「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)
〜SRI H.W.L.POONJA
崎山綾子翻訳
序章:愛と無の祝祭
―あなたは愛、あなたは無の踊り手
すべてが始まる以前、あなたは「純粋の意識」そのものとして存在していた。
愛の中で完全に満ち足りた愛そのもの、
気づきを伴った空間そのもの、
安らぎ以上の平安そのものであった。
あなたの本質は映像が映し出される映画のスクリーンと同じもの。
あなたは英知の輝き、宇宙の創造者に「創造するという概念」を与えた人だ。
忘れることができることは全て忘れて、決して忘れることができないそのものとしての
あなた自身を知りなさい。
あなたはその上で全ての物事が起こる基盤だ、ただ起こらせなさい。
あなたは今、この瞬間そのもの、
この今から逃れられる私が存在するだろうか?
あなたが真理そのものであり、唯一存在するのは真理だけだ。
あなたの本質は無活動。
太陽が無活動であるように本質は不動だ。
活動は思考の投影から起こるもの。
あなたのドラマ、あなたの世界。
あなたは貴重なこの瞬間、現存そのもの。
あなたに触れたそよ風は悪魔でさえ神聖にする力を授けられる。
あなたは対象やアイデアに気づいている自分に気づいているそのものだ。
あなたは気づきよりももっともっと静かなそのものだ。
あなたは命、そこから命という概念が生み出される。
あなたの本質は静寂そのもので、それを手に入れることはできない
それは常に存在しているのだから。
あなたはまず空間という概念を作り出した。
そして存在・意識・至福という姿をとった。
「世界」というのはあなたの*1マインドが生み出したもの、
全てはあなたの*2ハートから、核心から、無から、起こって来る。
今、ここに存在するのがあなたのハート。
このハートの祠の中であなたは愛として留まっている。
そこから時間と空間が生み出される。
あなたは内側、外側という概念を持たない内側にいる。
マインドがどこにも存在しないところが内側、壁が存在しないところが内側。
全てのアトムにあなたは存在している。
このことを知った時、あなたは至福に満たされる。
あなたは無そのもの、究極の実体、
無から無と言う概念を取り除いて無だけを残しなさい
無を超えるものは何もないのだから。
全ては無から現れ、無の中で踊り、無に帰っていく。
波が海から起こり海の上で踊り海に帰っていくように
あなたはこの無の踊り手だ。
この無から外れて存在するものは何もない故に
無は全てを含んで満ち満ちている。
存在と無存在の間に無は存在する。
自由であるためには、この安らぎに満ちた無が
あなたの基盤であるという確信が必要だ。
あなたの中ですべての出来事が起こる。
起るべきことは起こるのだから安らぎに満ちて影響されずにいなさい。
平和に満ちていなさい、そうするとこの平和が外に広がっていく。
平和から生まれるものは平和、混乱から生まれるものは混乱。
だから平和でいなさい、この平和を宇宙に奉げなさい。
これが唯一あなたがすべきことだ。
「私は平和だ」と考えることでさえこの平和を乱してしまう。
だからただ静かにしていなさい、あなたの「在るがまま」でいなさい。
あなたは「在る」ことであり、「在り続けた」でもなければ、
「在り続けるだろう」でもない。
あなたは死に侵されない永遠性、
そこには時間が存在しないので死も存在しない。
そのまさに永遠性というのは今、この瞬間のことだ、それが「在る」ということだ。
単に「在る」ということはいつも輝いた存在だ。
私自身、これが存在の光だ。
このダイヤモンドの光は隠しおおせるものではない。
マインドが存在しない時、
あなたの顔は美と無垢で光り輝く。
ただ静かにして、あなたのあるがままでいなさい。
あなたは空間、決して移動進行することの無い空間。
内側の空間、外側の空間という区別は名前と形のために生じる。
いかなる対象物、考え、行動に対する執着を取り除くことによって
