「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)

 

〜SRI H.W.L.POONJA

崎山綾子翻訳

 

 

 

第1章 真我  ☆Part3

 

(サイト管理者より・・・・画面構成の都合上、章全体を複数ページに分割して掲載します。用語解説は各ページ末に収録)

☆Part☆Part

 

 

前ページ(Part2)からの続き・・・

 

 

Q:真我が全ての中心ですか?

 

 

真我には中心がないし,円周もない。中心に瞑想しようとする瞑想者もいないし、瞑想もない。真我は流動的で自然で自発的で、やり手がいないので疲れも知らない。やり手というのは「私がこれをしている」、「私はこれをしなければならない」、「私は困っている」、「私は幸福だ」。人との関係性も肉体を通り過ぎていくだけで真我とは何の関係もない。あなたはこれらのことに影響されないし、これらの概念を超えたものだ。

 

 世界や神や生き物たちに背を向けても、真我には決して背を向けないことだ。あなたは何億年ものあいだ、真我に対して内気であった。真我を見ないで見る価値のないものを見続けてきた。今、あなたの真我に内気であってはならない。目をしっかりと開いて真我を見てごらん。

 

 

 

Q:パパジ、空間だけです。

 

 すばらしい!すばらしい!それは空間だ.それは限界がない。全てはこの空間の中にあり、あなたはこの空間だ。あなたが空間であるとき、全てがこの空間の中にあるのだから全ての欲望はここで終わりになる。これが空間が実体である人の欲望の全てが、欲望が起こる以前に満たされているということだ。

 

国の王は「この土地、あそこの土地を買いましょう」とは言わない。王は全てを所有し、王国の君主なのだからこんな考えは決して起こらない。このようにあなたが空間になったときは欲望の終わりだ、と言うことは苦しみの終わりだ。

 

欲望が苦しみを与える。欲望が起こると、その近くに行きたい、それを達成したい、それを手に入れたい、そしてあなたはそうするだろう。そうしてあなたは幸福になる、違うかね?  欲望の対象物があなたを幸福にしたと考えるかもしれないが、真実は達成したあとの欲望の不在が、その無の瞬間があなたを幸福にするのだ。

 

  欲望無しでいることが幸福であることだ。

  あなたの源泉に帰るとき、あなたは幸福だ。

  これが幸福の秘訣だ。                                                                          

 

全ての苦しみと死を取り除くためには源泉として留まりなさい。そこでは何も存在しない。全ては完全で満ち足りている。それがあなたの本質だ。あなたは既に「それ」であり、いつも「それ」であり続けるだろう。

 

「私は肉体」、「私はエゴ」という観念が苦しみを引き起こす。教え込まれたこれらの観念、存在しなかったときがあった。そのとき、あなたは完璧であった。そして、今も完璧だ。

 

頭の中に詰め込まれたこれらの観念を取り除きなさい。振るい落としなさい。そうすると、この今の瞬間に、あなたは誰かということを知るだろう。さて、どんな考えが今あなたの中にあるのかな?

    

 

 

Q:全てに執着していると、どれだけ苦闘しなければならないかと気づいています。

    

 

  苦闘する必要はない、苦しというのはもがく事だ。どんな思考も起こさないこと。「誰が苦闘するのだろう?」という考えや「私」という考えでさえも起こさないことだ。

 

   「私」はない、肉体はない、エゴはない、マインドはない、

   感覚はない、対象はない、顕現はない。

 

過去を振り返って、起こったこと(顕現)の全ては、感覚と感覚の知覚作用にすぎないと理解しなさい。感覚というのはマインドが外に向かって働いているということだ。

 

実際にはマインドと感覚を区別することはできない。感覚がいときマインドはない。マインドというのはエゴ以外の何ものでもない、エゴは「私」以外の何ものでもない。そしてこの「私」という存在感は源泉そのものだ。今度は源泉から始めよう、どうなるか見てごらん。

  

  「私」は源泉から湧き上がる、波が海から湧き上がるように。

  この「私」を湧き上がらせなさい、すべてをこの「私」に属させなさい。

  「私」が起こって、エゴになる。エゴがマインドになる。

  マインドが感覚になり感覚はそれぞれの感覚に応じた対象物となる。

 

  これらの全てはあなたの内側で起こっている。

  これらの全ては意識の中で起こっている。

  意識の中にある全てを見るためには、あなたは意識で在らねばならない。

  

 しかしあなたは自分は肉体だ、マインドだと思っているのでいつも困難の中にいる。

  これを見ることができない。

  これが苦しみの原因だ。

 

あなた自身を個的なエゴマインド肉体と考えるのは傲慢だ。個人が全てを動かしていると考えるのは傲慢だ。傲慢以外の何ものでもない。なぜ全てをこの意識と呼ばないのか?

