あなたが光そのものなのです
バンガロール出身の写真家ウェリング氏がバガヴァンの写真を何枚も撮ろうとしたとき、バガヴァンは明かりが十分かどうか尋ねた。
ウェリング氏は「バガヴァン、あなたが光そのものなのです」と答え、写真を撮り始めた。
この写真ーウェリングの撮ったーは地球の隅々まで光を運ぶことになった。
バガヴァンを一目見ただけの人、または写真でしか見たことのない人でも彼らの知人ひとりを思い出すよりも鮮明に、心の眼で彼を思い起こすことができる。それは多分、愛、恩恵、知恵、深い洞察力、バガヴァンの写真から輝き出る幼子のような純真さが、どんな言葉よりもよい瞑想の出発点となるからであろう。
ーアーサー・オズボーン
これほど表情豊かな美しい写真を私は知らない。私はバガヴァンの眼差しと限りない慈悲の微笑みを見つめながら何時間も過ごした。これなしに一日を過ごすことはできない。
ーS・P・ムケルジー
バガヴァンは繰り返し何度も、真のマハリシは人々が見る肉体ではなく、内なる存在であるということを私たちに教えた。彼の存命中にインドへ旅することができなかった人々は、この言葉に安らぎを得ることができるだろう。人はどこにいても彼の存在に呼びかけることができ、ハートの中でその実在を感じることができるということだ。
ーポール・ブラントン
☆「沈黙の聖者 ラマナ・マハルシーその生涯と教え(シュリ・ラマナシュラマム編著・柳田侃監訳・出帆新社刊)」 第11章 永遠なる存在 より抜粋引用
彼の写真を見ることは、偉大な知恵(ジュニャーナ)を吸い込むことなのだ。
1950年のバガヴァンのマハー・ニルヴァーナ以降、わたしたちは肉眼で直接にバガヴァンの姿を見ることはできなくなりました。
アーサー・オズボーンは雑誌に掲載するシュリ・バガヴァンに関する論文には、たとえただ一度だけでもバガヴァンの名が出てくるものには、すべてバガヴァンの写真を掲載するよう主張しました。しかし、アシュラムの内部あるいは外部にいた若干の有力な帰依者は、次のような理由でこの主張を批判しました。
「シュリ・バガヴァンの重要な教えは”私は身体であるという概念”を放棄することである。それなのになぜバガヴァンの”形”(身体)を崇めようとするのか?」と。
それに対してオズボーンは次のように言いました。
「シュリ・バガヴァンの写真は、あなたや私、あるいはその他のの人々の写真とは違うのだ。われわれの場合、その身体にあるすべての毛穴は無知によって満たされている。しかし、われわれの師の身体にあるすべての毛穴、あふれるほどの”ジュニャーナ””知恵””光”によって満たされている。だから彼の写真を見ることは、ほんとうは偉大な知恵(ジュニャーナ)を吸い込むことなのだ。」
シュリ・バガヴァンは身体をもってアルナーチャラの麓におられた時にも、彼は身体ではなかったのです。
帰依者たちが見ていたのはかれの身体ではなく、真我だったのです。バガヴァンは身体をもっている帰依者たちのために、美しい顔立ちをした人間の姿であらわれ、そのことによって人々に「自己の本性は身体でなく、真我である」という真理を教えたのでした。
シュリ・バガヴァンがおびただしい数の写真を残されたことは、バガヴァンの同情心(Karuna)のあらわれであり、その広大な恩寵にほかならないのではないでしょうか?
