OM NAMO BHAGAVATEE SRI RAMANAYA ARUNACHALA SHIVA

第1部「肉体なきグルの臨在と恩寵」

 

 

PART4「臨在と恩寵・・ダルシャン」

 

 

 

 

バガヴァンが27年間、毎日そのコーチの上に座り、ダルシャンを与え、夜もそこで眠られたオールドホール「メデテーションホール」の中には、針の落ちる音も聞こえそうな静けさで、ソファーの上に置かれているバガヴァンの画像に向かって瞑想すると、いまでもバガヴァンがそこにおられることを実感することができます。

 

肉体の病が進んでいったとき、バガヴァンは信者たちの心配に応えて「わたしがどこへいくことができるというのかね。わたしは、ここにいる。」と言われました。そうです、バガヴァンは肉体を捨て40年以上たった今もここにおられるのです。

 

バガヴァンは「グルの沈黙」について次のように述べています。「沈黙はもっとも強力な作用の形態である。聖典がどのように広大で強力であってもその作用は不十分なものである。グルは静寂であり、恩寵は全てにいきわたっている。この沈黙はすべての聖典を合わせたものよりもいっそう広大であり、いっそう強力である。」(Maharshis Gospel)

 

シュリ・ラマナアシュラムに滞在する人が感じる平和な幸福感と不思議な力は、沈黙のグルの恩寵が、いまもなおひろく行き渡っているからにほかなりません。 

 


☆柳田文献 94年7月15日記事より抜粋 

 

 

 

 

 

 

空気そのものがバガヴァンの存在を暗示している

 

 

 


シュリ・バガヴァンの存命中、彼の導きは彼に心を傾けた人すべてに与えられた。その人が例え近くにいようがいまいが変わりはなく。

その導きは今も同じように、アルナーチャラの麓のアシュラムから特別な力で放射されている。

 

どこにいようともバガヴァンの存在は感じられる。

 

命中バガヴァンの前で行われていたように、朝夕にそのサマーディ(聖廟)の前でパラヤーナム(ヴェーダの詠唱)がある。信奉者がそこに座って瞑想をするときには、ホールのバガヴァンの前で座っていたときと同じ力が働いており、同じように細かな導きがある。

古いホールにはより穏やかで円熟した雰囲気があり、長い間バガヴァンがそこを住居としてしていたことからくる愛着がただよっている。

 

アシュラムの敷地内だけでなく、その付近一帯も神聖な場所である。アシュラムの平和が、辺りを取り囲み浸透している。その平和は受け身のものではなく、胸をわくわくさせ、心弾ませる種類のものである。空気そのものがバガヴァンの存在を暗示している。

 

また、バガヴァンの存在はティルヴァンナーマライに限られたものではない。信奉者はどこにいても、その恩寵と支え、光を放つ内なる存在を見つけだす。


 

☆「沈黙の聖者 ラマナ・マハルシーその生涯と教え(シュリ・ラマナシュラマム編著・柳田侃監訳・出帆新社刊)」第11章永遠なる存在  より抜粋引用

 

 

 

 

 

 

 

 


Presence ・・・・・臨在、おわしまするという体験

 

 

おおいなるもの(名前は何でも良い、神でも仏でもハイアーセルフでも宇宙意識でも)が「今ここにおわしまする」という臨在感覚と、そこから強烈に放射されている「恩寵」の元に生かされ在るのだ・・・という直接的な感覚こそが、スピリチュアリティの根幹ではないだろうか?

バガヴァン=アルナーチャラのとてつもない「臨在」、比類なき「恩寵」とその本に生かされあることの「至福」・・・これらはどこにあろうとも強烈なリアリティそのものである。


 

ある人の体験より~


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彼は在る、ということ

ただそこに在って、みていてくださった

 

「やっと気がついたかい?」

 


OM NAMO BHAGAVATE SRI RAMANAYA


深く帰依いたします


彼が在る、ということ

彼が在る、ということを教えてくださったことに

ただ 深い感動と底なしの喜びがある

 

今日は記念すべき日

 
そのことにもどうか執着しませんように


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この人はヨーガ・アーサナを少しやってからぼんやり座って「マントラをモチーフとしたスピリチュアル音楽」を聴いていたら、ふいっとシヴァ神のイメージが浮かんできて、ハートの辺りからエネルギーがむくむくと爆発して突き抜け、ふっと目を開けたらラマナ=アルナーチャラのお写真が視界に入ってきた。

その瞬間、シヴァ即ちアルナーチャラであること、そしてラマナがいまここに臨在されているのだ!・・・・ということをリアルに感じる事が出来た・・・とのこと。


そしてしばらく胸が一杯で溢れ出る涙を抑えることが出来なかったようだ。


因みに日常的な感情の起伏による涙・・大泣きしたときとは全く状況が異なり、目が腫れたり頭痛がしたりといった事が全くない純化されたというべき涙であったとの事。

 

この知人が体験した事はどういうことなのであろうか?


