OM NAMO BHAGAVATEE SRI RAMANAYA ARUNACHALA SHIVA

第2部「バクティ(Bhakti)&信奉心(Devotion)・・・そして明け渡し(Surrender)」







アシュラムを訪ねる信奉者にたいして、ラマナは「私に服従しなさい、そうすれば私は心を取り除くあろう」といいました。そして多くの人々がこの服従=放棄の道に従って探求を実行しました。「神・グル・真我は異なったものではなく同じもの」だったからです。

今日、私たちが置かれている条件のもとで探求を進めるもっとも容易な方法は、ラマナをグルとしてすべてを彼に任せる放棄の道ではないでしょうか?。

かってラマナが「アルナーチャラは内にあって外にはない」といったように、今やラマナは外にはなく、私たちの内にあるのですから。

真我はラマナなのです。

 ☆柳田侃文献「協会機関誌37号巻頭文」よりサイト管理人による任意抜




 

「バクティ」という営為を記述する・・・という事は、対象が茫漠的であり(「学究的」なアプローチではないだけに・・)最初に「全体の内容を構成」することはそもそも無理があるのではないか?・・・・ということで、このコーナーでは以下の4項目を、それぞれに「漸次追記更新していく」スタイルとしました。


1・「オンライン・ラマナ・サットサンガ」   毎週3回のペースで実施中





「散発的・一回性のイベント」ではなく、まごうことなき「ラマナ・バクタ」「ラマナ信奉者」が主宰する「定常的なラマナ・サットサンガ」です。


かっては関東・関西交互の隔月で日本ラマナ協会の「勉強会&サットサンガ」が開かれていましたが、現在では協会はほぼ活動停止状態となり、以降は時に有志諸兄各位発案による「ラマナ・サットサンガ」が開かれることがあっても、諸般の事情でそれらは「単発的な特別な」イベントという意味合いのものが多く、

一方でこの2年というものはコロナの影響で「集会」というものが忌避されるご時世で、「サットサンガ」を開催すること自体に躊躇する状況にあります。


その状況下にあって、「オンラインでの集まり・イベント」は会場を用意する必要もない上に「遠方に住む方々(海外であろうとも・・)」でも参集できる!!・・・というシステムの最大の特徴は、

「ラマナ・サットサンガ」をこれまでのような「特別なイベント」ではなく、むしろ
信奉者にとっての「ルーティーンとしてのごく普通の営為」の機会として提供する・・ことも可能になりました。


もちろん「ラマナ=アルナーチャラの臨在と恩寵」に触れる・・のは、ある意味かなり「非日常的で特殊」な出来事であるにしても、やはりそれはこちらが「そちらに(真我・神に)意識を向ける」機会があればこそでもあり、

この「そちらに意識を向ける」機会を、特別な集会イベントというよりも
「個人的な日常的営為」として回数的にもできるだけ多く提供する・・ことこそが、「オンライン・ラマナ・サットサンガ」運営の最大の目的です。→




2・ラマナご自身が書かれた文章群(詠唱用)の紹介   原則として毎週木曜日に更新中 





そして『ウパデーシャ・サーラム』は第3頌で「しかし、なんの執着もなく、神への奉仕の精神で行われた行為は、心を浄化し、解放への道を指し示す」と述べています。


このことを「神と運命」にそくして言えば、「神の意志を受け入れ、自分自身を神の道具と見なすこと」ということです。

神の意志は計り知ることのできないものであり、われわれはその動機や目的を知ることはできません。それはリーラ(遊戯)とか幻力といわれます。しかしマハルシは、「神の意志を受け入れ、自分を神の道具と見なすことによって、責任や自由意志という感覚をなくするのは賢明なことだ」と言っています。 (「不滅の意識」54P


                                                                        ☆柳田侃文献「協会機関誌51号巻頭文」よりサイト管理人による任意抜粋




上記の「オンライン・ラマナ・サットサンガ」では、詠唱動画としてラマナご自身が書かれた「教えの精髄(ウパディーシャ・サーラム)」・「文字の結婚花輪(シュリ・アルナーチャラ・アクシャラ・マナ・マウリ」をプログラムAで、「アルナーチャラへの五連の詩」をプログラムCで配信しています。


それらの動画では
「参加者一同で一緒に歌う!!」ために、原文のサンスクリット&タミル語の「日本語かな振り」テロップと各節の日本語訳文を添付しておりますが、このコーナーではそれらに加えて


