余はいかにしてラマナ信奉者となりしか? その10                                           

 

 

 

 

 


さて前号にて、

 

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今回はアシュラムでのセーヴァについて書いてみることにする。

・・・というつもりだったが、前置きの「渇水と酷暑季」の話が長くなり過ぎた?ので、これは次回の話題にするとしよう(笑)乞う、ご期待!!


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と文章を閉じて気がついたら1年以上も経過してしまった・・・でまあ、こうなるとなんだかその話題を書く意欲が消失してしまったので、全く 別の話題に転じることにする(笑)。


しかし折角なので?今回は題名である「余はいかにしてラマナ信奉者となりしか?」に相応しいというか、まさしくその中核を占めるエピソードを披瀝したいと思う次第。


 

私が「熱烈なるラマナ信奉者となっていったプロセス」の中でも「画期的な」3つのエピソードが中核となっているのだが、先ずは「刃傷事件」から書いてみたい。

 

まあこれは13年前の話で、つきあいの長い知人たちには「何を今更」のエピソードではあるのだが、初見の方にはなかなか興味深い内容であろう・・・数ある私のユニークなエピソードでもこれは「鉄板ネタ」だったりもするのだが(笑)。

 

 

事件の概要

 

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2005年6月20日午後10時半頃、当時居住していた東京・東中野のアパートの玄関先路上にて、同じアパートの住人で「アルコール依存症」&「被害妄想狂」の男性(60代半ば)に、包丁で襲撃され大立ち回りを演じた挙げ句、


左胸に3カ所傷を負い、一つが肺部深さ5センチ損傷となり推定出血4リッター・・・一時は生命の危機に瀕する局面もあったらしい。

東京医科大学付属病院の集中治療室に緊急搬送され、輸血(私の血液型はRh-B・・その時に判明した)と開胸止血手術、及び左掌数カ所切り傷(相手の包丁を握ってしまったので・・笑)で中指の知覚神経一部断裂のため縫合手術・・・結局全治1ヶ月の重傷となった刑事事件である(その後加害者は殺人未遂罪で懲役6年の刑に服した)。


 

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・・・というものである。


 

 

その時の傷跡(といっても大半は「手術痕」だが・・)は現在でも残されていて、掲載した写真は今年(2018年)当日撮影したもの。

 

 

 


 

 

いささか醜いというべき様相なので女性ならばどうにかしたいと悩むことだろうが、男性としては特にどうということもあるまい。

身体内部の感覚はもうほとんど違和感は解消されてしまったのだが、左手中指の知覚異常はあまり回復せず現在に至る・・まあこれは当時の主治医の説明によれば、どうやら「死ぬまでのお付き合い」のようだ(笑)


 

 

シリウス・マハナンダの誕生日


 

かくして6月20日は私にとっては最大のメモリアルデーなので、毎年この日にはあれこれとこれまでのことを思い返し何がしかの所感記事を書いてきた・・のだが、今回あらためてこれまでに書いてきた文章を元に全容を再構成して今回のエッセイとした次第。

 

多くの人がこの事件を「災難でしたねえ」と言ってくれたが、私にとってのこの事件は何らのトラウマやら心的外傷等の後遺症に悩まされるどころか、むしろ「嘉し寿ぎ幸わう」に相応しい誠に御慶なる奉祝の賜物だったのである。


確かに大層痛かったし苦しかったし緊急搬送されて集中治療室にいた間には、いわゆる「出血性ショック」でかなり危ない状態になったりもした・・のだが、同時に私にとっては全く予期しなかった「大死一番」の局面に立たされた契機であり、渦中にあって「信奉者としての絶対的確信」というものを単なる思い込みではなく「直接体験」として得ることができた。

 

その後の「南無大師遍照金剛」体験と「クール・アーナンダ」体験と並んで、 ラマナ=アルナーチャラ・バクタとしての「信仰の確信」を確立した・・というとてつもない宗教的僥倖であったのだ。

 

もっともそれは「悟り」だの「解脱」だのといった種類のものではなく、特別な神秘体験があったわけでもない。

ただ「死に掛かる状況下」にあって、「バガヴァン=アルナーチャラへのサレンダー(明け渡し)」が出来ていた・・という事、そして結果的に「神様に生かされ在る」ということをリアルに体感出来る様になった・・というだけのことである。


いわば「シリウス・マハナンダの誕生日」

といっても過言ではない。


私の体に残された「刃傷」はいささか大げさに表現すると、「バガヴァン=アルナーチャラへのバクティの証」としての聖痕・・のようなものなのだ!


 

 

「大死一番、絶後に再蘇」


 

ではそれはどのようなものであったのか?

