OM NAMO BHAGAVATEE SRI RAMANAYA ARUNACHALA SHIVA

第1部「肉体なきグルの臨在と恩寵」

 

 

PART7「24時間営業・年中無休・料金無料!?

 

 

 

 

 

何か不安やら悲しみやらを抱えた時に「カウンセリングを受ける」という対処法があるのだが、「運命」やら「生死の理」などというテーマになると、これらは本来人間が扱える領域ではない。

・・だとしたら相談の持って行き先は「神様」の方が、その営業項目としては誠に適切であろう!


アルナーチャラは巨大な身体を持つカウンセラーでもある・・・彼の回答には全くの淀みがない、それはアルナーチャラ自体が神様であるからだ。

 

かくしてアルナーチャラにカウンセリングを受けるのは最上の策であろう・・・しかも彼は高額の料金なんぞ請求しない、料金は全く無料、その上セッションは制限時間なし・24時間営業・年中無休なのだ!

 

ただしその代わりに「その人のエゴ」を差し出すことを請求するので覚悟が必要である(笑)。


〜シリウス・マハナンディ(サイト管理人)

 

 

 

 

 

「原始キリスト教」・「原始仏教」の様相は案外こんな感じだったのかも?

 

 

現在のラマナアシュラムにあっても、ラマナ在世当時から営まれていた日々のルーティンワークがそのまま継承され実施されているわけだが、そのことは日本の精神風土においても同じくお大師(マハルシ)さまと呼ばれる空海さんが、高野山にあっては「現在もいらっしゃる」という基本的大前提のもとに、御大師様の霊廟にて「在世時と同じようなお世話」の仕事が毎日の儀式として機能している・・ということも容易に共感しうる。


またイエスやブッダが遙か2千年以上の大昔にその身体的存在が消滅したにも関わらず、その霊性の比類無き高み故に現在においても信奉者にあっては、「リアル」な存在としてその恩寵を働きかけられ続けている・・・ということと全く同じである。


それと同時に、激減したとはいえ「在世中のラマナ」と直接関わりがあった方々がまだ存命でいらっしゃる・・・という点では、

イエスやブッダの昇天及びニルヴァーナの後にもまだ「直接関わりがあった使徒や直弟子たちが生きて活動していた」という時期の「原始キリスト教」・「原始仏教」の様相というのが、「こんな感じだったのではないか?」・・・という彷彿たるイメージ喚起を容易に誘発させられることにもなるだろう。

 

 

 

 


「肉体無きグル」であるが故の効用?


 

 

最晩年になってラマナの身体的健康上の配慮の為に、アシュラム管理者側が「ダルシャン・タイム」に制限を加えるようになる以前には、訪問者はいつであれ自由にこのホールにラマナを訪問し、教えを請うことができたといわれているし、動物達も「ひょいと」やってきたそうである。

 


さて、もしラマナが現代に在世されていたとしたら・・・

 

現在の超高名な聖者さん・賢者さん・スピリチュアルマスター&教師同様に物凄い信奉者集団に囲まれていて、直接お目にかかる機会というものは極めて厳重に制限・管理されたものであることだろう。

 

アシュラムというものにあっては、グルのダルシャンというものが最も重要なことであるが、「肉体を持つグル」に直接お目にかかる!!というのは、相手が高名であればあるほどその機会が限定されてしまう・・・のはかなり皮肉な状況ではある。

 

ラマナは65年前に「肉体を離れて」しまわれたのだが、なんといってもここにはアルナーチャラがある!!


ラマナは現在にあっては「山」という「巨大な身体・・しかもかなりの長命!!」を持って臨在されているのだ。

 

 

 

 

 

 

このことの凄さというものが、知的理解だけではどうしてもその実感が伝わらないなあ・・・・と隔靴掻痒の感に堪えないのだが、

つまりこちらが望めば煩雑な手続き等は一切なしで「24時間営業・年中無休・料金無料」好きなだけダイレクトにダルシャンを受けられる!!!・・・・わけなのである。

 

何をしていようとしていまいと、こちらが気持ちを向けさえすればアルナーチャラは常に眼前に不動のものとして在る・・・残念ながら喋ってはくれないが、それ故にこちらとしてもタミル語も英語も不要・・・相手は山である以上「言語的コミュニケーション」自体が無意味なのである(笑)


朝起きれば山がある。飯を食えば山、瞑想すれば山、アーサナすれば山、太極拳すれば山、気功すれば山、お茶のめば山、散歩すれば山、小便すれば山、糞すれば山、水浴すれば山、洗濯すれば山、本読めば山、手紙書けば山、思索すれば山、ぼけっとすれば山、歯みがきすれば山、寝れば山、「私」がいれば山、迷っていても山、何もしなくとも山・・・

 

いついかなる場合でもラマナ=アルナーチャラはそこに臨在され、あの「宇宙そのものがそこに在る」と評される瞳の広大無辺な慈悲の眼差しで、一切の価値判断なしでこちらをご覧になっているのである。


 

 

 

 

Part8「現代におけるラマナへの帰依とは?」へ続く・・ 

 

 

 

 

 

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