OM NAMO BHAGAVATEE SRI RAMANAYA ARUNACHALA SHIVA

第1部「肉体なきグルの臨在と恩寵」

 

 

 

PART9「それは究極のギャンブルである

 

 

 

グルの恩寵は常にそこにある。
あなたはそれがどこか遠く、空高くにあって、
そこから降り注がれるものだと想像している。

実際は、それはあなたの内に、あなたのハートの中にある。
そして、心が源の中に吸収された瞬間、
恩寵はあなたの内側から泉のように湧き上がってくるのである。

バガヴァン・シュリ・ラマナ・マハルシ~「静寂の瞬間 ラマナ・マハルシとともに」より

 


 

 

至上命題が常に鼻先に突きつけられる

 

 


ラマナアシュラムでの滞在生活とは、一般的なヨーガアシュラムやスピ系ワークショップやリトリートのように、

「あれこれのレクチャーやらセミナーやらエキササイズなどによって構成されたシステマティックな『修行プログラム』があって、そういうものの『定期コース』を受講する」

・・というような明確な目的のあるアシュラム生活を送るというものではない。

繰り返し紹介しているように、ラマナアシュラムではそのようなカリキュラムは一切存在しないのである。

 

アルナーチャラの元でのサーダナとは、例えば永平寺の雲水修行のようなハードな形態とは正反対なゆるさ・自由度の元に生活が繰り返されるのだが(笑)、しかし直面・対峙せざるを得ない「実存状況」はかなりの峻厳さなのである。

・・日常生活の刻々の局面に於いて、もっとも根源的・本質的な「私は誰か?」の命題が、「常に鼻先に突きつけられる」ことになるのだから。

 

 

 

 

 

 

捨て去るために来る

 

 

ラマナご自身が直接お書きになった「アルナーチャラへの5つの賛歌」の中の代表作「アルナーチャラ・アクシャラ・マナ・マーライ(邦訳名:『文字の結婚花輪』)」はアシュラムのテーマソング的な存在でもあるのだが、↓

 

 

 

この歌の第1節はよく知られているように、

「ハートの中で汝を瞑想するもののエゴを根こそぎにする、おお、アルナーチャラよ!!」


 

であるわけで、何事かの(スピリチュアルな)体験を「新たに付け加える・獲得する」ことを期待するのではなく、むしろここへは何事かを・何事かへの期待を「捨て去る」為に来る・・・ことにこそ意味がある旅だったりする。


もっとも捨て去った後に、「新たなる地平」が恩寵としてもたらされる!!・・・ことももちろんあるのだが、

かといってそれを期待して・その手段として何事かを「捨て去る」のは、結局「獲得のための・・」というエゴの引力圏に結局は収束されてしまうのではなかろうか?

 

 

 

 

 

 

聖地巡礼とは究極のギャンブルである

 

 

 

悪魔に魂を売り渡すと欲望が叶えられると言われているがそれは真偽を確かめようがない。

しかしアルナーチャラにエゴを引き渡すと一切合財の面倒は彼が見てくれる、というのは多くの信奉者が体験し確信している点はまごうことなく事実である。

巡礼の旅とはある意味「究極のギャンブル」でもあるのだが、しかしこのギャンブルは「神様の方に全額」賭けなくては全く無意味であろう。

ラマナ・マハリシは、=アルナーチャラとしてまさに「臨在」され、その比類なき恩寵を常に放射し続けておられるのだ!!ということである。

そしてそのことを骨身にしみて直接体験出来たなら、

それはいみじくも盤珪禅師曰くところの、

「一切は不生の仏心にてととのう」・・というリアリティと同じものではなかろうか?

そのことがアルナーチャラ滞在の最大の意義といえるであろう。

これからここに初めて来訪される方々には、滞在中に是非ともこのラマナ=アルナーチャラの「比類無き臨在と恩寵」を、ほんの一瞬でもリアルに感じられるような「某かの働きかけがもたらされる」ことを願って止まない次第である。

 

 


 

 

 

☆最も優れた恩寵の形は沈黙である。

☆神の恩寵によって、あなたは神のことを想うのである。

☆恩寵とは始まりであり、中間であり、終わりである。恩寵とは真我である。


バガヴァン・シュリ・ラマナ・マハルシ~「アルナーチャラ・ラマナ 愛と明け渡し」より
 

 

 

 

第1部「肉体なきグルの臨在と恩寵」全終了

第2部「バクティ&信奉心・・・そして明け渡し」へ続く・・

 

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