いわば禅語にいわくところの「大死一番、絶後に再蘇」の体験といえるだろうが、一応事件から約2週間後のブログ記事を補筆・訂正してここに再掲すると・・・・

 

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2005年7月5日のブログ記事「確信」より

 


よく大怪我をして生死の境をさ迷うときに「臨死体験」というビジョンを得ることがあるようである。さて私の場合はどうであったのか?

 

残念ながら「あまりにも精神的にタフ」とドクターに評されたほど意識はクリアーな状態を保ち続けていたので、神々しいような神秘的な体験はなかった・・・。

もっともまだ集中治療室にいるときに、かなり苦しくて(肺をやられたので痛みというより呼吸が真っ当に出来なくて苦しかった・・当然酸素吸入もされていたわけである)、まあそんな場面でできる事といえば「マントラ」を唱えるしかないわけだが、そうしているうちにひょいとバガヴァン=アルナーチャラのイメージが鮮明に目の前に浮かんできたではないか!!(もっともこれは低酸素症による幻覚・・というのが妥当な解釈であろう)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

なんだか嬉しくて涙が出て身体も震え始めて、「うーむ、今この状態ならこのイメージの中に飛び込めそうだなあ・・」と考え、「よし、飛び込もう!!」とした途端に、看護士さんから「鈴木さん、大丈夫ですか?」と声がかかり体を揺さぶられ、飛込みを制止されイメージは消失してしまった。

「なんだよ、せっかく良いところだったのに!!・・」とがっかりしたが、少し経つとイメージは再び眼前に浮かんでくるではないか。「ようし、今度こそ!」と思って再び試みるもまたしても「鈴木さん、大丈夫ですか?しっかりしてください!!」と制止される。

 

その後何度か試みよう・・・としたのにその度に看護士さんの声と揺さぶりに制止されてしまい、そのうちにイメージは全く消えてしまい浮かんで来なくなってしまった。


さてあの時飛び込みに成功していたらどうなっていたのだろうか・・・?

 

もっともこの話はそれほど重要なものではない・・私にとって今回もっとも重要な体験であったのは自分の「定力」とでもいうか「決定心」というようなものをしっかり確認できた点にある。


「刃物で刺される」というのはやはりなかなかの非常事態であろうかと思うのだが、戦闘状態が終わり相手が立ち去った後、私は相当の出血を自覚できていた・・もしかしたらかなりの「深手」かもしれない・・・。

当然であるがこの時「死」というものが頭をよぎったわけだが(実際ドクターの話ではかなり危ない局面もあったそうだ)、その状況下に在って私に去来した思いは何であったか?

 

快川禅師のエピソードはあまりにも有名である。


「安禅は必ずしも山水をもちいず、心頭を滅却すれば火もおのずから涼し」という一語を、信長に焼き討ちされた恵林寺の境内で、さてこれから自分が焼け死んでいこう・・というときに発せられた。


で、私はどうであったのか・・・実は後から思い返してみると、「何でこんな目に遭わねばならんのだ?」と運命を恨んだり神様を疑うことはなく、「死にたくない!」と生に執着して取り乱すこともなく、


「さあて、これで私がそちらへ召されるのであれ、こちらに留め置かれるのであれ、一切合財はバガヴァン=アルナーチャラにお任せいたします」

 

 

というバクティの一点にぴったりと自分を置き続けることができたのであった・・。

 

ちょっとばかりは快川禅師に近づけたような感じもする・・というのは思い上がりであるにしても、取り立てて腹も肝っ玉も据わっているわけではないし、決して品行方正ではない「いい加減なヨーギ」の私としたら、なかなか上々の出来だったように思える(笑)。


これまで自分は本当に「バガヴァン=アルナーチャラの信奉者」と言えるのかなあ・・・?と、どこか自分を疑い続けてきた一面があったのだが、これで自信というか確信を得ることが出来たと感じる。

 

そして結局「こちら側」に留め置かれたわけで、正しく「恩寵の基に生かされある」以外の何ものでもない・・・かくなる上は今後のことは何がどうなろうと「御神意」次第であり、私が生きていくうえでの面倒は全部「神様持ち」である!!

 

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バクタとしての「あるべきようは」


以来現在までの流れは私自身の意志を越えたところで、いわば「生かされ在る」ものとしてこの現象世界の中に置かれている・・わけではあるが、最近になってかの明恵上人の説いた「あるべきようは」というのが、やっと腑に落ちた・・・というのがあった。


この「あるべきようは」というのが、これまではどうにもピンとこないどころかむしろ「受け入れられない」反発心すら感じていたのだが、この言葉を単なる訓戒とかではなく「実存的命題」として突きつけれた・・・としたら、「私」なるものに直接突きつけられた実存的な「禅問答」として対峙するとどうなるのか?

 

 

「おまえの『あるべきようは』とはこれいかに?」

 

 

 


 

と、時を越え普遍的な命題として明恵上人から直接突きつけれたとんでもなく深遠な命題ではないか!