 

  全ては無だ。

  あなたは無の中で踊り手の役を演じているだけだ。

  単にこのゲームを演じなさい。

 

  あなた自身を個人として見るか意識として見るか

  それはあなた次第だ。

  一つは破滅的、他方は平和だ。

 

  平和以外に何が欲しいのか?

  「存在」として留まって見てごらん。

 

あなたは何もコントロールする必要はない。何かが起こるだろうと期待しないことだ。あなたは空間だ。

 

  全てが「私」で、全てが「あなた」だ。

  全てが「それ自身でこれがあなたの本質だ。

  それについて何もする必要はない。

  全て解放して、今、無を見てごらん。

  全てが投影されるスクリーンを見てごらん。

 

 

映画館に行ってスクリーンに映し出された映像を見ている。山や川やロマンス、強盗の襲撃事件など・・・。映画が終わったとき、スクリーンは川の水で濡れてはいないし、ロマンスの香りもないし、盗賊の発射した銃弾の穴もない。スクリーンは完璧に白いままだ。

 

この世界の顕現はあなたのマインドを横切る欲望の投影と同じだ。だから観客としてのあなたは簡単にその映画にのめり込んで同一化されてしまうのだ。あなたはこれらの映像ではない、あなたはスクリーンだ。スクリーンは映画が始まる前、最中、終了後、みな同じだ。

 

もしあなた自身が完璧で、不変で、永遠のスクリーンと同一化したなら、あなたは何が起こっても平静で、その変化に苦しむことはない。逆にそれらを楽しむことになる。

全ての存在はこの一つの潔癖なスクリーンだ。それは全てを超えているので、埃を払ってきれいにするという修練は必要ない。悟るには生涯の修練が必要だと説く教師達こそ、彼らのマインドという埃を払って、きれいにするべきだ。

    

 

 

Q:私は永久に「これ」が欲しい。

    

 

 あなたは初めて「この」経験をしたのだね。過去に経験した全ての経験は消えてしまった。だから「この」経験を永久に保ちたい。しかし「この」経験はあなたから決して離れることはない。

 

以前は全てがあなたから去っていった。「今、ここ」では、決して取り残されない。あなたは正にその至高の力によって握られている、だから決して取り残されるということはありえない。

 

もう恐れる必要はない。あなたは逃げられない、決して逃げられない。この愛から逃出すことはできない(笑)。一度それに触れたら、あなたは自分を見失う。全ては解き放されて、「それ」そのものになる。河が海に流れ込んでいくとき、河は即座に海になるように。

    

 

 

Q:それが可能だということがまだ信じられません。

    

  

 河が海に流れ込んでいくとき、河は永久に海であり続けることができるかと自分に質問するかね(笑)?  それは過去の恐れだ、その恐れは今あなたから消えていく。全ての経験は永遠ではないので消え去ってしまう。それらは想像、幻想に過ぎなかったから消えていったのだ。

 

今、この経験は概念や知覚や想像を超えたものだ。それはどこに消え去るというのか?  波は恐れているので、「私は生涯波としてありたい」という考えが波のマインドの中にある。「私はくなる、私はくなる」と波は恐れている。「私はくなる」、どこに消えるのか?  どこに行くのか?  消えて次は何になるのだろうか?

 

  波が消えたとき、波は波でくなり、その本質に帰っていく、海だ。過去、波が海であった、現在、波が海である、未来、波が海であり続けるだろう、永久に!!  そこには時間という概念は全くない。時間というのは無知なマインドの中に存在する。

 

光や知恵の中では「私は全体から分離している、私は広大さや充満性から分離している」という考えは起こらない、これを知らないのが無知だ。分裂はない、全てが一体で、愛で美だ。これから逃れることはできない。今あなたの無知は消え去った。これが永遠の生命、これが蓮花の蜜だ。

    

 

 

Q:はい、解ります。いま無が見えます。

    

  

   すばらしい!  もし見えるなら、この見ることが在ることだ。目を通して対象を見るときは物が歪んで見えるかもしれないが、この見ることは在ることだ。これを見る為のもう一つの目があるのだ。どの目を使うかはあなたにかっている。

 

この視覚は肉体的な目とは何の関係もない。それは内在性、内なる視覚だ。この目を使うなら、外側も内側も、いつもこの目で見ることができる。ニルヴァーナとサンサーラは何の違いもなくなる。見るものは全て内側にある。

 

全ての美しさ、知恵。その目は限界を超えて見ることができる。内側でもないし外側でもない。解るかな?  顔にある目を通して見ることを止めたら、他の目が開く。

 

あなたが今ここでやったように「私」という思考をつかんで源泉に帰りなさい、そうするとその視界が開けるだろう。「無が見える」と言ったとき、この無が「その」視界の美しさだ。聖なる視界。あなたは理解するだろう、そして全てが美しい存在として見えるだろう。

    

 

 

Q:真我の観点からすれば何もすることはないというのは解りますが私のいるこの時点からマインドを解き放し、エゴ中毒を取り除くのに何かすることはできないのですか?

