余はいかにしてラマナ信奉者となりしか? その11                                           

 

 

 

 

 


 


「南無大師遍照金剛」体験

 

 

さて歴史上に聖賢数多いらっしゃる中で、私自身が「教え」として最も感銘・影響を受けているのは実はラマナではなく、ジッドウ・クリシュナムリティなので(現在にあっても・・)、必然的に私は基本的に「懐疑主義者」だったりする。


アルナーチャラを頻繁に訪問・滞在するようになって、ラマナ=アルナーチャラの比類無き恩寵と臨在というものを、具体的な事象の現れという形でも数多体験してきた現在にあって尚、それを体験している「自分自身への懐疑」を抱き続けている・・・のである(笑)。

 

そんな風にしつこく懐疑し続けている私であるが、それでも何度か「腑に落ちる回答」が啓示としてもたらされた・・ことがあるのだ。


その中で今回は「南無大師遍照金剛」体験を紹介することにしよう。

 

 

前回紹介した「刃傷事件」は、私にとっての「大死一番」の局面であり想念としての懐疑を飛び越えて、ラマナ・バクタという「姿勢が定まった」体験だったわけだが、

「南無大師遍照金剛」体験というのは、もっと直裁的・直接的にラマナ=アルナーチャラの「比類無き臨在と恩寵」にハートをズドンと直撃された体験・・・であったと言えるだろう。

 

 

 

その体験は全く唐突に、不意にもたらされた・・・。


 

これは2008年のアシュラム滞在時であった。

 

サマディホールで日常行事のプージャが行われていて、私はラマナのサマディ(お墓)をプラダクシナ(「聖なる対象」の周りを右回りに円を描き歩いて礼拝する行為・・因みにギリとは「山」の意味で、それを巡礼するので「ギリ・プラダクシナ」となる)していたのだが、


実はそのヒンドゥのプージャ(儀式)というものには、私はあんまり興味がないのである・・・なんせサマディ(お墓)のリンガム(シヴァ神の象徴とでもいうべきオブジェ、早い話が聖なる「ちんぽこ」であるが・・)に対する儀式であるからそれは「法要」なわけで、

「法要」なんてものは古今東西「大して面白いものではない」と相場は決まっている(笑)。

 

で、サマディのプラダクシナにしたって毎度毎度そんなに「敬虔な気持ち」でやっている・・・とは到底言い難いのであって、どちらかと言えば普段は「なんとなくぶらぶらと歩く」程度だったりするわけだが、

実際その時もそんな具合で、「大して面白くない」法要のヴェーダ・チャンティングを聞きながら、「なんとなくぶらぶら」と歩いていただけ・・・というような、おおよそ「求道者」的な「修行生活」とは言い難いような状況下だった(笑)。

 

 

ところが「面白くないはず」のプージャのチャンティングが、その時に限っては何故か妙に熱を帯びているかのように、ひたひたと自分の内側に浸透してくる・・ような感じに捕らえられ始めたのである。


あれれ・・何だ? この変てこな感覚は?・・・と思いながらもふと、「ああ、これはきっとラマナの恩寵なのだろうなあ」と思った途端、何の脈絡もなくその体験が突如としてもたらされたのだ。

 

そのエネルギーが急激に見る見る膨らんでいって、息苦しいほど胸を締め付けてくるような感覚・・・

 

「おお、今ここに明らかにまごうことなくラマナが臨在されているのだ!!」

 

という確信が広がっていく・・・。


「ラマナが私をご覧になっている、そして私に恩寵を放たれているのだ!!」


 

いや、しかもそれだけではない・・・・。

 

「そうだ、これは『私』にだけ放たれているのではないぞ・・・・ここにいる全ての人々へ、そしてここにいない全ての人たちへ、私にとっての敵であり、私を好ましく思わない人たち、私が馬鹿にし、また私を馬鹿にする人たちへも一切の分け隔てなく、およそ世界中の全ての人に全く漏れることなく、ラマナは恩寵を放たれているのだ!!」


・・・という認識が新たなる地平が拓かれるように去来する。

 

 

そして更にそれだけではない・・・。


「いや人間だけではない、あらゆる生き物全てに・・蚊や蠅やゴキブリやヒルやナメクジなどの連中にももれなく、どんな下等な醜い嫌らしい連中、この世だけでなく地獄の魑魅魍魎の類にいたるまで、あらゆる生けるものへ、いや過去に生きていた&これから生まれ来るであろう全ての存在へ・・・・恩寵が放たれている!!」


 

まだ終わらない・・・。


「いやこれは生き物だけではない、命無き物質にいたるまで全てのあらゆるこの世あの世に存在する被造物に・・・善きものだけでなく武器やら核兵器やらの悪しきものにも、清らかなるものだけでなくゴミや排泄物などの汚物であってさえ一切漏れなく


 

 

「森羅万象の丸ごと全体、素粒子一つ一つに至るまでの一切合切全て、ラマナの臨在と恩寵が行き渡らないものはないのだ!!」


 

 

という啓示・・・後追いでこうやって言語化しているが、言葉としてのメッセージではなくて、そのような認識をもたらす力というのかエネルギーというのか、


 

とにかくあまりにも「圧倒的におわしまする」凄まじいばかりの熱いご神威とでもいうべき「かけまくもかしこき」なにものか・・・が、胸の中で爆発して身体全体が細胞一つ一つぶるぶると励起しているような感じというのだろうか?

