第5部 21世紀の現代インドにおけるギリプラダクシナの意義

 

 

実際問題として昨今の「アウタールート」は交通量が激しくなって、なかなか「古来からの雰囲気」を感じるのが難しくなってきたのも事実である。


ラマナはギリプラダクシナについて例えば、

「山に生えている草にはハーブも多いから、それらを吹き渡る風はあなたの健康にも良いだろう」


と言われたのだが、さて事実はどうか? この言葉の背景にあるのは60数年以上前の環境である。残念ながらこれは現在の環境状態には妥当ではないのだ・・・。


あえてバガヴァンに抗議しよう!(笑)

「あのう、そうはおっしゃいますけどねえ、今は歩いておりますとバスやらトラックやら交通量が凄いです、どっちかっていうとハーブよりか排気ガスの風を浴びる方が遥かに多いざんすよ・・・」

 

これが地方都市ティルヴァンナマライの現実である・・・何度も言うように深山幽谷の地にあるのではない、御山の周囲を囲む道の約3分の2はかなりの交通量であるし、

かろうじて昔の面影をとどめている通称「ギリプラダクシナ・パス」と呼ばれるあたりでも、昨今は抜け道として大型車両が駆け抜けることも多くなってきた・・・。


多分まだインドには「排ガス規制」なんてないと思われるので、実際アウタールートを歩くときに感じる風はハーブではなく「排気ガス」だったりする・・・。


そんな具合なのでアシュラムを出発して最初の分岐点までの道と、最後の方で街中に入ってビッグテンプルまでとそこからゴールまでの道というのは、普通の感覚では「タパス(苦行)」と言うに相応しい(爆)。

 



では果てしてそんな現代にあってこのアウタールートを歩く意義はどこにあるのだろうか?


 

私が「座右の銘」としているものの一つが、

「意識は常にアルナーチャラの元にそれ自身として不動である」

というのがある(ラマナのお言葉に若干手を加えている)わけだが、

それは当然「タパス」然としたルートにあっても同じことのはずなのだ。

 

月が満ちていれば視覚によってもアルナーチャラのお姿は常に「歩く者の右側」に見ることが出来るし、よしんば新月でも悪天候であっても、信奉者のハートには確実に働きかけられる力?のようなものが感じられるのは確かだ(霊能力の優れた人や「エネルギー」に敏感な人なら尚更である)。

 

であるならば、行きかう大型車両もバイクの群れも無視するわけにはいかないが、「それはそれとしてある程度『自動的に』に対処して歩き続けることはそんなに困難なことではない。


これは一つのメタファーであるのだが、我々がこの「現象世界を身体的存在として生きていくリアル」にあっては、それぞれのカルマに応じて「たち現れる諸問題」それ自体は決して無くなりはしないだろう・・アウタールートの交通量が今後減少することはないように。


だが基本的には我々はそういう人生を歩かざるを得ないのだ・・・だが立ち現れる諸問題をいたずらに忌避することもなく、かといってそれに執着するのでもなく、そのような現世俗世の真っ只中を「我々をそのようなものと生かせ在る絶対的本源」それ自体への意識・・を常に志向して生きていくことは可能なのだ。

 

要するに禅語にいわく・・・・「安禅必ずしも山水を用いず」なのだ.






そしてまたギリプラダクシナとは、
「この肉体が歩いているのではない!」




「『この肉体』が歩いている」と意識している限りは、その「肉体」が対峙している「アウタールート」は現実的様相としての、「近代的な開発整備」が進行して往年とは隔世の感が強い「道路」であるに過ぎない。


だがこの「アウタールート」とは、果たして「単なる道路」でしかないのだろうか?

否・否、三度否!・・・この道は同時に、
「アルナーチャラ」が我々に差し伸べている「霊的チャンネルとしての巨大なる回路」でもある!


そもアルナーチャラとは「現実的様相」としてはもちろん「ただの花崗岩の固まり」である標高820メートルほどの山に過ぎない・・のだが、その様相に対峙している基点が「この肉体」だから、そのレベルに相対してそこに「山としてある」のである。


しかしアルナーチャラの本性とは、
「天地を貫いて屹立する巨大なる光の円柱」 なのであって、その本性に対峙している基点とは決して「この肉体」ではない・・・のだ。


「この肉体」として感じている「エゴ」ではなく、「私」という純粋意識がこの道を歩くとき、それは「霊的チャンネルとしての巨大なる回路」となって、「天地を貫いて屹立する巨大なる光の円柱」であるアルナーチャラへ「吸収され一体化する(これはいわゆる「心理的同一化」とは意味が違う)」という秘儀・秘蹟が実現する。



・・・・のではないだろうか?


つまり「ギリプラダクシナ」とは、真我の探求としての「私は誰か?」の問いかけを、「誰が歩いているのか?」と置き換えた「全体的なダイナミックな『動く瞑想』」としての営為なのでもある。









そこらへんが「21世紀のこのご時勢にアウタールートを歩く意義」なのだろうと私は捉えている。


と同時に、歩きながら仰ぎ見るアルナーチャラは太古の昔から同じである、いちいち後付けに過ぎない「意義」を探し求める必要はない。確かに排気ガスも混ざっているけれど、風はアルナーチャラの恩寵である沈黙の笑いを運んでくる・・・。

 

・・・現在にあっても彼はエゴの思惑を遙かに超越して、その恩寵を「ぐははは・・・・・!!!!」と沈黙の笑いで放射し続けているのだ。


















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