OM NAMO BHAGAVATEE SRI RAMANAYA ARUNACHALA SHIVA
第1部「肉体なきグルの臨在と恩寵」
PART8「現代におけるラマナへの帰依とは?」
・彼への信奉者になるにあたり、何らかの「人工的に後付けな儀式」に過ぎない「イニシェーション」としてのあれこれのパフォーマンスへの参加は全く不要である。
・教団という組織に属することで招来される、非「霊性の道」的なあれこれの関係性の束縛がない。
・現代の不適切なスピリチュアル・ビジネスに巻き込まれない。
・・・・いわゆるスピリチュアルと呼ばれる世界にあっては、有名・無名、自称・他称、現存・逝去に関わらず数多の聖者さん・賢者さん・スピリチュアルマスター&教師がいらっしゃって、それぞれが自前の教団やサークルのグルとして信奉者達を導いているわけだが、
その中にあってラマナ・マハルシとは、霊性の高みの極北に座している・・これほどまでに霊性のエッセンスの純度100%の顕現であり、「胡散臭さが皆無」のサットグルは、実際問題として極めて希有な存在である・・・というのが私個人の見解である。
~シリウス・マハナンダ(サイト管理人)
現代における宗教団体としてはかなり異色な存在と言えるだろう。
世間によくありがちな見解、例えば、
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「ラマナ・マハリシはヒンドゥ教のある流派の開祖であり、アルナーチャラ山は彼が悟りを開いた聖地であり、ラマナ・アシュラムはいわば教団の総本山である。
そこには『公式な教義』なるものがあって、例えば入信の儀式であるとか、信者としての義務(新しい信徒獲得のための勧誘活動とかの)があり、あるいは何か『階級』のようなものがあって昇進試験があるとか、何か具体的な実習カリキュラムがあってその達成度に応じて、「あなたの霊的進歩は今このあたりです・・」と上層部が認定してくれるとか・・・。
その他諸々のおよそ宗教団体、というか教団と言う言葉から連想される様々なシステムがあるのだろう。」などなど・・・・・。
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事実はそういうものでは全くないのである。
・・・ラマナ=アルナーチャラ及びラマナアシュラムをそういう概念で捉えようとすること自体が、出発点からしておよそ見当違いである。
彼は比類なき聖者であり完全に世俗を解脱されていたから、彼自身がアシュラムというものを「運営」されていたわけではない・・彼は「自分のもの」というものは持っていなかったし、教団を組織するというような事には全く関心がなかった。
彼を慕って集まってきた人たちが自然にグループを形成し、それがアシュラムとなっていったわけである。
アシュラムであれこれ「問題や揉め事」が起こるとラマナのご裁可が求められたのだが、その際の返答は常に「あなた方が話し合って決めなさい」というものであったそうだ・・・それで相手が納得せず「バガヴァンの望まれることをお聞きしたいのです」と突っ込まれると、「私の望む事は、ただ静かに座っていることです」と答えられたそうである(笑)
そもそもラマナの教えは、システマティックにマニュアル的なアプローチには全くそぐわない。
それを反映して、ラマナアシュラムは確かに「宗教施設」であるが、いわゆる「教団」というスタイルはとっていない。
欧米など中心に「ラマナ・ケンドラ」と呼ばれる団体が活動していて日本にも「日本ラマナ協会」なる団体があるが、いずれもこれらの団体は「勝手に活動している」のであって、ラマナアシュラムとは友好関係にあるが、「支部」として統制されているのではない・・という特徴がある。
従って「勉強会」などは、誰がどのように立ち上げ運営しても自由であってどこからもクレームは来ないのだが、もちろん逆にその団体の「由緒や活動状況」、そしてそこで教えられている「教義の正当性?」をアシュラムが公認・保証してくれるわけでもない(笑)。
アシュラムのホールはゲストでなくても出入り自由であるし(時間内ならどこで瞑想していても自由)、それに際して日本の殆どの有名寺社仏閣のような「拝顔料」もない。
そもそも特別なカリキュラムもレクチャーもワークショップもないから、そういう料金が発生しないし、宗教団体によくありがちな特別な「秘法伝授」などというなんとも胡散臭い・眉唾的なゴタゴタもなければ、「あれを買え・これを受持せよ!」とインチキな作り物(たいていこういうものは目の玉が飛び出るほどのお値段である・・笑)を強制的に買わされることもない。
真のイニシェーションはダイレクトにもたらされる!!
そもそもラマナ・マハリシの信奉者である・・ということは、何か教団に属したり特定の教理によって「私」を「自己規定」することとはまるで異質の事である。
ラマナご自身が、「私は誰一人として弟子というものは認めません」と言っていたわけであるし、彼に帰依するということにあたっては、
あれこれの手続きやら儀式やらもちろんお金も一切全く必要としない。
何かしら秘密めいた「入信儀式」としての神秘的イニシエーション(しかもやたら高額な)・・というような、一般的な宗教団体に顕著なタームは一切不要なのだ。
ラマナ=アルナーチャラへの帰依とは、誰か特定の人物に「イニシェーション」の儀式を受ける必要もなく、思い立ったら全く個人的に今すぐそのままその場で出来てしまうのだ。必要なことはただ一つ・・私はラマナ=アルナーチャラ信奉者だと「日常的に自覚する」だけで良いのだ。
真の意味のイニシェーションとは霊的な領域において、ラマナ=アルナーチャラからダイレクトにもたらされるのである。

「恐怖」自体が存在しない幻影であるのなら、我々は「救済」される必要があるのだろうか?
