「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)

 

〜SRI H.W.L.POONJA

崎山綾子翻訳

 

 

 

第1章 真我  ☆Part1

 

(サイト管理者より・・・・画面構成の都合上、章全体を複数ページに分割して掲載します。用語解説は各ページ末に収録)

☆Part2☆Part

  

   真我というのはあなたであるとこのもの、

    あなたは「*1それ」だ。

  測り知れない「それ」から、経験や概念が現れる。

  真我は往来のない一瞬。

  それは、*2ハート、*3トマン、無。

  それは、それ自身の中で、それ自身に対して、それ自身で光り輝いている。

  真我が生命に息吹を与える。

   それを探し求める必要は何もない、それは「ここ」にあるのだから。

  あなた自身があなたが探し求めているものだ。

  「それ」が存在する全てだ。

  唯一真我のみ。

 

  欲望だけが生まれ変わっただけであなたは決して生まれてこなかった。

  何もかって起ったことはないし、何も存在したものもない。

  この何もないこと、これがあなたの本質、

  そして、これが究極の真理だ。

  完全にあなただけ、即ち美しさだけが存在する。

  唯一真我のみ。

 

  あなたの本質は意識だということは明らかで拒むことはできない。

  あなたはハートの蓮華の中で至福の喜びに満ちて存在している。

  静かにしていなさい、

  そうするとあなたの真我があなたの真我にその姿を現わすだろう。

  「真我を知る」ということは他の全てのものを犠牲にしても知る価値があるものだ。

  他の全てのものは意識から出現する蜃気楼にすぎないからだ。

 

  全ての生き物の中に真我が存在する。

  それ故に他人を愛するとうことは真我を愛すること、

  自分自身を愛することと同じだ。

  真我は最も偉大な愛で同時に最も愛すべき愛人、

  愛というのが真我の魅力で、真我が真我を魅了する。

  この愛、この喜びの源泉のほかに何もない。

  あなた自身がどんなに美しいか見てごらん。

  あなたはこの内なる美しさ、愛そのもの。

 

  これでもない、これでもない。(*4Neti,Neti)

  しかし、あなたの本質は決して拒絶されることはない。

  それは「今」だけに存在する。

  起きていようが、寝ていようが、夢見ていようが、

  唯一「今」に存在する、

  唯一真我のみ。

 

  この現在の瞬間が光であり、真我である。

  この瞬間は束縛でも自由でもない。

  概念を超えた最も貴重なものだ。

  この瞬間は全てが投影される何もないスクリーン。

  それはいつも不動で何にも影響されず時間を越えたもの。

  究極とこの「存在」の間には何の違いもない。

  この瞬間にいるためには

  この瞬間にいたいという欲望も含めて、全ての欲望を捨てることだ。

 

  本質的に名前も形もない「それ」に数え切れない名前がつけられた。

  存在、気づき、至福、アトマン、真理、真我、吉兆、美、

  自由、神の愛、完全、無、意識、瞬間、無努力、ここ、沈黙、*5ブラーマン。

  舌が「舌」という言葉を話すように、

  あなたがあなたの名前を呼ぶ。

  あなたの先入観であなたの本性が覆われないように

  仏陀は否定的な言葉で真我について話した。

  たとえば、ANATAとは、触れることができないもの、

  姿のないもの、目に見えないもの、

  近づくことのできないもの、知ることのできないもの、穢れのないもの。

 

  観念と世界が現れる以前にあなたは存在している。

  それ故に「それ」は言葉では言い表すことはできない。

  真我は自分自身を理解する必要はない。

  自由というのは自由という概念が現れる以前にあった。

  「私」という概念、マインド、過去が消え去ったあとに残されたもの、

  それがあなただ。

  何もないということは何の概念もないとうこと。

  それがあなただ。

 

  平和・美・愛と同一化しなさい。

  それを体験するのではなく、それと同じものになるのだ。

  「私は無活動、活動は私の中で起こっている。

  私はスクリーン、私は『それ

  私は決して生まれてこなかったし、決して死にはしない。」このことを知りなさい。

  意識そのものと同一化しなさい。

  自分は誰かと覚えていたらこの世の中の動きは宇宙の踊りだ。

  往ったり来たりするものに留まるのではなく、

  自分自身に留まりなさい。

  個別な自我はマインド。 

  「在ること」は未知の領域を持たない。

  自分自身が自分自身に気づいて「在ること」なのだ。

  「在ること」に同一化しなさい。

 

  マインドが純粋潔癖なら、存在する全てに真我を見るだろう。

  すべての概念、特に純粋さの概念を取り除くことでマインドを純粋にしなさい。

  そうすると真我が無のマインドにそれ自身で姿を現すだろう。

 

  エゴ、マインド、そして全ての創造物は真我から真我としてやってくる。

  醜悪な疑念や差別や分離感でさえ美しい源泉から湧きあがってくる。

  真我の中ではすべきこと、すべきでないことは存在しない。

  不幸に直面しても、あなたは不幸ではない。

  あなたは不幸に影響されることのない気づき。

  波は海から切り離せないように光線も太陽から切り離すことはできない。

  これと同じように、あなたは存在から離れて生存することはできない。

  あなたはこの瞬間、全てが存在するこの瞬間。

 

