アルナーチャラへ行きたい。見て、触れて、あの空気に包まれたい。それだけのつもりでした。
旅の真の目的が、辿り着いた後に明かされることってあるんですね。
チェンナイ空港からのプリペイドタクシーは、街を抜け、湖と川を渡り、田園を駈けて駆けて、懐かしい風景の中へ。
10年ぶりのアルナーチャラ。10年ぶりのラマナアシラムです。
私は、まっすぐオフィスへ行き、2週間の滞在予定を確認して、キーを受け取りました。
今回のゲストハウスは、道の向こう側にできた新しい棟でした。車とバイクが増えすぎて、渡るのも一苦労。
ビックリしたのは、サマディーホールの大理石のラマナ像が、金色になっていたこと。これって、ラマナご自身の趣味に合っているのかしら??
インドでは、1994年に1杯1ルピーだった街角のコーヒーが、2018年現在30ルピー。金箔ラマナが、インドの経済発展と、満月の夜の巡礼ギリプラダクシナ大人気を物語っていることに、間違いはなさそうです。
翌日の夕拝のときに、アシラム在住のシュンニャさんを見かけ、声を掛けました。
「10年ぶりですね。10年前の12月のディーパムで、隣で泣いていたFです」。
少しの間の後、思い出してくださったシュンニャさん。
「今回も、泣いていたんですか」
その後、夕食開始まで30分。私は自分でも信じられない話を、するすると始めました。思い出すように。
「私って、人間としての前世がほとんど無いみたいです。アルナーチャラに集まるのは人間だけではありません。パワースポットって、霊、スピリットも集まる場所だから。私は、霊として住んでいたんです。」
わたし、何時からそんなこと、考えていたんだっけ?
そんな言葉が突然やってくるのって、チャネリング、霊の言葉を伝えているだけでは? と思う方がいるかもしれません。しかし、答えは実際に私自身の内に在ったように思います。
私の哲学のベースは、数学者の考える数学的世界に近い。近かったはずでした。だから、科学的に論証できない体験を語ることには、めちゃめちゃ抵抗がありました。本人が信じ難いと思っている話を、他人にできません。
それでも、正しい。全身の細胞が泡立って突き抜けるように、魂のすべてが、正しい!正しい!と叫んでいる。
そんな「真理」もまた真理ではありませんか。誰が何と言おうと。
私が、ラマナ・マハルシと岩山の夢を見て、まっすぐアルナーチャラを目指したのが1994年でした。
当時、ポール・ブラントンの「秘められたインド」は、書店に無く、山尾三省氏の「南インドの瞑想」が絶版中。ラマナの本を一冊も読まずに、それでも柳田先生の紹介状をなんとか入手。マドラス(現チェンナイ)からリキシャと長距離バスを乗り継いで、どうにかラマナアシラムへ辿り着くことができました。
ラマナが埋葬されたサマディーホールの、壁にもたれて座ったとたん、涙が溢れました。私のすべてを、正しいと言ってもらった気がして。
神様の祝福って、誰でも自分が特別って思わせてくれるものなのかと思ったっけ。
アシラムで午後のコーヒーを飲みながら、出会ったコリアンの方とこんなおしゃべり。
「Previous life? What?」私の英語はその程度。
その人は辞書の余白に、漢字で「前世」と書きました。
「あなたが、ラマナ・マハルシの本を読んでないのに夢を見て、真っ直ぐ来たのは、前世で弟子だったからでは?」
「まさか、前世なんて信じられない。Unblievable!」
「仏教徒なのに?」
私って頑固?
実は、超常現象を信じない修行者は、少なくありません。半数くらいは、神の奇跡を求める人の群れに、冷ややかな視線を送っています。残りの半数も、半信半疑でしょう。日本人も欧米人も、インド人も同じ。
中でも、ギャーナ・ヨガと禅の実践者は、徹底的なリアリストでニヒリスト、虚無主義です。現世の冨や快楽等々がすべて幻だと、自分自身で見極めなくちゃならないのだから。
ところが、帰国して、「秘められたインド」を開き、1ページ目から本を投げ出しそうになりました。
強烈なデジャヴ! 何これ? 自分がそこに居たみたいな…。
そしてこの文体。自分の体験の観察の仕方、取材の仕方、言葉の選び方、紡ぎ方。その本の中にあったのは、私のオリジナルの文章に極似していました。英語と日本語の違いを超えて。
これが、私が書いた本でないとしたら、性格、好み、能力が全く同じ他人が居るってこと?? もしかして、前世――?
非科学的といわれるスピリチュアルの世界にも、一応、「常識」らしいものがあります。
カルマは、その「常識」として、自分の行いは自分に返る公平なシステムである、と云われています。悪いことをしたら不幸な境遇に、善行を積めばよい境遇に。たくさん勉強したら、来世でその道の天才として転生するのだとか。
西洋哲学も、インド哲学も、勉強する必要を感じたことがない困った私。近所の宗教団体や大学の研究室に、片っ端から議論を吹っかけて負け知らずだったのは、大学一年の頃。文章も得意な方で、編集ライター。
私の前世が、哲学者で修行者でジャーナリストのポール・ブラントンというのは、ありそうに思えました。しかし、彼が亡くなったのが私の生まれた後と分かり、PB前世説は早々に却下。
Who am I ? 私は誰?というよりナニモノ?