バガヴァンは常に「大いなる至福」の内に安住されていた・・・正しく「神」=「私」=「在る」=「至福」の体現そのものである。
そのような方が、よくある新興宗教団体のように、「恐怖」と「依存」という馬鹿馬鹿しい心理的マジックで信者を拘束するわけがない。
殆どのカルト宗教の教義は、それまで抱いていた「不安・心配・恐怖」を解消する代わりに(各種「修行」はそれなりに効力を有するから)、それとは別の「不安・心配・恐怖」で信者達を縛りつける・・・というパターンである。
「この教義・教祖のみが絶対的な真実であり、それに疑いを持ち、離反するものは地獄に落ちる(とかなんとか)」という類のものだ・・これは要するにお金を運んでくれる「お客さん」を引き留めたいだけの魂胆である。
あるいは「いつこれこれの時期に地球は滅亡する・・この信仰を持つ人のみが救済される」とか言うご託宣もよくありがちなタームであるのだが、さてこの手のご託宣が本当に実現したことがこれまでにあっただろうか?
まあ、ほとんどがその手のご託宣は見事に外れるのだが、しかし「あれは間違いだった」とは口が裂けても言えないから、言い訳は判で押したように、
「我等の教祖の祈りが御神意を翻したのだ!」となる。
・・はて?救済されるのはおたくの信奉者だけだったのでは?と問えばこう答えが返ってくるだろう、
「いや教祖様の広大なるお慈悲が神をして人類全てをお救い下さったのだ」。
それだけの広大な慈悲深い方であるなら、最初からそうすれば良いではないか、うちの信者だけなんてけちくさいことをいわずに・・と思うのだが、それだと「商売」にならないので大変都合が悪いわけである。
ラマナは常に「大いなる至福」の内に安住されていた・・・正しく「神」=「私」=「在る」=「至福」の体現そのものである。
このような境地にあって、例えば「ハルマゲドン」始めとしたもろもろの「恐怖」それ自体に何の意味があるのか?
「恐怖」自体が存在しない幻影であるのなら、果たして我々は「何」から「救済」される必要があるのだろうか?(笑)
「霊性」ということについて、「それ全体がどういうことなのか?」ということ自体を理解することが大切であろう。
「神」がいかようなものか?を問う前に、何かしら不可知の「おおいなるもの」が臨在されたもう・・・ということと、それは「私」の外にある別物ではない・・ということ・・・そもそも神様云々をひねくり回しているところの「私」とは何か?
宗教というものの「枝葉末節」をどんどん剥ぎ取っていくと最終的には、「神」=「私」=「在る」=「至福」・・・おそらくここに行き着くのではないだろうか?
全き自由な「オルタナティヴ」な生き方
日本人的感性からすれば、彼のジュニャーナの教えは「禅」と同質でありバクティの教えは「念仏」と同質である・・・悟りと救済、覚醒と赦しがそのまま同時にそこに内包される・・というかそれ自身そのものである。
確かにラマナは「ヒンドゥ」という肥沃なる精神風土の地平から出現された聖者であるが、その地平を遙かに超越したところにおわしまするのである。
それ故に彼に帰依することによっても他のいかなる宗教的属性をも排除されないし、同時に「懐疑的無神論」ですら併存できる上に、世俗にあるままで(得度出家の必要がない)しかも世間に巻き込まれない全き自由な「オルタナティヴ」な生き方が可能である。
例えばサイト管理人はその顕著なる好例であろう(笑)。
「懐疑的無神論者」を標榜しつつも、同時に「フリー神道イスト」を自認する「ラマナ=アルナーチャラ・バクタ?」として、出家もせずして無為徒食なる「神の道具」としてお気楽脳天気に生かされ在るのだから。
・・・・かくしてこの「臨在」サイトの管理運営というのは、確かにラマナ関連の「日本語によるジェネラル・インフォメーション」の担当窓口的?に機能しているのだが、「ボランティア」などという崇高な精神の発露の営為などではない。
単にラマナ=アルナーチャラのことが「好きで好きでたまらない」情熱の発露?であり、要するに「大いなるお節介」の個人的営為なのである。
「宣伝屋・案内屋」という自己満足的な自覚のもとに、誰から頼まれたわけでもなく自分勝手にやっているだけなのである。
そしてこういうような形で勝手にあれこれ活動しているラマナ信奉者たちが世界中に存在し、それぞれのカルマや資質そして運命に導かれてアルナーチャラの元に引き寄せられているのだ。
そんな彼らは次のような箴言をまさしく真理として実感し受け入れているのである。
「ひとたびアルナーチャラに捕えらえた者は、虎の口にくわえられた獲物の如く、決して逃げ去ることは出来ない」