この名前、形という概念を取り除きなさい。
あなたはすでに喜びの園にいるのだから、
幸せである為にあなた以外に誰も必要としない。
過去のことに思い巡らすと悲しくなると言うのなら
この「今」に帰ってきなさい。
この喜びのこの瞬間が過去の記憶や苦しみを消し去ることができる。
なぜならこの瞬間こそが幸福のありかなのだから。
だから苦しむ為に過去の記憶に戻ると言うのはまさに馬鹿げている。
条件付けのない意識が幸福と静けさをもたらす。
この静寂は時間や空間とは何の関係もない、「今」に存在する。
思考によって条件付けされた幸福はマインドの幸福だ。
最初の条件付けである「私」は幸福の妨げになる。
エゴの欲望と期待によって幸せな人は誰もいない。
だから幸福を望むなら、考えないこと、欲望を持たないこと。
ただ静かにしていなさい、考えることは暗い墓場にいることだ。
幸福であるためには一切何も保持しないことだ、
さもないとあなたのポケットから死んだ魚のような悪臭が漂うだろう。
親愛なる友よ、幸福は体験ではない、あなたの本質なのだから
そのために何もする必要はない。
幸福は私の本性だという真の知識が幸福をもたらすのだ。
ここ、ここに美酒があるのに誰も知らない。
全てがここにある、これが意識だ。
意識がこの宇宙の全ての基盤だ。
「それ」、即ちあなたは全ての分子、アトムに存在する、
時間や空間でさえ「それ」がその存在を与えるのだ。
あなたが肉体やマインドの服を着ていると誰が気づいているのか、
誕生や死の繰り返しがこの同じ意識の中で起こっていると誰が意識しているのか?
あなたが「それ」だ。
すべての活動や無活動、多様性や一体性、これらはすべて意識の中に存在する。
束縛はこのことを否定することであり、自由はそれを知っていることだ。
あなたはそれだ、あなたはその意識だ。
意識、
感覚では捉えることができない。
頭では理解することができない。
意識だけがいたるところに存在する。
それがあなたの内に「私」として湧き上がって来る
それは太陽の輝き、地球の自転だ。
それは空間と時間を超えたもの。
逆に時間と空間は意識から生まれて来るのだ。
マインドで真理を探そうと努力するなら
それを見逃してしまうだろう。
これらのマインドの試みが動きとなり、雲となり、その不動性を隠してしまうからだ。
思考が止まった時に、それはそれ自身の姿を現す。
一瞬だけで良い、思考の動きを止めなさい。
一秒だけで良い、全ての欲望、全ての思考を止めなさい。
一瞬だけで良い、「私が」という考えを捨てなさい。
そうすればあなたは誕生と死という輪廻から永久に越えられる。
この輪廻が*3サンサーラ、あなた自身の想像のたまもの。
誕生も始まりも死も存在しない。
真の知識によってのみこの輪廻を止めることができる。
「私は一体誰なのか?」
この自問がこの輪廻を止めることができる。
だから決心しなさい。
人間としてのこの生はすばらしい祝福だ、決して無駄にしないことだ。
延期することはサンサーラ、苦しみの繰り返しだ。
あなたが困った時にはいつでも、「私は夢を見ているのか?」と自問しなさい。
これは「私は誰か?」という質問と同じことで夢から覚めることが出来る。
そして、あなたはあなたの真我と恋に落ちるだろう。
その時初めて「他人」を知ることになる。
この知識の光をあなたがどこにいようとも燈し続けなさい。
静かにしていなさい、考えないでいなさい、努力しないこと。
束縛されるには努力が必要だが、自由であるためには努力はいらない。
心の平安は思考と努力を超えたところにある。
思考と努力がそれを隠して、決してそれを明らかにすることはできない。
このために静かにしていることが愛と平和の宝庫を開ける鍵となる。
この静けさがノーマインド、この無思考が自由だ。
何もないこと、この静けさにあなた自身を一体化させなさい。
しかし注意しなければならないことは、それを経験にしないことだ。
