「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)

 

~SRI H.W.L.POONJA

崎山綾子翻訳

 

 

 

第12章 巧みに世界で生きること ☆Part3

(サイト管理者より・・・・画面構成の都合上、章全体を複数ページに分割して掲載します。用語解説は各ページ末に収録)

☆Part1 ☆Part2

 

 

 

前ページ(Part2)からの続き・・・・

 

 

死と死ぬこと

 

 

  死を恐れることはない。
  死は怒り、貪欲、好き嫌いのある人を傷つけるだけで
  それ以外は祝うべきめでたい機会だ。
  死に物狂いに働いてきたマインドが死ぬだけだ。
  神々でさえ死に直面しなければならない。
  魂は死ぬことはない、それを知っていれば悲しみはない。
  死とは肉体を作りあげている五つの元素が離散して元に戻ることだ。
  
  サンサーラは欲望、欲望がサンサーラ。
  欲望は夢を与えそれを増殖していく。
  この肉体が死ぬ最後の瞬間には
  眠っている習癖、実在しない恐れ、心配が目の前に現れる。
  走馬灯のように流れていく過去の出来事の中で
あなたの最も興味があるもの、
  手放すことのできない思いが来世となる。
  記憶に残された足跡があなたの来世を創りだす。
  だから死の瞬間、真我だけを覚えていなさい。

  心臓が止まると、不滅のハートが支配する。
  そう、心配することはない、
  死がやってきたら笑って行きなさい。
 


 

 

Q:娘の死がもたらしたトラウマから立ち直るのにどうか力を貸して下さい。
     

 

 娘のことを考えているのならサットサンガにいることにはならない。それらのことを単にあらしめなさい。愛する人を失くさなかった人がどこにいよう。ここにいる間は「ここ」にいて、過去と関わらないことだ。現在を、今あなたに差し出されたものを役立たせなさい。
     


 

Q:娘の死は決定的で、愛する焦点を失したように感じます。
     

 

 全てはいつか去って行く。死がそのことに対して決定的だと知ったなら物事をどのように取り扱ったら良いか分かるはずだ。子供が生まれたその瞬間から死が後からついて来る。遅かれ早かれ、あなたの娘はこの死という化け物に飲み込まれたはずだ。それは全ての存在に起こることだ。


  死を避ける唯一の方法がある。それはあなた自身を知ることだ。今!


 全ての人が昏睡状態にある。全ての人が分別することなしに眠っている。だから一番大切なのは時間を無駄にしないことだ。明日を見ないこと。あなたの前に現れる存在の実体は何かみつけだしなさい。今やりなさい。

 夢の中で美しい女性と恋をし結婚して何十年と彼女と暮らす、しかし夢から目を醒ますとこの妻はどこにいるのか? このように幾生にわたって妻や夫を所有してきた。兄弟姉妹、彼らはどこにいる? 

 それらは夢だ。現れて消えるものは夢であるに違いない。現れもしないし、消えもしないものが実在であるに違いない。それは何か、あなた自身の内に見つけなさい。顕現でも消滅でもないものはいったい何か?

 今見つけ出しなさい。

 

 

Q:私は死にたい!
     

 

 それは不可能だ。肉体は無くなるかもしれないが、あなたは死ぬことはできない。あなたは肉体ではないのだから死ぬことはない。これが経験としてここで得ることだ。

 あなたは誕生と死を越えたものだ。肉体の死が起こる前にこれを見つけ出しなさい。誕生と死とは何か理解しなさい。
     


 

Q:私にとって「私は肉体ではない」という考えは完全に理論にすぎません。それを実際に示してくれますか?
     

 

 死は肉体に起こって、決して死なない「それ」があなただと知らねばならない。

 

 唯一の息子を失くし悲嘆にくれた夫婦が、息子の死体を仏陀の所に持ってきて「生きかえらせて下さい」と頼んだ。

 仏陀は「それは簡単なことだ。死人を出したことのない家から一握りの土をもってきなさい。」と言った。

 夫婦は死人を出さなかった家を探し求めて村の至る所を走り回った。もちろん、彼らはそんな家を見つけ出すことはできない。どこにいってもみんな愛する人の死を経験していた。

 遂に彼らは、生まれるものは死ぬ為に生まれて来るのだ。死は名前と形のあるものに起こるのだと悟った。彼らは死についての知識を授けられて仏陀の元に戻ってきた。


 サットサンガがあるところに死は存在しない。サットサンガにいる人は、死は肉体に起こるもので、自分は肉体ではないと知っているからだ。

 死は名前と形のあるものに対して存在する。形のないもの、名前のないものは決して死なない。それを知っている人は肉体、マインド、エゴ、感覚、対象に執着しない。

 あなたの人生の目的を理解してこの理論を実践に移しなさい。執着を楽しみたいのか、自由になりたいのか? その時、あなたの目は開いて死を恐れることはない。

 あなたの目の中に他の恐れがある、それは何かね?
     