 

 

 

もちろん別にこれは聖者さんたちのように、「なんとかサマディに入った」・・・とかいうような大げさなものではない。

第一その状態を明確冷徹に意識していられるのだし、案外「キノコトリップ」での変性意識状態と「どっこいどっこい」なのかもしれないではないか!(笑)


ではあろうとも・・・ただただそれは愛であり至福であり慈悲であり、滂沱と流れる純粋な涙であるのだが、それにどっぷりと浸りながら、やはりただぶらぶらと歩き続けた・・だけの、まあ時間にしたらほんの数分間の出来事だった。


 

この体験はほんの数分しか持続しなかったし、意識的に再現する事は出来ない・・・もっとも何かの拍子にその後も時々希に「もたらされる」ことはある・・のだが、それを捕まえ続けることは出来ない。

 

でまあ、「これが『南無大師遍照金剛』ということなのだ!」・・と腑に落ちたわけである。

 

もちろん本来の真言宗の教義的に適切かどうか?・・は極めて怪しいものであるのだが、いかなる教義上の解釈よりも私にはこの体験こそがこのマントラの「揺るぎなき真理」であり、

以来「OM NAMO BHAGAVATE SRI RAMANAYA ARUNACHALA SHIVA」と並んで、私自身が日常的に意識的に口にしている・・わけである(お社の前に在っても・・笑)。

 


 

  

 

 

 

 


☆参考までに・・この体験を音楽で表現する?と、

 

私は高校時代からクラシック音楽鑑賞を趣味としているのだが、その中でアントン・ブルックナー作曲の「交響曲第7番の第1楽章の集結部」というのが、この「南無大師遍照金剛」体験の感覚に近似している・・・ように感じられる。

 

恩寵の福音が浄々寂々と漂いながら、緩やかに煌めきながら下降してくる至福の真ん中に、圧倒的に巨大な神の臨在が立ち上がって天に昇り、全ての存在に「大いなる然り」が遍在・浸透していく・・・ような?音楽である(・・あくまでも私の個人的主観であり、それを意図した「標題音楽」ではない)。

 

下記動画の24:00~28:00にかけての部分・・・因みにこの演奏は超ウルトラ級名演なので、時間のある方は是非全曲をお聴き下さい(ただし演奏時間は約1時間半!!)

 

 

 

 

 

 

 


そんな具合で、「刃傷事件」共々この「南無大師遍照金剛」体験が、私の「懐疑を越えて」腑に落ちた「宗教的確信」なのである。


 

・・・・だがその絶対的確信をも「懐疑し続ける」という、二律背反アクロバティックな在り方を私は採用し続けるつもりである。

何故ならばその「絶対的確信なるもの」が「私なるもの」のアイデンティティに化してしまったら、それもまたエゴを肥大増長させ、スピリチュアリティの本質から逸れてしまうからである。


 

 

かくして次回は「クール・アーナンダ」体験を紹介する予定。

 

 

 

 

付記

 

☆マハナンダ祝詞「完全版」(家及びアシュラム滞在中の毎朝の礼拝時に奏上するもの、各地寺社仏閣参拝時には「簡略版」を奏上している)


 

>>>>>>> 

 

かけまくもかしこみかしこみもうす。

払いたまへ、清めたまへ、神ながら奇しき御霊、まもりたまえ、さきわひたまへ。

南無大師遍照金剛

畏くも、あまてらしますすめらおおおんかみ おわしまするところ


OM NAMO BAGAVATEE SRI RAMANAYA
ARUNACHALA SHIVA(アシュラム滞在時はこの部分が前項より先きになる)


オン ピラピラ ケンピラ ケンノウソワカ 南無秋葉三尺坊大権現

オン サラスワティ エイソワカ 南無弁財天 イチキシマサヨリヒメノミコト

オン シラバタニリ ウン ソワカ 南無ダキニ真天 稲荷大明神ウガノミタマノオオカミ

ヴィヴァ ハレルヤ グァダルーペ マリアさま
 
始め、縁ある諸天・諸霊、やおろず数多全ての畏き皆様方の篤き御加護に深謝す

OM SHANTI SHANTI SHANTI 


この比類なき臨在の恩寵は、森羅万象に遍く降り注ぎ、その至福と安寧が漏れなく浸透し、荘厳せられます南無大師遍照金剛にありまして、

今ここに無限の喜び・無上の豊饒(ゆたかさ)たる私は、畏くも御神意(おおみこころ)の顕れそのものとして生かされ在る、常に新たなる地平・あなたの道具であります。


よりて、一切合切の丸ごと全体は、当のものそれ自体のアルナーチャラであるあなたにすっかり帰依し奉りまする。

OM SHANTI SHANTI SHANTI


畏くも御神意(おおみこころ)明らかにされたまひ、御導きを宜しくお示し下さいますように。

私の一切の言動は MAHA ANANDAよりいでしマコトであり、

あなたを嘉し寿ぎ幸わひまする。


一切は不生の仏心にてととのふ。

意識は常にあなたのもとに、それ自身として不動であります。

皆様に祝福と安寧を、世界に祝福と安寧を、嘉し寿ぎ幸わひ給へ。


今ここに、神の庭にて踊る祝福せし道化シリウス・マハナンダ・鈴木尚志、その「あるべきようは」の筋を全うし、かけまくもかしこみかしこみもうす。

とほかみえみため、とほかみえみため。

 

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付記2

 

私が「いかにして『自覚的フリー神道イスト』となりしか?」についてはこちらの記事をどうぞ!!(笑)→

 

 

 

 


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