経験は「観察者と観察されるもの」という二元性を持つマインドの罠で
それから遠ざけてしまうからだ。
「ただ在ること」は「ただ在ること」だ、観察者や観察されるものは存在しない。
「私は自由だ」という経験は、「私は束縛されている」という経験と全く同じマインドの罠だ。
対象を手放したあとは主体も手放しなさい。
全てを手放して、静かにしていなさい。
人生の目的は平和でいること、
全ての生き物を愛すること、自分が誰かを知ること。
あなたの本性を知れば全てを知ることになる。
この潔癖な知識のみ、無のみが存在する。
限界のない無からどのようにして抜け出すのか。
名前、形の様相はこの無の戯れだ。
今、ここで、ただ静かにして、あなたは一体誰なのかを知りなさい。
あなたはこの瞬間に存在する、「これ」に自己紹介しなさい。
マインドをいろいろな方面に向けないことだ。
修行なし、過去なし、未来なし、
あなたのハートの中の無も、空間でさえ存在しない。
永遠に自由であるために、この一瞬に向かって自己紹介しなさい。
この瞬間はいつもこの瞬間だ。それは不変だ。
自由はあなたの基本的に持って生まれた権利だ。
この瞬間を最も有効に使うにはその中に溺れてしまうことだ.
静かにしていなさい、あなたは内側の内側にいる、
どこにも定着しないで、努力するのをやめなさい。
努力と修行の概念は束縛になる。
ただ静かにしていなさい、
どこにいようとも、ただ静かにしていなさい。
名前と形というものが事の本質を隠してしまう。
これが教訓だ。
名前と形に囚われることは、自由への障害になる。
あなたの基盤である意識がそれに覆われて見ることができないからだ。
馬の彫像といえば目は素材のグラナイトを見ることができない。
指輪を見なさい、それを作っている素材のゴールドは見ることはできない。
ゴールド無しに指輪が成り立たないように
名前と形は意識を離れて存在することはない。
波が起こる以前は静かな海であった、欲望が起る前は無であった。
切望や束縛を壊しなさい。
経験者ではなく経験している、見る人ではなく見ているに同一化することによって
それらを破壊しなさい。
あなたは意識そのものであつて、意識がある「人」ではないのだから。
自由であるためには自由のように振舞いなさい。
自由とは欲望がないことだ。
すべては無欲の状態の中で知ることができる。
何も所有したくないのならポケットはいらない。
過去は過去なのだから記憶というポケットに入れて持ち歩かないことだ。
自分は生きていると知っていながらどうして過去という墓場に入ろうとするのか。
一時的なものには執着しないで、あなたの絶対的な真我に執着しなさい。
あなたが執着した全てのもの、あなたが愛した全てのもの、
あなたが知っている全てのものは、いつか消え去ってしまう。
このことを知った上で、世界は自分のマインドが創り出し
その中で演じて、苦しんでいるだけなのだと分別しなさい。
真理か、そうでないか識別しなさい。
既知は真理ではないので来ては去っていく、
未知は変わらない真理だ、それと一緒にいなさい。
現れては消え去る全てのものは実在しないのと同じだ。
それらから蜜の甘さは味わえないのだから、執着するのはやめなさい。
そして、いったん手放したら、もう二度と取り戻そうとしないことだ。
永遠にあなた自身の存在の中に留まりなさい。
真理は不動だ。行ったり来たりはない。
エゴの混乱、動揺が全宇宙の混乱を創り出す。
しかし、真理は不動だ。
このエゴがどこから、どのようにして生まれて来るのか注意深く見てごらん。
「私」というのは単なる親から社会からの条件付けの集まりだ。
習癖の集まりにすぎない。
個人というのは本当の私がエゴという着物を着ているようなものだ。
個人というエゴを捨てなさい。
エゴはそれが問題だという、
神はそれは問題ではないと言う。
全てが至高の力に支配されているのだから
エゴの決定力は幻想にすぎない。
全能に直面しなさい。
降伏するとはあなたのエゴを、個別性という概念を明け渡すことだ。