☆柳田文献 02年8月15日記事より抜粋
無制限の愛・彼の視線には一切の批判がない
アシュラムが制作・販売している毎年のカレンダーにはラマナのお写真がでかでかと載っていて、ご尊顔を拝しているとラマナはこちらに向かって微笑みながら、
「やあ、君のことをいつだって見ているのだよ」
とおっしゃる声が聞こえるような気がしてくる・・・・。
カレンダーに限らずアシュラムの各ホール内には(そして我が家のあちこちにも)大小様々ラマナのお写真が飾られている。ラマナのお写真というのはその殆どがいわゆる「カメラ目線」で撮影されているので、彼はいつもこちらを「見つめて」おられる格好になる。
私のような俗物だと不真面目な妄想に耽っていることも多々あるし、けしからん行いもしょっちゅうなのだが、こういう時に「ラマナの視線とぶつかる」といささかきまりの悪い心持になってしまう(笑)のだが、しかし彼の視線には一切の批判がないのである。
彼の肉体はもう65年も前に消滅してしまったのであり、今ここを訪問するゲストの大半は、人間としてのラマナにお会いしたことがない世代である。
・・であるはずなのに、まったくそういう風に感じられないのである、すぐそこに「ひょいと」ラマナがおられるような「日常感覚」なのである。
退屈な日々にあってすらも、我々はラマナと共に「生活」しているのだ・・・!ということを身にしみて実感できるということが、アシュラム生活の最大の醍醐味なのである、今後どれほど「世俗化傾向」が強まっていこうとも。
「食って寝て歩いて」いれば充分というのは、それらが全てラマナ=アルナーチャラの比類なき恩寵と臨在の下であるからなのだ・・ラマナ=アルナーチャラの「サットグルの視線」というのは、いつでもどこででも、そして「何をしていようと」常に私に向けられているのである(一切の批判無しに)。
そしてこれはごくたまにだが、
「この眼差しがこの世に存在する一切合財の被造物(それは例えばゴミや糞尿や汚物などにも分け隔て無く!)に注がれているのだ!!」
ということをリアルに実感できることがある・・・・・それはただただ「遍照金剛」としか例えようのない比類なき慈悲の眼差しなのである。
☆サイト管理人のブログ記事より抜粋再編集
ラマナの瞳・・・「宇宙そのもの」がそこにある!!
とりわけラマナの「瞳」については、信奉者だけでなく少なからぬ人々がその魅力に惹かれている・・わけでもある。
いわゆる「グルの一瞥」という言葉があって、特にラマナの場合「彼に見つめられること自体が既にイニシェーションなのである」・・・ことは、多くの体験者の話に証せられているし、
それは彼が身体的に存在していた時分だけのことではなく、現在にあっても残されているお写真や動画であっても、機縁満ちた者にとってはまごうことなく「グルの一瞥」として機能するのである。
女性一人でこれから初めてアルナーチャラへ行く!・・という方とお会いしたときのことである。
インド自体が初めてだというのに殆ど「恐れ」を抱いていない、という素晴らしく度胸が据わっている方なのだが、お話をしてみると特に体系だって霊的修行などをしたことは無いそうだ。
しかしある時ラマナのお写真を見て、あの「宇宙そのもの」がそこにあると評されたりするラマナの瞳・・・その眼差しにどうやら「どかーんとやられちゃった?」模様で(それでアルナーチャラ訪問を決意されたとのこと)、この方はラマナやアルナーチャラの写真を見るだけで「涙が止まらなくなる」との事。
(私の方も「あの比類なき恩寵と臨在」について話し始めたら、やはり涙が溢れてきてしまうのだが、どうやらこの方は私と同類?で「神様に愛されちゃってる」方のようだ。)
・・・こういう人は「あんまり情報でがっちり固めすぎない」方が返って素敵な体験をしてしまったりするのだが、もしアルナーチャラでなにがしか「体験」することがあるとしたら、それは「見神」ではなく真逆の「神見」体験であろう。
つまり「神を見る」のではなく、「神が見る」ということである。
ここには「比類無き臨在と恩寵」が満ち満ちているのは事実であるが、それは同時に「見られている」ということのリアルな感覚でもある。
今この瞬間何をしていようと、「ラマナ=アルナーチャラは私をご覧になっていらっしゃる」・・・という強烈な「臨在」の感覚なのだ。
それはあたかも細胞の一つ一つまで浸透するかのようなきめの細かさであり、「私なるもの」がすっかり丸裸にされてしまっている・・ような感覚をもたらすのだが、
決してそれは彼自身の「価値判断」を全く持っていない・・のも特徴であろう。
・・・彼は一切の「価値判断」なしに、ただ「ご覧になっている」のである。それは「無条件の愛」であり「慈悲」ともいえるものだろう。
そしてそれは時に「ラマナの事を全く知らない人」であってさえ、多大なる影響を及ぼすことさえあるのだ・・・・!!
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