前世が見える霊能者が居るらしいという噂を頼りに、観てもらったことがありました。
分かったのは、大昔、日本に住んでいたことがあるかも…大昔、インドでヨガの修行をしていたかも…、という程度。
私が欲しいのは、「こういう原因、因縁があって、現在の私があります」というストーリーでした。それが才能や祝福を表す良いカルマでも、不幸を物語る悪いカルマでも、知ってそれで納得できるような。
そもそも、アルナーチャラ、ラマナとの不思議な縁について分からなければ、私にとって無意味です。
別の方にも観てもらいました。
――ラマナの弟子でも、世話係でもなかった? 直近にインド人であったこともない? 哲学や文学を熱心に勉強したという過去世も無い?
カルマの法則は、スピリチュアルの世界では常識じゃなかったの? これは、どういうことなのでしょう。
私の思考は、そこでストップ。
ただ、アルナーチャラが、そしてラマナが懐かしくて愛しくてしょうがない。とてもとても近く感じる。
その思いの深さだけは真実でした。
そして、10年ぶり、4度目のアルナーチャラ。私は、サマディーホールに座り、祈りの歌を聴いていました。
10年、20年考えても分からない時には、ロジックではなく前提条件の方を変えてみること。
ヒントは、すでに様々な方法で啓示されていました。シヴァ神の夢。やって来る言葉。
ラマナは、よくあなたは既に悟っていると語っていました。私だけではなく。
古の聖典は、誰にでも本当は神としての本性、アートマンがあると説きます。私だけでなく。
神であることを知った人が神であると言ったのは、サイババさん。つまり、この手の教えは一般論。
―――もしかしてワタシ、ニヒリズムが邪魔をして思考停止している? 何度も何度も感じた特別の恩寵が、一般論でも願望でもなく、事実だとしたら――。
世界は、物質というマーヤーの幻ではなく、エネルギーで出来ています。エネルギー、そして愛。
今の私は、それらを自然に理解できます。エネルギーとはシャクティ、真我、魂と同じ。この世界に、肉体を持つ魂だけでなく、肉体を持たない魂もたくさん存在していること。パワースポットって、見る人が見れば神霊、スピリットだらけ。アルナーチャラも。
―――スピリット?
私がスピリット? 気が付いた途端、言葉と記憶が、自然にあふれてきました。スピリットとして、何百年もアルナーチャラ山に宿り続けて、修行者や信者を応援していた私自身の記憶。
アルナーチャラは、シヴァ神のハートと呼ばれていまが、実際には、シヴァ神おひとりでなく、高位のスピリットが複数で共存して宿る聖地です。
スピリットの世界には、区別や境目がほとんどありません。応援している修行者(ラマナもPBも)と知識や経験を共有し、共に学ぶのです。だから、私の知識は最新だったのです。
ああ、ラマナと共に過ごした日々の、何と楽しかったことでしょう!
Who am I? 正しい答え。
私はインドのこの地を愛し宿り、数百年、あるいは数千年、ほとんど肉体を持つことの無かった霊、スピリット。
カルマの法則による鎖を、最初から持たない存在。
それは、現実とファンタジー、哲学と夢の間のあいまいな論理がきっちりと繋がって、真理が現れた瞬間でした。
帰って来たね。やっと思い出したね。
ずっとずっと、待っていたよ。
甘くささやく声。
世界はうたかたの幻、リーラ、神様の遊び。
遊びたがりの子供のような性格で、高等な哲学をさくさく語る。そんな私のギャップは、数限りない誤解と混乱の元となってきたけれど。
私の自己認識は、「私って何かの精神病?」から始まったんだっけ。
さて、どうしたものやら。
雨が降る日が増えました。季節は10月。タミルではもうじき雨期なのです。
傘が無い私はずぶぬれ。
昔々、ラマナが、アルナーチャラに到着したときにも、雨が降ったと記録に残されています。
ラマナが剃髪してアルナーチャラシュワレ寺院に入る、沐浴すべきその瞬間に降ったと。
私もアルナーチャラの沐浴が終わったみたいです。
降る雨に濡れて、愛を感じるのって、ステキ過ぎ。
サマディーホールでは、毎日、朝の6時から様々な祈りと歌が捧げられています。
夕方6時から7時には、一般信者が南インド様式の、男女掛け合いの歌が歌われます。
ラマナ作詞、またはラマナ監修の歌。タミル語やテルグ語の詞は難しいけれど、私も一緒に歌わせて頂きました。
誘ってくださったシュンニャさんに感謝。
帰る日の朝、一晩中降っていた雨で、街もお山もしっかり濡れていました。
私は、誘われて素足で山道に分け入りました。
水を吸った岩々を踏みしめると、脈打つエネルギーが感じられる気がしました。
私は心の中で抱きしめました。愛しいアルナーチャラを。
これからは、離れてもずっと一緒です。