「熱く語る〜ラマナ=アルナーチャラへの信愛」第2回


・・・「聴く」ことによる「ラマナ・マハルシの臨在」サイト












「喋る道具?」マハナンディ・尚志かく語りき!(笑)
 

 

皆様へ・・・  


下記動画群は、コロナ・パンデミックが世界中を席巻していた時期に収録されました。

従って動画中の説明でも、アシュラムの状況も当時の状況を如実に反映した「語り」となっていますが、23年現在にありましては殆ど「コロナ以前」の状態に復旧しています!!




5月19日は「ラマナ母堂のご命日」です。今回はそのマザーのニルヴァーナから始まった「ラマナアシュラム創建のいきさつ」から話を始めて、アシュラムのユニークな特徴を紹介し、そのような環境下にある我々「ラマナ・バクタ」の「信仰」という営為について、そして「宗教に寄る『救済』」とはどういうことなのか?

「不安・恐怖」からの解放、「安心立命」ということ、ラマナはどのような境地に安住されていたのか?・・・そして我々が同じ境地を体現することは可能なのだろうか?

・・・・ということを語ってみようということになりました。







トーク2・前編








上記動画中で言及している「参考ファイル群」








 






マザーの人物伝→        マザーに関連してラマナご自身が書かれた文章








最初期のラマナアシュラムの様子(「マザーシュライン」しかない)












現在の「マザーシュライン」→




アシュラムの日課表→




「一般的な宗教団体」との相違点詳細?→






トーク2・中編














上記動画中で言及している「参考ファイル群」






トークの中で紹介した知人O氏のブログ記事→      及びトーク動画→







補足的参考資料


 「四季の瞑想 クリシュナムリティの一日一話」(J・クリシュナムリティ著 大野純一監修 こまい ひさよ訳、11年コスモス・ライブラリー刊)より引用



その1 「信仰の限界を超えて」(12月21日記事)


私にとっては、有神論者であることも無神論者であることも共にばかげていることです。真理の何たるかを知っていたら、人は有神論者にもならなければ、無神論者にもならないことでしょう。なぜならば、その気づきの中では、信じる必要がないからです。しかし単に望み、憶測を巡らすだけの人、自分を支持し、特定のやり方で行動するように導いてくれる信仰や不信仰に関心を向けている人、このような人には気づきはありません。

さて全く異なったやり方で真理なり神なりに取り組むと、あなたはあらゆる信仰の限界を超えた何か、言葉の幻想を超えた何かを、一個人として自分自身で見出すことでしょう。しかしそれ、つまり真理なり神なりの発見には、偉大なる英知が必要です。

そしてその英知とは信仰する、しないという主張ではなく、英知の欠如によって生じた障害物を認識することなのです。

ですから神や真理-申し上げておきますが、このようなものは確かに存在します。私はそれを実感したことがあるのです。-を発見、認識、はっきり理解するためには、精神は障害物、すなわち幾年もの間に亘って、自己防衛と安全志向を土台に構築されてきた障害物から自由にならなければなりません。自分は自由であると言うだけで、安全志向から解放されるはずがありません。

これらの障害物の壁を突き破るためには、単なる知性ではなく、多大なる英知を持たなければならないのです。

私にとって、英知とは十全に調和している精神と心(ハート)のことで、そうある時、誰に問うこともなく、あなたは自分自身でその真実在(リアリティー)が何であるかを見出すのです。



その2 「内なる革命」(9月26日記事)


真理なるものは一瞬一瞬の中にのみ発見され得るものであり、連続しているものではありません。しかし真理を発見したいと思う精神は、それ自体が時間の産物であるが故に、時間の範囲内でしか機能することができません。このような訳で、このような精神が真理なるものを発見するのは不可能です。

精神を知るためには、精神はそれ自体を知らなければなりません。精神から切り離された「私」は存在しないからです。ちょうどダイヤモンドの性質がダイヤモンドそのものから切り離されていないように、精神から切り離された性質など存在しません。

精神を理解するために、他人の考えに従ってそれを解釈してはなりません。そんなことをするのではなく、自分の精神全体がどのように機能しているかを観察するのです。

精神の論理的思考の巡らし方やその願望、動機、野心、追求、羨望、貪欲さ並びに恐怖といった、精神のプロセス全体を知ると、精神がそれ自体を超越することが可能となります。そしてそうすると、全く新しい何ものかの発見があるのです。

その新しさという特質は途方もない情熱、とてつもない意気込みを生み、それが深い内面的な革命をもたらします。

そして世の中を変容させることができるのは、いかなる政治システム、経済システムでもなく、この内面的な革命だけであるのです。






トーク2・後編













トークの中で紹介した知人の手記(
サイト管理人が若干のリライトを施してあります





1月にがんと診断されマインドがユサユサ・オロオロしていた頃のことです。

電車に乗っていたら、「静かにしていなさい」というラマナからの啓示が聞こえた?感じた?・・・・途端、その瞬間に心も世界もしーんと静寂になってしまいました。

自分でそうしようと思わずに…です、とても不思議な体験でした。



その後はほとんどマインドが揺れずに、

「この先の生命があろうが、なかろうが私の手の中にはない・・・一切をお任せしよう」
 


・・と、なぜだか安心して検査・手術をしながら仕事をし、普通に日常を送る事が出来ました。手術後に抗がん剤かホルモン剤と言われてましたが、奇跡的に手術で治療終了となりました。




その日以来、上手く表現できませんが、「ラマナはいつも本当にいらっしゃるのだ!」という絶対的な確信?が奥深くにあります。


病気が治る・治らないではなく、マインドや想念に振り回されず、淡々と笑いもあり、出来る事をやりながら日常を過ごせた事に本当に感謝してます。これからも色々あるようにみえてもジタバタしても、奥深くでは大丈夫だ・・と感じてます。


その内容の有り難い経験さえも日々に流されて新鮮さが薄れたりすることもある現在ですが、わさわさと余裕なく意識出来ない時でも本当は大丈夫・・というか、 お気楽でいられるようになってきました(笑)。


「ラマナがいつでもどこにでもいらっしゃる!」・・という絶対的な感覚それ自体は全く変わっていないからです。
















編集雑記


初めてラマナアシュラムを訪れた方はおそらく、「建物の関係性がよくわからない」・・・と戸惑うかもしれません。

そんなに広いというわけではない敷地の中にあれこれの建物が並んでいて、しかも「そこかしこで礼拝や瞑想をしている人」がいるし、「一体どこがこのアシュラムの中心なのだろう?」と思われるかもしれませんね(サイト管理人の初訪問時の印象です・・笑)。

これはつまり「最初からアシュラム建設の青写真があって、それを実現してきた」のではなく、その都度ごとに「必要な建物」が後から建て増しされてきた・・・からです。


よく日本の老舗の温泉旅館などが発展に伴って「本館・別館・新館・第2別館・・・・・というような具合で、あたかも迷路のように入り組んでいる」・・様子がありますが、ラマナ・アシュラムもそんな感じなのかも・・・知れません(笑)。



今回のトークの中で、
「不安・恐怖」とは実体がない幻影なのではないか?・・・と提示したのですが、このテーマについては次回のトークにて「サイト管理人の実体験から得られた見識」をご紹介したい・・・と考えています。







トーク第3回へ続く・・ 

 

 

 

 

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