降伏するとはあなたの馬鹿さ加減、邪悪さを
存在の意志に明け渡すことだ。
それだけのことだ。
川が海に流れ込むように降伏しなければならない。
降伏とは「あなた」という川の分離感が
海の中に流れ込んで、川であるという限界が無くなってしまうことだ。
そして、起こることは起こるがままにすることだ。
空間に降伏しなさい。
真の知識でエゴを溶かしなさい。
自問という乗物に乗って愛と崇拝と一緒に
あなたの真我に、静かに内側に入っていきなさい。
この自問はすべての努力を捨てるということだ
静かに、静かに入っていきなさい、小さな思いつきでさえ大きな雑音となる。
静かにしていなさい。
静かにしていなければならないのはエゴであって、あなたはそのエゴではないと知りなさい。
この沈黙は話をする、しないとは全く関係が無い、
マインドの中に一つの思考も湧き上がらない状態を沈黙と言うのだ。
静かにしていなさい。
考えるのを止めなさい。
努力するのを止めなさい。
この何も無いこと、この静けさにあなた自身を一体化させなさい。
そこには「獲得」するものは何も無い。
源泉の本性は耕して栽培してその実を得るというものではない。
あなたは意識で農夫ではないからだ。
既にそのものなのだから
どうしてそのものになろうと努力する必要があるだろう。
社会から押しつけられた束縛から逃れようと努力することは、
押しつけられた自由を獲得するのと同じことだ。
気づきとは、「対象に気づいている自分に気づいている」ことだ。
あなたは「それ」、静けさそのもの。
覚醒への近道はマインドの純潔さに頼っている。
このショートカットはあなたの欲望を切るということだ。
欲望の対象物が幸福をもたらすのではない。
これは逆に束縛を与える。
獲得したあとの無欲状態が幸福をもたらすのだ。
無欲が幸福をもたらすのだ。
欲望だけがあなたの平和と休息への道を妨げている。
欲望なしに生き、幸福でいなさい。
幸福はあなたの本質だからその為に何もする必要はない。
自分を知る、自分の本質を知るということが幸福をもたらす唯一の道だ。
「ここ」、ここに美酒があるのに誰も知らない。
世界の出来事、自由、マインド、全ては存在しない。
これが究極の真理だ。
究極の真理は全て無であり、いつも無であったということだ。
ノーマインドとは外側の世界とは関係がない。
ノーマインドが無に行きつく唯一の道で、他に道はない。
本質が明らかになるのはあなたがノーマインドの時だ。
だから静かにして、何も考えないこと、努力をしないこと。
何も考えないでおこうと努力しないこと。
自分の本性を知るには
強靱な肉体とマインドと意志が必要だ。
あなたはやり遂げねばならない。
単にメニューを読んでいるだけでは空腹を満たすことはできない。
食物を食べなさい。
愚かなマインドを征服しなさい。
理解するということではない、「在る」ということだ。
自由でありたいと決めるのはマインドではない。
なぜなら自由を達成した時、マインドは存在できなくなるのだから。
マインドをコントロールしなさい。必要な時は召使いのように使いなさい。
ここ、この瞬間に自由である為にはマインドは必要ない。
私が本当に教えたいことは、
「教えることができないそのものについて」教えたいのだ。
私の教えは教えることができないということだ。
全ての教えが湧きあがって来るその源泉、
その本質について私は教えることができない。
この本質というのは全てを超越しているので
教えるとか教えないとかの問題ではない。
その本質とは全ての言葉が生まれて来るその源泉のことだ。
バグワン(マハルシ)ならこう言うに違いない。
真理はここにある、あなたは一体何が欲しいのか?
決断はあなたにかかっていると・・・。
用語解説
*1 マインド 思考の集合体。
*2 ハート 心臓や心という意味ではなく、源泉、センターという意味。
*3 サンサーラ 個人が解放されるまで繰り返される生と死のサイクル。