    

  

 最初に、あなたの観点が真我の観点より優れているかどうか見てごらん!  もしあなたが創造者やグルやあなた自身の真我より優れているのなら、もしアトマンよりも優れているのならあなたの観点に従いなさい。その結果を見なさい。真我の観点というのは真我だ。真理は真理、これは既に今、ここに。あなたの真我に会うのにどんな修練が必要かね?

    

 

 

Q:いいえ、必要ないでしょう。しかし思考がやって来ると・・・・

    

 

 真我は肉体より前に存在している。あなたが話すことより前に、言葉よりも前に存在している。どのようにして真我に行き着くのかという概念、実践や方法という概念を捨てなさい。捨ててしまったらそこに何があるか言ってごらん。どこに居るのか言ってごらん。

努力や実践の概念を持ち込まないこと。努力しようと考えないこと。私が意味していることを本当に理解したなら、あなたは誰か、あなたは何が欲しいか言ってごらん。  実践なし、思考なし、マインドの坩堝をかき混ぜないこと。努力しようとしないこと。

 私の話を聞いたのだから今度はあなたが話す番だ。さて、あなたは誰か言ってごらん。考えないこと、努力しないこと。

    

 

 

Q:私は神に会いたいだけです。

    

 

 だから神があなたをここに今連れて来たのだ。全ての人が神だ。しかし私達が私達の中に神を見ない限りその事実を知ることはできない。まず神をあなたの内側に見つけることだ。そうしたら動物の中にも、鳥の中にも、岩の中にも神を見つけることができるだろう。

    

 

 

Q:人々の目の中に神が隠れているのがだんだん見えてきました。

    

 

  (笑いながら)神は隠れてはいない。神が見えないということはあなたは神以外のものを見ているということだ。だから、他に何も見ないで唯一神だけを見るべきだ。 そうすると、あなたの目を通して見ているのが神そのものだ。

 

 あなたの重荷を下ろして、神に降伏して静かにしていなさい。そうすると神があなたの重荷を引き受けてくれる。重荷を頭の上に担いで歩いている限り神はあなたの面倒を見ることはできない。そのようなあなたにとっては神は隠れているようにしか見えない。

    

 

 

Q:あなたは私が神だといいますが、私という一滴のしずくが海と同じなのですか?

    

 

  一滴と海との間には何の区別もない。海を創っているのはその一滴の全体性だ。一滴、一滴の無数の集まりが海だ。

    

 

 

Q:それらは質的に同じ物ですか?  あなたのノーマインドは私のノーマインドと同じですか?

    

 

 質的に同じだ。一粒の砂糖と一ポンドの砂糖、味は同じだ。そうだ、あなたのノーマインドは私のと同じだ。

    

 

 

Q:ノーマインドには疑いがないと言われましたが・・・

    

  (笑いながら)ノーマインドには疑いがない。何もないのだから何を疑うのかね。

    

 

 

Q:ノーマインドの中での経験は何ですか。

    

 

  そこに経験はない。ノーマインドの状態から抜け出したときにのみ対象に対する経験がある。過去の経験を取り除きなさい、そうするとこの瞬間には経験はない、経験すべき何ものもなく、経験者もいない。

 あなたは全てから自由だ。経験は時間の中で起こるがこの瞬間には時間がない。この瞬間は時間とは無関係だ。

 

 

 

Q:ジャスミンと呼ばれる波はパパジと呼ばれる波に見つめられて一つになりたい、そして「それ」を祝いたい

    

 

  波が海と一つになったとき、祝祭が始まる。

 

私は海ではないと考えているのは 波だけだ。「私は水と共に、どこにでも行くことができる」「私には長さや幅があるので岸まで行ける」しかし再び、波は沈んで海となる。

 

波の本質である水は海の本質である水と何の違いもないのだから「私は海だ」ということを知りなさい。この水が海と波をつないでいる基盤だ。基盤は波が海から分離していると考えても何の影響も受けない。あなたは海と何の違いもない。海は波と何の違いもない。この事実をあなたは祝うべきだ。これが分裂の終わりだ。

