OM NAMO BHAGAVATEE SRI RAMANAYA ARUNACHALA SHIVA
第1部「肉体なきグルの臨在と恩寵」
PART3「肉体なきグル」
インドの他のアシュラムと違って、シュリ・ラマナアシュラムには人間の姿をした霊的指導者はおられません。霊的な助力は、今でもバガヴァンによって直接あたえられるのです。
誤って自分を肉体であると思い、グルもまた肉体をもってなにかをしてくれると期待している人々は、今のアシュラムに物たりなさを感じるかもしれません。
しかし、グルの指導は本来霊的な領域にあります。それは言葉や行為によってあたえられるものではなく、その存在から人々が自分で感じ取るものです。
☆柳田文献 94年7月15日記事より抜粋
「これがラマナと思うかね」
肉体の衣を捨てたシュリ・バガヴァンの力は、決して衰えてはいない。彼はどこにいても届く、電球から放たれる部屋の中の光のようなものだ。
光は、その源である電球に近い場所での方が部屋の他の場所でよりもはるかに明るいが、その光は部屋中をくまなく照らしているのだ。
では、もし私たちのグルの力が、その肉体が埋葬されている場所の近くで見つかったら、何と不思議なことではないか。
ーサードゥ・アルナチャラ(A・W・チャドウィック少佐)
マハリシは表面上舞台から立ち去ったが、アシュラムは聖性と神々しい静寂の場所であり続けている。
巡礼者や信奉者たちにとってグルはすべてであり、彼らは少しの間でもグルがいないことを恐れるものだが、アシュラムを訪れて聖なる墓前や瞑想ホールに座ると、敬愛するグルがいつものようにまちがいなく現存していることを発見する。
驚きは歓喜に変わり、「ラマナの生存」を完全に確信してそこから立ち上がり、自らの道を歩むのである。
ーS・S・コーハン
☆「沈黙の聖者 ラマナ・マハルシーその生涯と教え(シュリ・ラマナシュラマム編著・柳田侃監訳・出帆新社刊)」第11章永遠なる存在 より抜粋引用
かって、彼もまた”ラマナ・サットグル”と歌う帰依者たちのなかに参加していました。
何人かの人々の顔にあらわれた驚きの表情を見て、彼は微笑み、自分の肉体を指して「これがラマナと思うかね」とたずねました。後になって、彼は「すべての人の、蓮華の形をしたハートの奥深いところに、アルナーチャラ・ラマナである絶対意識が輝いている」ことを確認したのです。
彼は常に私たちと共にあり、私たちの内にあります。彼は多くの人々に「あなたは肉体ではない」と言いました。そうです、彼は肉体ではなかったのです。
彼が肉体を放棄する直前に、「人々は私が立ち去ろうとしていると言っている。しかし私がどこへさることができるのか。私はここにいる」と言いました。
「私はここにいるだろう」ではなく「私はここにいる」なのです。その「私はいる」と「ここに」とは私たちの一人一人に関係しています。
前者は人それ自身の非二元性の真理、永遠の存在を宣明していますし、後者はまさしく個人の存在について言っているのです。
シュリー・ラマナ・マハルシに助力を求める人にとって、マハルシが内なる実在として存在していてくださるというこの確信は、大変すばらしい恵みです。急いで外部にグルを探し求める必要は全くないのです。
シュリー・ラマナは常に存在しています!これをはっきり理解することが、彼の恩寵なのです!
☆「真我は今 ラマナ・マハルシの教え(V・S・ガネーシャン著・柳田侃訳)」より抜粋引用

内なる実在として、すべての人のハートの中で輝いている
バガヴァンは肉体を放棄する直前に「人々は私が立ち去ろうとしていると言っている。しかし私がどこへ去ることができるのか?私はここにいる」と言われました。「私はここにいるだろう」ではなく「私はここにいる」なのです。
これは、バガヴァンが肉体をもって生きておられたときにさえかれは肉体ではなく真我だったこと、肉体を捨てた後にも変わらず真我として存在していることを意味します。そして「ここ」とはアルナーチャラの麓ということにとどまらず、内なる実在として、すべての人のハートの中で輝いている、ということなのです。
V・ガネーシャン氏は次のように言っています。
「シュリ・ラマナは内にある真我です。生命の躍動として、まさに存在するものとして、真の実在として、人の内部で脈打っているそれがシュリ・ラマナなのです。かれは私たちのためにだけ、美しい顔立ちの人間の姿をしたグルとして、外に現れました」
わたしは他のアシュラムのグルの元にいる人々(主に外国人)との”交流”の意義を否定するつもりはありませんし、バガヴァンの教えを受け継いでいる「肉体を持ったグル」の役割を評価するにやぶさかではありませんし、また人が肉体をわたしと考える状態から脱しきれないでいるとき「肉体をもったグル」を求めるのは当然かもしれません。
しかしわたしは「肉体をもたないグル」にこだわってみたいと思います。
確かに「肉体をもたないグル」を実感することは、「肉体をもったグル」に仕えるより困難な道でしょうが、形を持ったアルナーチャラの丘の存在はそれを容易にしてくれている、と言えないでしょうか?
アーサー・オズボーンは正当にも「バガヴァンの恩寵と指導は以前にもましてアルナーチャラに集中されている」と述べています。
わたしたちはいまでもアルナーチャラと静かに対面することによって「肉体をもたないグル」の恩寵と指導を受けることができるのです、私たちのハートの中でアルナーチャラ・ラマナである真我が不滅の光を放ち、いまも私たちを導いているのです。
ああ、アルナーチャラ!
☆柳田文献 95年4月15日及び00年5月15日記事より、サイト管理人による任意抜粋・再編集
「過去形で語られる」存在ではない
ラマナの肉体的な死はもう65年以上も前のことであるが、われわれ信奉者においては、ラマナ・マハルシは肉体という衣を脱ぎ捨ててからも現在に至るまで「=アルナーチャラ」であるサットグルとして臨在されているのである!!
・・・ということが信仰の体験に裏打ちされた自明の理なのである
特にアルナーチャラに行けばそのことが強烈にリアルに感じられるケースが多いし(もちろん資質に応じた個人差はある)、そうでなくとも一度彼の恩寵を体験した者にとっては、ラマナの存在は「いつでも・どこにいても」リアルに身近に当然のように感じられる・・・それは日本的表現としては「畏くもおわしまする」という感覚なのであるが。
その「畏くもおわしまする」リアルである「それ」そのものを、対象化しえない「無」そのものに合一化しうるならば、同時にそれは「姿なきグル」すなわち「神」に直結していくことなる。
ラマナの場合は、その身体的存在(であったもの)ですらも、それが表象しているものと殆ど完全に等しいものであった・・・ということになる。
聖者さんというものは基本的にそういう状態を体現した存在であるのだが、それでもやはりそれぞれにその「合一化」のグラデーションの度合いについては濃淡がある、と言えるのかもしれない。
例えばやはりイエスであるとかお釈迦さまなんてのは限りなく純度100%に迫るものであったことであろうし、ラマナももちろんそういう「純度の高さ」を体現されていたのである。
彼は決して「こういう聖者さんがいた・・」と「過去形で語られる」存在ではない!!のだ。
☆サイト管理人のブログ記事より抜粋再編集