  経典の中に内なる三つの神聖な川について書かれている。

  それらは存在意識至福。

  それらは思考や努力で対象化されたり、主体化されることはない。

  それはとても親密で、とても身近にある。

  網膜の背後、息をする以前にある。

  これを見る必要はない、あなたはそれだから。

 

   あなたは、「存在」「在ること」とどんな違いもない。

  目で見るというこではなく、全ては「在る」ということを見てごらん。

  対象物を見るということではない。

  単に見ることが、「在る」ことだ。

 

  意識が本来の「母」。

  このことを知っているならこの「母」が面倒見てくれる、

  幸福平安不死を与えてくれる。

  この「母」を知らないために問題に巻き込まれる。

  既知の母は永遠の平和と愛を与えることはできないから

  あなたの本質であるこの「未知の母」、「それ」に戻りなさい。

 

  至福は永遠だ。

  マインドが死んだとき、至福が湧きあがってくるように見えるけれども

  至福は体験から来るものではない。

  それはあなたの本性だ。

  至福は賢者のハートだ。

  至福はこの贈り物をあげようと全ての人を呼んでいる。

  「あなたは全ての存在のハートの中に座っている。」

  これが真理だ。

  この真理であなたの顔は光り輝く。

 

 

庭で庭仕事をしている王は王のままで決して庭師ではないように、真我は世間の庭の中にいても真我として在ることができる。活動的な世間で活動しているのはあなたであなた自身の真我ではない。

 

世界の物理性が現れてくる、その源泉に行きなさい。そうすると広大さ、秘密の神聖なあなたのハートの核心を発見するだろう。しかし、対象に執着したり何かに成ろうする欲望のためにこのことを忘れてしまう。欲望と期待のためだ。全ては一つで、一つが全て

 

古びた習癖の期待や欲望を捨て、この共通の真髄に一体化したならあなたは宇宙の皇帝だ。「今」「ここ」に戻ってきなさい、そうするとあなたがこの「今」・「ここ」になる。

 

  全ては真我。

  あなたと私の違いは単なる言葉、単なる概念の違い。

  あなたの中の真我は私の中の真我で全ての存在の中の真我。

  全ての源泉は同じだ、これが真我、これが愛、これが慈悲。

  真我から離れようとしても決して離れることはできない。

 

  「私は海、目に見える全ての形態は私の上で踊っている波だ」、これが知識。

  波が起こるとき、海は何も失うものはない。

  波が静まるとき、海は何も得るものはない。

  波が遊んでいるときは海も遊んでいるのだ。

  私は海、私は水、私は波。

  海と水と波の間に分離はあり得ない。

  そこには何の違いも、動揺も動揺する人もいない。

  

  「私」、あるいは他の思考を起こすことが波を起こすことだ。

  どんなに波立とうと、水は水のまま。

  だから全てをあるがままにあらしめなさい。

  全てがあなたの真我なのだから。

  河が海に流れ込むように、あなたであるところのものに流れ込みなさい。

  幸福、至福、存在、宇宙に流れ込みなさい。

  「ここ」には気づきのみ、真我のみ。

 

  たとえそれを忘れてしまってもあなたは「今ここ」にある「それ」だ。

  忘れっぽいあなたに気づいているのはあなたなのだから。

  あなたは目覚め眠りの三つの状態に存在する覚醒の意識。

  この変化する三つの状態の中で唯一真我のみ消えることはない。

  

  真我はノーマインド、ノーマインドは肉体を持たない

  ノーマインドのこの美しさから芸術や直感的洞察が生まれる。

 

  かって何も起らなかったしこれからも何も起らない。

  あなたはいつも完成された愛であり平和であり続けた。

  変化するものは真実ではない、真実であるものは変化しない。

  あなたは変化を超えた、言葉では言い表せないその秘密、その純潔さだ。

  しかし、「私」に触れると誇りという概念で汚されてしまう。

  

  「私が努力してやり遂げた」というこの「私」は、真の「私」ではない。

  真の「私」は全てが自分の反射投影だということを知っている。

  単に「私が在る」と知っていることは無努力の状態だ。

  これが瞑想であり*6サハジャつまり自然な存在の状態だ。

 

 

宇宙の塵の一つ一つの中に数え切れない宇宙が存在し、数え切れない仏陀が光り輝いている。あなたが理解できるようにそれを説明するのは難しいがこれは事実だ。それを見ることはできる。

たとえば、全てが一つの原子から現われる、それは神秘だ。誰もこの神秘を解くことはできない。私たちがいつもサットサンガで話している「この瞬間」も アトムと同じようなものだ。その一瞬にあなたの全ての生をみることができる。全ての人が本質的に仏陀なのだ。

 

次ページ(Part2)に続く

 

 

 

 

 

用語解説

 

*1それ  本質的に名前のない真理を指す代名詞

*2ハート   心臓や心という意味ではなく、源泉、センターという意味。

*3トマン 全ての存在の不滅の本質、ブラーマンと同じ意味。

*4Neti,Neti これでない、これでない。ウパニシャッドに書かれた言葉、ブラーフマンは言葉や思考では言い表すことはできないので、絶対の真理を見つける為に全てを拒否していく過程

*5ブラーマン  ヒンドゥイズムの絶対的現実、究極の真理、存在・知識・至福

*6サハジャ   自然で完全に悟りを得た状態。  

 

 

 

 

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