 

   真我なしには何も起こらない。

   全ての存在は真我として一つだ。

 

  波は海の胸座で遊んでいる。

  波は海と別れていると感じながら、時間の中で動き回っている。

  そして最後に波は海に帰っていく。

 

  波は海から湧き上がり、海の中で動き、海の中に帰っていく。

  一体性はそのままだ。

  波の動きは海にとっては何の問題もない。

 

海はあなたから離れた存在ではない。海は決してあなたを騙したりしない。もしこれを知っているなら、あなたは好きなように遊ぶことができる。愛は、海は、あなたを決して忘れない。もしこれを知らないとあなたは苦しむことになる。

 

 

 

Q:昨夜、強烈な夢を見ました。その後かなりの沈黙が続き目を覚しましたが、この夢が何を意味しているのか私には解りません。

    

 

  夢は問題ではない。この沈黙が境界だ。目覚めでもなく眠りでもない、沈黙だけが存在する。目覚めと眠りを越えたこの境界、そこには何経験もない。そこでは過去の記憶は存在しないし、それには名前もない。

 

もし名前を使いたいのなら、沈黙か無が最適だ。何を意味しているのか解らないというのが、それが境界域の沈黙であったという確証だ。なぜなら、そこでは感覚や記憶力が働かないし、エゴも存在していないからだ。

 

これは眠りと目覚めの間の空白だ。そこでは「私」「あなた」「彼ら」というのがない。これを「無」と呼んでもよい。そこから全てが現れたように、そこに全てが消えてゆく。

 

 

 

Q:私は自分はライオンであるということを知っているのに、なぜ私はロバと一緒に歩いているのでしょうか?  私の中のロバ性を解放していつもライオンでありたい。

 

 

  あなたがライオンであると知っていたらロバと一緒に歩いても、問題はない。ロバはライオンの餌だからだ(笑)。だから、彼らは一緒にいることはできない。ライオンが自分がライオンであることを忘れて、自分はロバであると考え出したなら、それは問題になる。

 

  あなたに洞察を与えるライオンの話をしよう。

  

 昔、ある村に一人の洗濯男が住んでいた。その当時は村人達の洗濯物をロバの背に載せて川辺に運んだものだ。ある日、洗濯男が川で洗濯しているところへ、一匹の雌のライオンが水を飲みに来た。そのとき、密猟者が銃でライオンを撃ち殺した。

 

雌ライオンは死ぬ間際に赤子を産み落とした。そこへ密猟者が来てライオンの皮を剥いで去って行った。ライオンの赤子は後に残されて、かわいそうに思った洗濯男はその赤子を家に連れて帰ってミルクを飲ませて養育した。さて、このライオンの子に何が起こったか、注意して聞きなさい。

    

このライオンの子は誰が自分の母親か知らずに洗濯男に養育された。そして毎日彼と一緒に川に行った。遂にこのライオンは大きくなって、洗濯男はこのライオンのロバに洗濯物を担がせ始めた。このライオンは他のロバと一緒に草を食べ始めた。

   

なぜなら、人は一緒にいる人の習癖を見習うものだから。子どもが煙草を吸う人と一緒にいると、同じように煙草を吸い出す。このようにして習癖というものが形作られるのだ。

 

 ある日この「ロバ」は他のロバと一緒に野原で草を食べていた。一匹のライオンがこれを見て言った、「一体全体どうしたことか?  どうしてあのライオンはロバと一緒に草を食べているのか?  ライオンの餌はロバだ。しかしあのライオンはロバと一緒に草を食べている。近寄って見てみよう。」

 

ライオンが近づいた途端、この「ロバ」も含めてすべてのロバは逃げ去った。ライオンは素早く、この「ロバ」の首根っこを捕まえた。「どうしたのだ、お前はライオンだ。それなのに私を恐れてロバ達と一緒に逃出した。お前と私は一緒の家族に属するのだぞ!」

 

「いいえ、ライオン様、どうか嘘をつかないで下さい。私はロバです」と、年長の思慮深いライオンにとらわれた若いライオンは震えながらそう言った。「私はロバです。どうか私を食べないで下さい。私の兄弟達が私を待っています。どうか許して下さい。どうか冗談を言わないで下さい。私は自分がロバであるのを知っています。」

 

「お前はライオンだ。お前がロバだと考えるのは馬鹿げた事だ。」と賢いライオンは言った。「どうして私がライオンであると信じることができましょう。私はロバです。」そこでこの賢いライオンはこの「ロバ」を川に連れて行って「水の上に写ってっているお前の顔を見てごらん、お前の顔は私の顔と同じではないのか?」

 