 

Q:私は今すぐ死ぬだろうという恐れです。ラクナウを去らなければ私は死ぬ、しかし私は去ることができないという感じです。
     

 

 この死の恐れは本物だ。それはマインドの死を暗示しているからだ。マインドの死をあなたが死ぬと勘違いしないことだ。マインドが死ぬとあなたは生きるのだ。あなたは自由だ。マインドがあなたにこの恐怖を与えて逃げ出すようにし向けているのだ。

 なぜなら、それは永遠のマインドの死であるからだ。サットサンガでは死への欲望が起こるが、これはマインドだけに起こることだ。恐れないことだ。強くなりなさい。

 ここにいてマインドを死なせなさい。ここにいて死に打ち勝ちなさい。マインドと一緒にいないことだ。臆病であってはいけない。死を招待し、やって来させなさい。あなたは永遠だと分かる。


  あなたには二つの選択のみがある。
  マインドが生きるのを許すのか、真我を見つけるのか。
  これはあなたが決めることだ。

 

 

Q:死と死ぬこと、天国と地獄について話していただけますか?
     

 

 これらはあなたに植えつけられた概念だ。天国の概念と共に「あなたは天国にいない」という概念も植えつけられた。これは障害だ。自由になる為にはこれらの全ての障害を取り除かねばならない。

 これがあなたがここにやって来た理由だ。あなたはいつも自由であったということを確信するために、ここにやって来たのだ。あなたの全人生は「私は束縛されている」「私は苦しんでいる」「私は死ぬ」と繰り返し確信してきた。これらはあなたがもてなした概念だ。

 単にそれらを捨ててしまいなさい。自由はあなたの内であなたを抱擁しようと待っているのだが、あなたはそれを無視し続けてきた。

 今、誰が苦しんでいるのか? 誰が束縛されているのか? 見つけなさい。あなたは誰か見つけなさい。衣服でも皮膚でも髪の毛でも爪でもない。骨や筋肉や頭脳でもない。エゴでもマインドでも感覚でもない。

 これらの全てを一瞬拒絶して、何か残っているか? あなたでないものを拒否したら、あなたの前に何が現れてくるかね? 現れたり消えたりする全ては自分ではないと知ったなら、あなたは何なのか? 何が残っているのか?
     


 

Q:ただの「私」。
     

 

 「私」は残るだろう。そしてこの「私」は死なない。あなたが拒否したものが死んで行く。すべてを拒否した後に残るものが死と誕生の概念の以前にあるものだ。

 永遠ともてなしてきたこれら全ての概念を取り除き、単にあなた自身を認めなさい。内なる家に戻りなさい。「私は肉体、マインド、エゴ、感覚、私はこの顕現だ」・・これら全ては概念で、眠りの中でこれらの概念は消え去る。

 しかし「眠り」は無知の状態で概念の消滅の後に何が残っているか知ることはない。だから眠りの状態の中で誰が目覚めているか見極めなさい。

 「それ」があなたである。目覚め、眠り、夢みの状態でさえ「それ」に触れることはできない。死や死ぬことや天国・地獄は放っておきなさい。「それ」は決して死にはしない、「それ」があなただ。

 たとえあなたが「私は『それ』ではない」と言っても、「それ」ではないと知って気づいているのは誰か? 無知と疑いを意識しているのは誰か? 苦しみと幸福に気づいているのは誰か? 

 意識が唯一存在するもので、自分は意識ではないと疑うにも意識が必要だ。あなたであるものから、真理から逃げ出すことはできない。
     


 

Q:真理でないものは「今ここ」にはない!
     