とりわけ信奉心の基に「アイデンティティを敢えて放擲しよう・・」と試みている者にとっては、「バクタとしての筋」こそは「あるべきようは」への唯一の羅針盤と言えるのではなかろうか?

 


バクティとは、一切合切を神さまに明け渡し委ねる「在り方」である・・・そもそも「私なるもの」が自由意志で生きているという捉え方が最大の錯誤なのだ。

 

さまざまな条件が複合的重層的に綾なしているこの現象世界に、その一つの集合点としての「身体的存在」があり、それが何ものか「畏きもの」の顕れとして「生かされ在る」ということなのである。

その「畏きもの」「比類なきもの」・・・まあ神様ともいうし真我ともいうし、別に名前は何でもよいのだが、たまたまこの「私という身体的存在」にとっては、

それはいつでもどこにあっても、泣こうが笑おうが、楽しかろうが悲しかろうが、生きようが死のうが、何がどうあろうとも・・・


 

「ラマナ=アルナーチャラ」として現前されているのだ。


かくして、

 

「意識は常にアルナーチャラの元にそれ自身として不動である」


 

 

・・・私がいかなる状況に生きていようが死んでいようが、彼の比類無き「臨在と恩寵」の中にある・・・神様とはかように広大無辺なのだ。

 

こうなると向こうから「もたらされるもの」を「ただただ受け入れていく」・・しかないので、私個人が「ヴィジョン」なんぞを思い描く必要も意味も意義も全く無いのである。


もっともそれは「未来という時間軸に投影され外向きに展開するヴィジョン」またの名を「願望」と称する・・について、そのようなものは不要であるということであり、

なんというか「内的ヴィジョン」とは全く別物である。


外的ヴィジョンを明け渡して、「神の道具」として淡々と業務をこなす・・ということ。

 

そして「神様に生かされ在る」というのは、実際にはこの人生に意味も意義も不要だ!・・・ということにもなるのだ。

 

霊性の道の究極の真理(とされる)のは、

 

「ただ『在る』だけが在る」=至福それ自体そのもの=神様=私

 

 

 

であることを理解する・・・ことのようだ。


ということは、別段人生に意味や意義を見出すことが出来なくとも、「在る」事自体が至福そのもの!・・・ということさえ直覚的に体験できたなら、別に意味や意義は「あれば便利だがなくても困らない」となるではないか!!

 

かくして「人生の意味とか意義」なんてのは、「肉体的存在」としての私が「アイデンティティ」を確保する為に後付で創作するフィクション(でしかない)・・・と言っても過言ではない。


こういう風に達観することが出来たら、後は実に「お気楽脳天気!」なのだ。

 

 

 

「お気楽脳天気!!」で生きる


 

「お気楽脳天気!」というのは、あの「比類なき臨在・恩寵」に満たされて自分が「生かされ在る」のだという強烈な実感・・「何がどうあろうと全てはバガヴァン=アルナーチャラが面倒を見てくれるし、どんな死に方をしたって骨は拾ってくれるぜ!」・・・というリアルな確信からもたらされるものである。

 

事件を通して、「死ぬ」ということは単に「身体的存在」としての形式からの解放である・・・ということが解ったので(そもそも「私なるもの」とは、現象世界にあって機能している「虚構のリアリティ」という事象なのである)、 以来「死ぬこと」そのものには何らの恐怖心はないのは事実である・・要するにあの時の「ヴィジョン」に飛び込むことなのだから。

 

いかなる状況にあっても、

 

「サットグルは決して無駄なことはなされない・・私はその比類なき臨在と恩寵のもとに生かされ在るのである!」


 

 

それを自覚して「御神意」のおわしまするように現実を生きていくのだ・・・ とひたすら「お気楽脳天気」に構えることが肝要である。


 

面白かろうがつまらなかろうが不安と迷いのまっただ中を、高らかに笑いながらひょいひょいと綱渡り的に跳梁しつつ(私のセルフイメージとは「神の庭にて『祝福せし踊る」道化」である)、それら不安と迷いを含めた一切合切の「私」という中身・あらゆる「思い」なるものを、神様に「明け渡していく」ことが、結局は常に求められているバクタの筋としての「あるべきようは」であろう。

 

この「何がどうあろうと全てはバガヴァン=アルナーチャラが面倒を見てくれるし、どんな死に方をしたって骨は拾ってくれるぜ!」という根拠無き大確信を、「リアルに実感・体現」して生きていく!! ・・・これこそが「神様に生かされ在る者」としての「お気楽脳天気!!」なのだ。

 

 

 

賢聖の言葉


 

パパジ 「真理のみ」第7章 バクティ:神への愛より抜粋


Q:私はバクティの道にいます。バクタが真我探求をするのは可能ですか?

