「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)
~SRI H.W.L.POONJA
崎山綾子翻訳
第13章 自由 ☆Part1
(サイト管理者より・・・・画面構成の都合上、章全体を複数ページに分割して掲載します。用語解説は各ページ末に収録)
自由
自由、解放、悟り、
これはあなた自身の本質、究極の真我だ。
これは「ある」こと、
「私がある」ではない、単に「ある」こと!!
これが不動のマインドだ。
この不動性は自由にとって最も偉大な達成だ。
あなたはあなたである波動を全ての人に伝えて行く、
だからあなた「自身」を満杯の愛で保っていなさい、
「自由」としてのあなたはどこに行こうとも
良い波動を残すものだ。
悟り
悟るとはあなたの真の本質を知ることだ。
沈黙を知ることだ。
これを知ることは全てを知ることだ。
自由とはこれといつも一緒にいるということだ。
解脱は沈黙、この沈黙は平和を伝える言葉だ。
自由とは独りであること、一体性であること、二元性は存在しない。
意識に対象が存在しない時に静寂があり、これが自由だ。
世界は実在すると考える限り自由はない。
私とあなたが存在する限り自由はない。
自由とは、私の内の「私」はあなたの内の「私」と同じだと知ることだ。
この「私」があなた、何の違いもない。
Q:悟りとは何ですか?
悟りとは全ての基盤だ。実現するとは、「ここ」にあるものはいつも「ここ」にある、と言う確信を得ることだ。
Q:真我実現した人にはどんな兆候が現れるのですか?
究極に到達した人にはそれを示す確かな兆候が現れるものだ。主な兆候はその人の近くにいるとマインドが平和になることだ。ラマナ・マハルシの写真を見たり、彼の近くに居ると他の人には感じられない何かを感じるものだ。
Q:近い未来に多くの悟った人々がこの地球に現れると予見しますか?
未来はない。地球はない。悟りを求めている人は誰もいない。悟った人は誰もいない。これが究極の真理だ。時間は観念でそれを考えなければ存在しない。この地球も観念だ。
静かにしていると、誰もかって存在したことはない。何も存在しない。時間も存在しない。時間はマインドだ。眠りにつくと時間も世界も存在しない。
マインドが思考、過去。全てがマインドだ。源泉から一つの思考もやってこないとき何が見える? 何が存在する?
Q:いつが悟りに熟したときですか?
功徳のパワーが悟りへとプッシュする。神聖さに接するようにプッシュする。神聖さに触れたものは全て神聖になる。
神聖な人が真理を実現する。
神聖さが重要な条件だ。
マインドの純粋さ、欲望からの解放が自由だ。
何か一つのことでもマインドが記憶していると悟りの機は熟していない。真の幸福を得るには、感覚の対象物への欲望から自由にならねばならない。対象物に依存する幸福から自由にならねばならない。無欲が唯一の幸せだ。
幸福感を与える感覚の対象物がやってくるならやってこさせなさい、やって来ないなら幸福を期待して待つのは止めなさい。この世界で何もあなたを幸福にするものはないのだから。
無が幸福をもたらすのだ。これは確かなことだ。真我以外に誰も誰からも幸福を得ることはない。欲望がないときにこれが手に入る。非常に簡単だ。
Q:目覚めた人と目覚めていない人の物事の見方の違いは何ですか?
見方が違う。目覚めた人は観察者と観察される物の背後から物を見るのだ。目覚めていない人は観察者として物を見る。目覚めた人は観察者はエゴであると知っている。目覚めた人は観察者・観察の対象・観察を超越している。
目覚めた人以外、誰が観察者で誰が観察者の背後から見ているのか誰も知らない。だから観察者を見ているその人に顔を向けなければならない。
感覚の対象がある、その前は感覚、感覚の前は感覚に命令するマインド、マインドの前は決定を下す知性、知性の前はエゴ。
今、エゴを越えて行きなさい。どの意識がエゴに気づいているのか? これはどこから起こって来るのか? 「ここ」から全てが起こってくる。「ここ」は何も影響されない。「ここ」ではあなたはやり手ではないし、あなたが達成したものは何もない。
これがカルマを越えた悟りであり自由だ。以前に私達が話していたカルマは全てマインドの枠の中にある。マインドの記憶の中でカルマの活動が起こっている。マインドを越えると何も起こらない。
助言は知的レベルにいる人々に与えられるが、この知的レベル、すなわちマインドを越えてしまったら、かって何も存在しなかったということが分かる。これが根本的な真理だ。何も存在しなかったし、何も存在するものはない。これが究極の真理だ。
見ることはエゴを通して見る。あなたが見ている顕現はあなたが見る必要があったものにすぎない。あなたが見たかったものは全てあなたの個的な欲望と関係していた。
眠りにつくとこれら全てが消え去ってしまうように、真理を知った時それらは消え去ってしまう。見たり話したりする物事は目覚めと夢の状態に存在する。
しかし、あなたの眠りの状態を目撃しているのは誰か? 苦しみの全ては目覚めと夢の状態に属している。しかし、一度目を醒ますと眠りの状態に存在した静かな幸福はどうなるのか? 眠りの後の目覚めの状態でどのようにして、この幸福を賢く利用することができるのか?
この静かな幸福からあなたがやって来るのだ。この意識はあなたが気づいていなくても気づいている。目をさますと、なぜこの幸福を忘れてしまうのか?
この幸福を尊重すべきだ。眠っている間、目覚めている「それ」を知らなければならない。他の全ての人が(真理に)眠っている時、(真理に)目覚めていなさい。他の全ての人が(欲望に)目覚めている時、(欲望に)眠りなさい。そうすると人生の苦しみに決して影響されることはない。あなたはそれを越えているのだから。
これを理解するのにどんな修練も必要ない。ただ、それを吸収してそれでありなさい。修練はマインドを強化する。修練は始まって終わる。それは真理ではない。常に存在するものが真理だ。
修練で何かを獲得することができるかもしれないが、獲得したものはいずれ無くなる。あなたの本質は決してなくすことはできない「それ」だ。眠っている間目覚めている「それ」があなただ。世界が求めているものに対して眠っている「それ」があなただ。この「それ」は説明することはできない。
Q:多くの人があなたは真理を実現した人だと言っています。真理の実現と悟りの間には違いがあるのですか?
私が真理を実現したと人々が言っているのは、実現についての彼らの概念によるものだ。彼らは私が真理を実現したと言うが彼らと私の間には何の違いもない。
そして、あなたの言うこの二つの言葉は普通交互に同じ意味に使われているが、それらには違いがある。
「真理の実現」は修練やサーダナの後に実現することだ、実現するものは以前にそこに無かったものだ。方法を通して真理を実現するのが実現と呼ばれる。
悟りは以前に明瞭でなかった何かに気づくということだ。ダイヤモンドをガラス玉と考えている、後にそれはダイヤモンドだと気づくようなものだ。ガラス玉でないと知った後で光がやって来る。そしてそれに価値を与え始めるのだ。
しかし、本質は悟りも気づきも越えたところにある。暗闇は全く存在しないのだから、誰が気づくことができて、誰が悟ることができるのか? それはすでにそこにある。概念という埃を拭ぐい去った時、それは姿を現す。
それはそれ自身で浮かび上がってきて「それ」と合流して、あなたと「それ」の違いを見ることはできない。他に何も見ることはできない。それは言葉では表現することができない。