 

 確かにそうだ、一度ロープは蛇ではないと知ったなら、たとえ努力してもそれを蛇だと想像するのは難しい。しかも、ロープは決して蛇に変化しなかった。

 それは全てあなたの想像であった、蛇を殺そうと掴んだ石や棒も含めて。自分自身でそれがロープだと確かめなさい。静かにして全ての概念、意図を切り捨てなさい。
     


 

Q:私の父の死は私を深い沈黙に連れて行き、私の母は踊るようにして死んで行きました。彼女が彼女の肉体に「さようなら」と言った時、私達は一つの愛として燃えていました。二人の死は大きな愛と自由を私に与えてくれました。あなたといることがこれを思いださせてくれます。パパジ、どうか美しい死の秘密を話して下さい。
     

 

 人が完全に意識して死ねるとは、身近な人に別れを告げて死んで行けるとは、何とすばらしい死か!これは大変美しいことだ。ほとんどの人は執着の為に泣き苦しんで死んで行くものだ。

 死に際に何かに執着しているとそれは非常に痛々しい。棘のついた藪から布をはぎ取るようなものだ。執着の棘がマインドの布に付着して、苦痛を引き起こすのだ。

 しかし執着のない稀な人は、ただ呼吸が止まったと感じるだけだ。このように彼は何も苦痛を感じない。ただ呼吸が止まる、それで終わりだ。彼らはこの宇宙から美しく去ってゆく。動物でさえ、この美しい死を経験することができる。


 

 昔、三人の妻と五人の子供を持った雄象が湖に水浴びに行った。彼が湖に入るや否や巨大なワニが彼の足にかぶりついて引っ張り始めた。彼は妻達や子供達に向かって助けを求めたが、彼らはただ立ちすくんで見ているだけだ。

 彼はどんどん深い水の中に引っ張られて行った、最後の一息の為に鼻を水面から上に伸ばした時、一輪の蓮の花を見た。彼はそれを鼻で摘んで、未知の誰かに助けを求めてその花を差し出した。空に向かって助けを求めた。

 さてその時、象が夢にも見たことのない人が突然現れて、ワニの顎を砕いて象を助けた。象は湖の岸辺に戻って来たが、子供達や妻達とは言葉を交わさず、一人で森の中に入って行った。

 彼が執着していたのもは何の役にも立たないと悟って、彼は決して戻ってこなかった。死後、彼は天国に行ったという話だ。最後の願い、最後の一息があれば神はその人を助けることができる。

 

 

Q:私は死を恐れています、私は今死んで行くのではないかと恐れています。
     

 

 全ての人が死ぬのだ。全てが。あなたの祖父母はまだ生きているかね? 両親は? 孫が生まれて、あなたが父母から祖父母になるようにこの死ぬことは続いて行く。だから肉体の死については恐れることはない。


 それについて恐れることはない、死には生の中で見つけることができない快楽がある。

 肉体を維持しようという欲望をもたないことだ。肉体が古くなったらそれは死んだ方がよい。年を老いた肉体は維持するのが難しい。肉体を若く保ちたいと望んだ人々の話をしよう。


 タクサラの近くにトンネルのような洞窟があった。その中には不死の湖があった。アレキサンダー大王はほんの33歳であったが大王の死が差し迫っていた。

 大王がインドを侵略した時、ある川辺でヨギに会い、大王は若くして死ぬだろうと予言された。それで、この洞窟にやってきたのだ。唯一の問題はこの湖を探索に行った者は誰も戻って来ないということだ。

 アレキサンダーはもちろん愚かではないので、洞窟の入口に生まれたばかりの子馬を残して、その母馬に乗ってこの洞窟に入って行った。大王は母馬の鋭い臭覚と子馬の所に戻りたいという母性本能を信頼していた。

 遂に大王はこの湖を見つけた。湖の畔に25人程の人が住んでいた。大王は彼らは誰かと尋ねた。

 「私達はこの湖のことを聞いてここにやって来て、この湖のネクターを飲みました。しかし、今私達は10000歳で死ぬことができない。この人生に飽き飽きしています。祝福された死を死ぬことができないのですから。」

 生きた骸骨達と話した後、大王はこのネクターを味わうことなく帰って行った。その代わりに自然な死を味わって死んでいった。


 肉体はこの世で100年位生きるだろう。しかし、心配することはない。生まれる以前「それ」が面倒みていたように、今も面倒みていて、死後も面倒みてくれる。死を恐れることはない!

 

 

 

第12章 巧みに世界で生きること 終了  

 

 

 

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