーチャラの巡回よりすぐれた苦行(penance)はない」と。The Skanda-Purana,Dr.G.V.Tagare訳 Part3 P186

 

最近ラマナアシュラムは多くの外国人で例年になく賑わっています。このこと自体は喜ばしいことですが、残念ながら以前のような静寂さが失われたような気がします。その理由の一つが、他のアシュラムのグルの元にいる人々(主に外国人)との”交流”が増えたことではないでしょうか。わたしはこのような”交流”の意義を否定するつもりはありませんし、バガヴァンの教えを受け継いでいる「肉体を持ったグル」の役割を評価するにやぶさかではありませんが、また人が肉体をわたしと考える状態から脱しきれないでいるとき、「肉体をもったグル」を求めるのは当然かもしれません。

 

しかしわたしは「肉体をもたないグル」にこだわってみたいと思います。
確かに「肉体をもたないグル」を実感することは、「肉体をもったグル」に仕えるより困難な道でしょうが、形を持ったアルナーチャラの丘の存在はそれを容易にしてくれている、と言えないでしょうか?

 

アーサー・オズボーンは正当にも「バガヴァンの恩寵と指導は以前にもましてアルナーチャラに集中されている」と述べています。わたしたちはいまでもアルナーチャラと静かに対面することによって「肉体をもたないグル」の恩寵と指導を受けることができるのです、ああ、アルナーチャラ!

 

・・・以上は柳田文献(柳田侃著述による関連資料群)よりサイト管理人の任意による抜粋

 

 

 

次ページ(実践体験・Part2)に続く

 

 

 

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