・・・・・すなわちこれが「臨在と恩寵」、サットグルの一瞥である。


 

ラマナはその肉体は既に65年前に亡くなっているのだが、彼は現在も「おわしまする」のである・・・このことを知人は頭ではなくリアルな体験として感じ取ったようだ(当人曰く「大発見!」)

この体験後、知人は「在る」ということについての意味がようやくと得心したらしい(ラマナが「いる」ではなく「在る」というニュアンスの違いなども)。


そしてラマナのお写真というものが単なる過去の写真ではなく、まさしく彼がそこにおわしまする・・・というように感じ方まで大変化したそうだ。

 

 

 

 

 

 

実際にアルナーチャラへ行かれた事がある方は何らかの形で、あの比類なき臨在という感覚、今ここにラマナ=アルナーチャラそして神様というものが確かに「おはしまする」という感覚・・・を体験されたのではないだろうか?

それは何か願望を叶えてくれるとか罰を与える・・とかの「人格的」なものではなく、ただ「在る」ということだけが「在る」!!そしてそれ自体がとてつもない至福そのものなのだ!!・・・というリアルな確信とでも表現すればよいのだろうか?

 

何をしていても、いやしていなくとも、バガヴァン=アルナーチャラはまさしく「今ここに」おわしまして私を見ておられる


見ておられる・・と書くと、何か神様が「外部」にあって「私」に働きかけている・・・という印象になるが実はそうではない。

もっとも肝心なことは何か?それはバガヴァン=アルナーチャラのあの「比類なき恩寵と臨在」当のものそれ自体である。

 


バガヴァン=アルナーチャラの臨在とは、

「神」=「私」=「在る」=「至福」

というような境地というべきものである。

 

 

 

意識は常にアルナーチャラの元に不動

 

 


ここラマナアシュラムの最大の魅力とは、不意にラマナ=アルナーチャラの比類無き臨在と恩寵がもたらされる・・・ことなのである。

物理的な意味でのノイズは消えないにしても、ラマナの御前に在ってはそこに明らかに「サイレンス(静謐)」が満たされている・・「沈黙にして不動の顕現」であるラマナ=アルナーチャラの臨在と恩寵の「静謐」さは、今日にあっても「不変にして普遍」なのだ。

 

それには何か特別な行法の結果とか言うような因果関係は存在しない。 何人であろうとバガヴァン=アルナーチャラとはその間に何者も介在されない、絶対自由・平等である。公式な教義という物すら果たして存在するのだろうか? なにかしらの修行なるものをこれこれの回数やら時間やらをこなした結果、その見返りとして与えられる・達成される・・ということではないのだ。


そんな「こちら側の都合やら状況」なんてものは一切無関係に、バガヴァン=アルナーチャラはその人の存在そのものに直接働きかけられるのだ!!

突如としてかの「比類無き臨在と恩寵」がどっと・じわりと・いきなり浸透してくる・・・ということが起きたりもするのだ。

 


あえて直覚的知見として文章に残すとしたら、

「信仰の核心(確信)は、何らかの『関係性』でも『状況』なのでもない。それらを、そしてそれらを生起せしめている『構造』をも超越して働きかけられる臨在と恩寵(が全て)なのである。」

 

神は「いる」のでも「信じる」ものでもない。神は「在る」・・というよりも何というか「在らせられる」、ひいては「おわしまする」のである。

 

 

そしてその「不変にして普遍」である臨在と恩寵の「静謐」に浸るための極意?があるとしたらそれは何か?


それは「何もしない」・・・ことなのだ、敢えて「やろうとしているあれやこれや」を放棄してみる・・・というのも一つのポジティブな選択なのだ。


つまりそれは「私は○○である」の、「○○」を取っ払うことを意味するからである。

 

「自己啓発実践ガイド」臭ぷんぷんの「ビジョン」?などは一切無用・・いやむしろそれらの、ありとあらゆる「『ビジョン』からの自由」の方にこそ意義があるのではなかろうか?

 

禅語に曰く、

「郭然無聖」・・・これがポイントなのである。


これは「概念・観念」である文字表現としては全く対極でありながら、アルナーチャラという超絶的聖性の臨在と恩寵はこの「郭然無聖」の本質的リアライズにこそ掛かっているのではないか?


「○○を取っ払い」続けたあげくにくたびれ果てて、「取っ払う」こと自体を放り出して「ただぼんやりしている」ような状態の時に、

不意に、「ラマナ=アルナーチャラの比類無き臨在と恩寵」がもたらされたりもする・・・のである。


そして「意識は常にアルナーチャラの元に不動」であれば、

「いつでも、どこに在っても、何をしていようと、していまいと」

ハートの内に彼はおわしまする!!・・・のだ。

 

それを身に沁みて実感する最大の近道は現地に行くことである。

あの旨い飯を食い、歩いてみる・・・機根満ちたる者ならば、瞑想していようが糞をしていようが、アルナーチャラ=バガヴァンの比類なき臨在と恩寵が「常に強烈にそこに満ち溢れている」リアルな体験をすることになるだろう。

 


このことが直覚的にリアライズ出来たならば、

年中無休・24時間営業、しかも全く無料で、ラマナ=アルナーチャラのダルシャンを受けられるのだ!!!


 

☆サイト管理人のブログ記事より抜粋再編集

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Part5「ラマナ=アルナーチャラ」へ続く・・ 

 

 

 

 

 

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