この「ロバ」は叫んでいった。「確かに私の顔はあなたの顔と同じだ!!」「今度は口を開いて私のように吠えなさい」。この「ロバ」はどのようにして吠えるのかしらなかった。誰も吠え方を教えなかったので、他のロバ達と一緒にロバのように啼いていた。しかし、吠えることはライオンの本性だ。

 

そこでこの「ロバ」は口一杯あけて吠えたのだ。その途端、この「ロバ」はライオンになった。この吠え声が、本当の自分についての疑いを拭い去ったのだ。そしてこのライオンはロバを食べる為にその後を追っていった(笑)。

  

 

 

さて問題は、このロバがどのようにしてライオンになったのか?  即座に彼はライオンになった。何がこの「ロバ」をライオンにしたのか?  吠えたことだ。さもなければいつまでもロバのように啼いていた。

 

  このように、あなたはあなたを川に連れて行き、あなた自身の顔を見せてくれるサットグルが必要だ。あなたはロバではないが肉体に束縛された人々のロバ的社会に住んでいる。

 

「私は束縛されている、私は苦しんでいる、私は死んでいく」という人々はすべてロバだ。グルは「あなたは束縛されていない」と告げる。「私は自由だ」とライオンのように吠えなさい。それがロバとライオンの区別をつけるのだ。

 

しかしあなたは「メー」とヤギのように啼いているだけだ。というのもこれがあなたの住む社会の習癖だからだ。悪い連れ合いをもつとライオンでさえロバになる。あなたは、ロバのような両親のもとで育った。これが違いを作るのだ。

 

   あなたが私の前に来るときは、私は無理にでもあなたの顎を開かせて吠えさせる。そうしないとロバはライオンの前にとどまることはできない。

 

  何世にもかけて排泄した 自分の汚物の中にいるのを止めなさい。ライオンになりなさい。それはあなた次第だ。延期して、大人になって、年を取って苦しむだけだ。ロバがしていることをあなたはしているのだ。誰かがあなたに汚れ物を担がせて、洗濯屋があなたのボスになるのかね?

 

  違う!!  いつかあるライオンがあなたを見つけてあなたはライオンになる。あなたは既にライオンなのだから。ロバはライオンにはなれない。

 

  歪んだ愚かな社会だけがあなたをロバにするのだ。

  感覚はロバで、あなたの本性はライオンだ。

  永遠に形をとらない意識だ。

  

   ライオンのサットグルがあなたを意識の湖に連れて行き、

  あなたの本当の顔を見せてくれる。

  「あなたは既にそれだ」、

  これがグルが言うべき全てだ。

 

私の親愛なる友よ、あなたは自由だ。誰が「あなたは縛られている」と言ったのかね? 考えてごらん、誰もあなたを縛ったことはないし誰もあなたの足に鎖をつけたことはない。 あなたはただ「束縛されている」と考えているだけだ。そしてその「考え」が束縛になる。

 

もし「私は自由だ」と考えるとあなたは自由だ。それはあなた次第だ。しかし「私は自由、あなたは自由」は唯一思考だ。もしあなたが何も考えないとき、あなたは目覚めた人になる。

    

 

 

Q:私を川に連れて来て下さって有難うございます。しかし、私は口を開いているだけで吠えてはいないのです。

    

   口を開けてあくびをするのは眠たいときだ。吠えるということは目覚めるということだ。ライオンが吠えているときは、ライオンが起きているという証拠だ。森の動物達、鹿や兎達はその吠え声を聞いて逃げ回る。しかしライオンがあくびをすると誰もがこう言う:「ライオンは眠っている、さあ餌を探しに行こう」と。吠え声を聞くと誰もが穴の中に隠れてしまう。

   

このようにあなたが吠えるとマインドの習癖や怠性、あなた自身を見つけるのを妨害している平和の盗人、全てが逃出してしまう。そうしてあなたは目覚めるのだ。その吠え声とは「私は自由だ!」

 

   肉体やマインドや目を肥やすために何かを探しているあなたはあくびをしているということだ。だからあなたは吠えなければならない、「私は自由だ!」。吠える為にはどこへ行くべきか? 

 

あなたのエゴが眠っている、そのときがサットサンガにいく最適なときだ。完全に眠っている人々は彼らの真我の吠え声を聞いたことがないので今なお眠り続けるだろう。そういう人たちは時機が熟していないのでサットサンガに連れて来る方法はない。そういう人たちは眠らせておきなさい。

 

しかしあなたは目覚めていなさい。サットサンガにやってきなさい。そしてライオンのように吠えるのだ!!

 

 

第1章 真我 終了

 

 

 

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