OM NAMO BHAGAVATEE SRI RAMANAYA ARUNACHALA SHIVA

第1部「肉体なきグルの臨在と恩寵」

 

 

 

PART1 永遠のサットサンガ

 

 

 

 

バガヴァンが地上にもたらしたのは確かに、新しい宗教ではなく、世界各地でそれを求め、熱望する人々のための新しい希望であり道なのだ。

「人々は私が去っていくと言っている」と、バガヴァンは肉体を捨てる直前に語った。「私がどこへ行くというのだ。ここにいる。」

”いるだろう”ではなく、今の今”いる”のだ。バガヴァンは永遠なる「ここ」と「今」、人々のハートの中にいる。


 

☆「沈黙の聖者 ラマナ・マハルシーその生涯と教え(シュリ・ラマナシュラマム編著・柳田侃監訳・出帆新社刊)」第11章永遠なる存在  より抜粋引用

 

 


 

 

 


現在にあっても大いなる「サットサンガ」の聖域なのである。

 

 

はじめてラマナ・マハルシのアシュラム「シュリ・ラマナアシュラム」を訪れた人は、そのゲートをはいったとたんに、恐ろしいまでの霊気に身を震わせるでしょう。

緑に覆われ、きれいに掃き清められた前庭にはクジャクが静かに羽をひろげており、向こうにバガヴァンと母上の聖廟の白い屋根が浮かび上がり、背後に聖なるアルナーチャラが迫っている風景は、まさに絵に描いたような美しさです。バガヴァンが肉体を捨てられる直前の数日間を過ごされたニルヴァーナルームを右手に見て歩を進めると、左側にバガヴァンのサマーディのある大きなホール「サマーディホール」があり、両側の壁には、大きなバガヴァンの画像が何枚もかかっていて人々を圧倒します。サマーディの前で思わず額を床につけてプラーナムをしてしまいます。

 

私たちも含めてバガヴァン入滅後に初めてアシュラムを訪れた、いわば第2世代のラマナ信奉者にとって、「アルナーチャラ・ラマナ」(アルナーチャラとしてのラマナ)とはいったい何なのでしょうか?


バガヴァンは自分の弟子をつくることはしませんでした。あなたはだれか弟子をもっておられますか?という質問にたいして「私は正式に教えを授けることをしません。人は自分を私の弟子とか信者と呼ぶかもしれませんが、私は誰も私の弟子とは考えません」と答えています。


現在のラマナアシュラムには、他のアシュラムとは違ってバガヴァンの弟子である後継者がいないのはそのためです。いまもグルはバガヴァン・ラマナだけであり、指導は彼から直接に与えられるのです。ときたま、「ラマナアシュラムに行っても、誰も指導してくれない」とぼやく人がおられるようですが、その人はグルは外にいるものと誤認しているのです。

 

私たちのハートの中でアルナーチャラ・ラマナである真我が不滅の光を放ち、いまも私たちを導いているのです。

 

☆柳田文献 94年7月15日及び2000年5月15日記事より、サイト管理人による任意抜粋再編集


 

 

 

 


 

 

 

ラマナアシュラムの最大の特徴として、「教えの後継者」としての現存する指導者がいないということがある。


故にここでは「体系化された教え」及びそれを収得、及び他者に伝達するようなテクニカルなあれこれをカリキュラム的なプログラムとして受講する・・ということは出来ないし、

あるいは現存するグルのダルシャンを得てインタビューにて問答を試み、某かの「言葉による具体的なメッセージ」を頂く・・ということも出来ない。セミナーもレクチャーもワークショップも一切ないし(読書会はやってるが)、誰かが何かを「教えてくれる」ということもない。

 

普通なら偉大なる開祖が亡くなれば「組織防衛」の必要もあり、誰かが2代目・3代目・・・と「法統・法灯」なるものを継いで行く(大概は「後継者争いによる教団分裂」を伴いながら)。ところが現在にあってもラマナ・アシュラムには、生身の「後継の霊的指導者」は存在しないのだ。


それでは「アシュラム」と呼ばれるところの最大の要目である?「グルのダルシャン」についてはどうなるのか・・・・グルが不在であるならば、ここは単なる「歴史的遺物」として追想の感慨に耽るだけの場所であるのか?


否・否・三度否!!!・・・
ここは現在にあっても大いなる「サットサンガ」という営為が営まれている聖域なのである。

 

何故ならばラマナ入滅後65年が経過した現在であっても、ここにあっては「ラマナ・マハルシがサットグルである」ことに全く変わりがないからである。

(アシュラムのマネジメントはラマナの実弟の子孫たちによって継承されている・・現会長とゼネラルマネージャーは「ラマナ実弟の孫」にあたる方々で、引退されてはいるが世俗の身分であり「出家者」ではない。)


 

ラマナは1950年4月に入滅されているから、彼と「肉体的存在として交流する」ことはもはや不可能である・・・没後66年となる現在にあっては、もう殆どの人が「直接お会いした体験」を持たない状況である。


ではどうして「直接会ったこともない」ラマナが信奉者たちにとって「サットグル」である・・ということが可能なのだろうか?


それは 彼の臨在と恩寵、そしてその直接体験に触発された信奉者達の自発的バクティの営為によるのである。

 


ラマナは「身体という衣を脱ぎ去った」に過ぎず、「=アルナーチャラとして」現在もこのアシュラムのサットグルとして厳然と臨在され、恩寵を放ち続けている。

 

・・・ということが、彼を慕ってここに寄り集う信奉者たちには「自明の理」として感得されリアルに受容されているのだ。


☆サイト管理人のブログ記事より抜粋再編集

 

 

 

 

Part2 「マハー・ニルヴァーナ」へ続く・・ 

 

 

 

 

 

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