「ローマナイズド・サンスクリットORタミル語」文章を添えての「概要解説と各節紹介」を掲載します。→








3・エッセイ 「余はいかにしてラマナ信奉者となりしか?
   最終更新 2021年12月21日





このエッセイを書き始めたのは2004年1月に「臨在」サイトを立ち上げて間もない頃であり、当初はこのコーナーにて過去のアシュラム滞在の思い出を始めラマナ・マハルシやアルナーチャラについて、あるいはインドにおける様々な体験や感想などを書き綴っていこう!!・・という趣旨でした。

執筆開始当時は「現地での柳田先生宅の留守番屋」時代(97から01年)からまだ3年ほどしか経過してない時分でしたが(柳田先生もご存命でした)、既に19年という歳月が経過した現在となっては細かい記憶がかなり薄れてきてしまいました(笑)が、まさしく題名通りに、



「私がどのような経緯を経て、熱烈なる『ラマナ=アルナーチャラ信奉者』となっていったのか?」




ということをメインテーマとして全体を再編成し、今日に至るまでの歳月を振り返っての出来事や感想について、これまでに書いた記事を修正加筆した上であらためて新しい文章を書いてみる・・・というスタンスに切り替えて、「1年に数回更新する」という形で現在に至っています。


これはもう完全に「個人的な事情」を全面開示したものであり、決してアートマ・ヴィチャーラ(真我の探求)という営為へのガイダンスではありませんが、かの比類無き「臨在と恩寵」というものへの「バクティ」という営為について、「副次的な参考事例」としてはそれなりに意義もあろうか?




・・ということで今回このコーナーに編入することにしました。→


2021年12月21日追記  このシリーズは21年3月の第16号で終了しましたが、今回久々に「特別号」を掲載しました。

 





4・「熱く語る〜ラマナ=アルナーチャラへの信愛」
   最終更新 2022年1月26日



ラマナは探求にとってはとりわけ放棄、あるいは献身の道が重要であることを、その全生涯を通じて身をもって示してきました。


放棄について問われたとき、バガヴァンは「2つの道があります。1つは『私』の根源を探求し、その根源に溶け込むこと、もう一つは神だけが全能であり、自分を完全に神に投げ出す以外に安心できる方法はないと感じることです。・・・・2つの方法は同じゴールに導きます。完全な放棄はジュニャーナあるいは解放に代わるもう一つの名前なのです」(Day by Day P.140)と答え、

また神については「神あるいは真我以外に何もない、私と私のものは存在しない、真我だけが存在するというこの知識がジュニャーナです」「バクティとジュニャーナの間には何のちがいもありません。バクティはジュニャーナ・マータまたはジュニャーナの母です」(同 P42)と答えています。
              

                                                                               ☆柳田侃文献「協会機関誌37号巻頭文」よりサイト管理人による任意抜粋




「臨在」サイト立ち上げから16年、信奉者としてのバクティの見地から「その比類なき恩寵と臨在」ということ、「ラマナ=アルナーチャラ」のスピリチュアルな至純のエッセンスとしてのGRACE & PRESENCE という事をひたすら表現してきたつもりですが、このプロジェクトではラマナ=アルナーチャラについて是非とも知っておいて欲しいあれこれの内容、そして「バクティ&ディヴォーション」ということを、「もっとも熱烈に語り、積極的に表現しようではないか!」


・・・ということになりました。私は
「沈黙のグルの元にある饒舌な三下」「ラマナの褌担ぎ」「しゃべる道具」である!・・・・という自覚に沿って(笑)、

それに相応しく?
ひたすら熱く語る動画サイトです。→



2022年1月26日追記  このシリーズは21年3月の「第9回」で終了しましたが、今回久々に「特別版」第2号を掲載しました。




















(画面左側中ほどにいる「赤いインド服・肩にタオル・バガヴァンバッグを下げている」人物がサイト管理人・・・スナップショットに偶然写っていた・・笑)





「ラマナ=アルナーチャラ」バクタとは? 




ラマナ=アルナーチャラの信奉者である・・ということは何か教団に属したり、特定の教理によって「私」を「自己規定」することとはまるで異質の事である。


そもそも勧誘もなければ、何かしら秘密めいた神秘的イニシエーション儀式・・などとというタームは一切ない・・・自分で「私は貴方に帰依します」と宣言し自覚すればそれでよしである。


そしていつどこにあろうとも、サットグルであるラマナ=アルナーチャラの恩寵は遍くハートに満ち溢れてくるのである!!


 
その比類なき臨在と恩寵の元に生かされ在る・・というリアルな実感の中にあるとき、「私」=「在る」=「至福
」=「神」=「真我」なのだ。




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