    

パパジ バクティは愛を通して神が帰依者を愛することだ。真我探求は帰依者が神に行くことだ。これが違いであなたは選ばなければならない。神があなたと恋に落ちるのがバクティで、あなたが神と恋に落ちるのがジュニャーナだ。

 真我探求の道にいる人にとっては、神がどのようなものか知らないので間違いを犯す。しかし神が神の帰依者を愛する時、決して間違いはない。神は帰依者の一歩後から付いて来てすべての世話をし、帰依者が望まなくても必要なものを与えると言われている

 

 

ジッドウ・クリシュナムリティ

「四季の瞑想 クリシュナムリティの一日一話」より、4月22日のページ

 

完全なる放棄 

 

おそらくあなたは、その中ではあらゆるものがすっかり放棄され、すっかり手放されている、そういう精神の状態を一度も経験したことはないでしょう。そして深い情熱がない限り、何もかもを手放すことはできません。違いますか?

知的にしろ感情的にしろ、何もかもを手放すことはできないのです。全き放棄が存在するのは、間違いなく、深い情熱がある時のみです。

情熱という言葉を恐れてはいけません。情熱を持たない人、熱烈でない人には、美の特質を理解したり、感じたりすることが決してできないからです。

何かを将来のためにせっせと蓄えている精神、既得利権を持っている精神、地位、権力、名声にしがみついている精神、世間体を気にしている精神、

そのようなおぞましい精神は決して自己放棄を遂げることはできません。

 

 

「ラマナ・マハルシとの対話」363 より抜粋

 

質問者 恩寵がそのような探求者の能力の成長を早めるのではありませんか?

 

マハルシ 神にまかせなさい。無条件に明け渡しなさい。自分の無力さを認め、至高の力に救いを求めるて明け渡すか、あるいは不幸の原因を探ってその源に向かい、真我の中に融け去るか、二つの内の一つが為されなければならないのです。

どちらの道を行こうと、あなたは不幸から解放されるでしょう。神はすべてを明け渡した者をけっして見放すことはありません。

 

 

「ラマナ・マハルシとの対話」451より抜粋


 

マハルシ 神が姿を現そうと消え去ろうと、神の御心にしたがい、すべてを明け渡しなさい。神の計らいにまかせなさい。もしあなたの希望に沿うように神に頼むとしたら、それは明け渡しではなく命令です。神をあなたにしたがわせておきながら、自分は明け渡したと考えることは出来ません。

神は何が最善で、いつ、どのようにするべきかを知っています。神にすべてを完全にまかせなさい。重荷は彼のものです。あなたはもはや何の心配もしなくていい。あなたの心配はみな彼のものなのです。それが明け渡しです。これがバクティです。

さもなければ、これらの質問が誰にとって起こったのか調べなさい。深くハートの中に潜り、真我としてとどまりまさい。二つに一つの道があなたに開かれているのです。

 

 

 

「無責任」で生きる


 

この「刃傷事件」で私は「今後一切の人生のあれこれ」に関して、サットグルであるラマナ=アルナーチャラに委ねた(はず)のだ。


従ってどうあがいても結局最終的には、「比類無き臨在と恩寵」へのバクティへと全てが収束されていく・・・以外の人生航路は存在しないのである。


まあ決して「出来がよいバクタ」とは言い難いので、あれこれの未練も執着も抱えているのが実状であるが(笑)、ひとたび神様に帰依した以上、

 

「サットグルは決して無意味無駄なことはなされない」・「サットグルは帰依した者にとって必要な物事は全て用意してくださる」

 

という「絶対的な安全保障」の庇護の元にあるのだ。

 

もっともこの神様による「安全保障」なるものはあくまで「恩寵」なのであって、決してこちらからの働きかけによる「取引」「対価」「契約」ではないのだから、既に受けている恩寵そのものを常に意識できるような心身状態であることが最上であり、その恩寵への「返礼」に相応しい生き方・在り方を志向し続けていく・・のが「バクタ」としての筋であろう。


そしてかくなる上は、この現象世界の森羅万象全てが「御神意の顕れ」であるのなら、「文句は一切言ってはならない」・・・のがこの「稼業の仁義?」なのだ(笑)。

 

バクタとして神様に「明け渡し」をした以上(もっとも「どの程度に明け渡しているか?」については、あんまり胸を張って宣言できるレベルではないのだが・・)、人生におけるあれこれの一切合切の権利も義務も責任も神様の方にある・・・わけで、何がどうなろうと「私」個人には全く責任はない。

 


 

 「神に明け渡した者」はその後の人生は無責任で生けていける!!・・のである。

 

 

 

 

というわけで理想は「無責任男」ですなあ、わはははは・・・・・!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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