OM NAMO BHAGAVATEE SRI RAMANAYA ARUNACHALA SHIVA

第1部「肉体なきグルの臨在と恩寵」

 

 

 

PART2「マハー・ニルヴァーナ」

 

 

 

西暦1950年4月14日午後8時47分、かれは肉体を放棄しました。

その瞬間、大きな光の塊が放射されるのを多くの人が目撃しました。その光は巨大な流れ星となって南東の空に現れ、ゆっくりと大きな弧を描いて北東の空を横切り、アルナーチャラの丘の頂へと消えていきました。はるか遠く離れたボンベイ(ムンバイ)においても、人々はその流れ星の特異な形と煌めきに心を奪われた、といいます。

それから50年の歳月が過ぎました。バガヴァン入滅のとき、この特異な出来事に接した人の多くが去り、あるいは老齢化しました。科学思想に骨の随まで蝕まれた現代人には、にわかに信じ難いことかもしれません。

しかし、アルナーチャラとの神秘な関係に満たされたバガヴァン・ラマナの生涯を象徴する出来事として、いまも語り継がれています。


 

☆柳田文献 00年5月15日記事より、サイト管理人による任意抜粋編集 

 


 

 

 

1950年4月14日午後8時47分・・・・・ラマナ・マハルシ、肉体を去る!!

 

 

突然、ホールの外のベランダに座っていた帰依者のグループが『アルナーチャラシヴァ』(文字の結婚花輪)を歌いはじめた。それを聞くと、シュリー・バガヴァーンの目が開き、輝きはじめた。そこには言い表すことのできないやさしさをたたえた微笑があった。彼の瞳の外側のふちから、ひと雫の至福の涙がこぼれ落ちた。もう一つの深い呼吸、そして・・・・。

そこにはもがきや苦しみといった死の兆候は何もなかった。ただ次の呼吸が起こらなかっただけだ。

 

 

 

 

 

(報道写真家カルチェ・ブレッソン)は言ったーそして今、私には彼が興奮気味に語るのを聞くことができたー「外の道を急ぎ足で歩いていた。まさにそのとき、巨大な流れ星が輝く尾を引きながら、ゆっくりと空を横切っていくのを見た」と。

それは多くの人々によって遠くマドラスからさえも見られ、何かを象徴していることが感じられた。それは北東へアルナーチャラの頂上に向かって消えていった。

 

帰依者の中の幾人かは賛美の詩を歌い、他の者たちは沈黙のうちに座っていた。もっとも注目に値したのは嘆き悲しみではなく、その底辺に流れる静けさだった。彼ら男たちや女たちにとって、彼の恩寵は彼らの人生の意味そのものだったのである。すでにその最初の夜、そしてそれに続く日々の間に、

「私はどこにも行きはしない。私がどこに行けるというのか? 私はここにいる」

という彼の言葉がいかに重要なものだったかが明らかになっていった。

 

「ここ」という言葉はいかなる限定も意味しない。むしろ、それは行くことも変わることもない真我、普遍のそれを意味していたのだ。

帰依者たちは内なるバガヴァーンの臨在を感じ、ティルヴァンナーマライに聖なる臨在が息づいていることも感じたために、それを愛と心遣いに満ちた約束と見なしはじめたのである。

 

これからは、サマーディの上に置かれたシヴァ神の象徴である磨かれた黒御影石のリンガムが外側の象徴となり、そして帰依者のハートの中に刻まれた彼の御足が内なる象徴となったのである。

 

☆「ラマナ・マハルシの伝記 賢者の軌跡(アーサー・オズボーン著・福間巌訳・ナチュラルスピリット刊)」 第17章 マハーサマーディ より抜粋引用

 

 

 

 

彼はまさしく「肉体なきグル」となったのだ!!

 

 

 

ラマナは遺言的メッセージとして、 

「人は私がどこかに行ってしまうと言う。だが私が一体何処に行けると言うのだろう?・・・私はここにいる」 

という言葉を残されたし、実際の臨終にあたり・・・ 

 

「その瞬間明るい大きな青い光の魂がニルヴァーナ・ルームの上空に突如出現し(「誰かがカメラのフラッシュ(昔の強いマグネシウム発光)を焚いたのか?と思った」・・という証言があるそうだ)、それがアルナーチャラ山頂に向かってゆっくり流れていった・・」 

という有名なエピソードが残されている。 

 

もっとも実はこの現象それ自体はそれほど珍しいわけでもなく、天文学的に「火球現象(隕石の巨大なもの)」として説明出来るものではある(日蓮さんが辰の口で斬首されそうになった時に出現した光も同じ現象だとする説がある)。

 

☆参考映像・・・・2016年5月17日にアメリカのメーン州に落下した隕石の様子、おそらくラマナのマハー・ニルヴァーナの際に出現した際もこんな具合だったのだろうし、65年前のインドの田舎の夜であるだけに街灯も少なくて、遭遇した人たちにとってはもっと明るい輝きを感じられたのだろう。

 

 

 

 

しかしこの日この時この状況でそのような現象が生ずることに、畏れかしこみて霊的な意義を見出すか否か?

・・ということであろう。

以来信奉者たちにとっては、彼はまさしく「肉体なきグル」となったのだ!!

 

ラマナは「肉体という衣」脱ぎ捨てただけであり、今は「=アルナーチャラ」として現存されている!! 

・・という強烈な感覚・認識(それはある種の絶対感覚、「無条件の愛」とでもいうような圧倒的な眼差しの抱擁にハートを直撃された無限の喜び・無常の豊かさに満ち溢れた体験である)の下で「バクティ」という在り方を実践している・・といって過言ではない。

 

☆サイト管理人のブログ記事より抜粋再編集

 

 

 

 

私はここにいる

 

 

 

キリストの物語が十字架の上で終わらなかったように、物語には終わりがなかった。シュリー・バガヴァーンが地上にもたらしたものは、新しい宗教ではなかった。しかしそれはこの霊的暗黒の時代に、あらゆる国、あらゆる宗教から訪れる、理解と切望を胸にした者たちに新たな希望、新たな道を与えたのだった。

それは彼の身体が生きているあいだには終わらなかった。彼の死とともに、彼の導きも終わってしまうことを恐れた人に向かって彼は答えた。

 

「あなた方は身体を重要視しすぎるのだ」

 

いまでも彼は、いままでのように、誰であれ彼のもとへ来る者たちを導いている。そして誰であれ、彼に明け渡した者たちを守っている。真理を探究する者すべてにとって、彼はここにいるのだ。

 

☆「ラマナ・マハルシの伝記 賢者の軌跡(アーサー・オズボーン著・福間巌訳・ナチュラルスピリット刊)」 第18章 永遠の臨在 より抜粋引用

 

 

Part3「肉体なきグル」へ続く・・ 

 

 

 

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