歎異抄の後序に『ひとえに親鸞一人が為なりけり』って言葉があるけど、バガヴァンからの恩寵を感じるたびにこの言葉を思い出します。
写真、映像、言葉などなど・・それを残しておいてくれたのはひとえに私のため、
・・・そう思えるのです。
コロナであれやこれやの情報に右往左往していたときには、
『静かにしていなさい。あとは私に任せなさい』と語りかけてきてくださった。
最近心身ともに雑然として集中して座れずにいて、今朝になって南直哉さんの談話を聴いてたら、
『長く座ろうとしなくていい、5分でもいいから毎日座る習慣をつけよ』
と言ってらして、「そうか、時間もない中で欲張って長く座ろう」・・と思うからダメなんだ、時間がないならないで、短時間でもいいから座るようにすれば良いんだ。
15分なら毎日座れる、続けられる・・今日からミルクオファーリングを目安に座ろうと思い定めてバガヴァンのお写真を前に座っていたら、
「ああ、南さんの声を通じてバガヴァンが導いてくださったんだ・・」
という考えが浮かんで来て、
ああ、ありがたい。
自分はこんなにバガヴァンに気にかけていただいてる、バガヴァンはいつも自分を見ていてくださる、些細な悩みさえ、ちゃんと道を示してくださる。
うろ覚えですが、釈徹宗さんの話で、
「他力とは『阿弥陀仏にお任せします』では足りなくて、阿弥陀仏のほうから『任せろ』と言ってくるようじゃないと(そう感じられる、考えられるほどの信心)ダメだ。」
と、そういうふうなことを言ってらして、
バガヴァンはそこまでの信心(明け渡し)がない自分に、『私に任せなさい』と言ってくださったんだよなぁ・・と思ったりする。
今朝座ってて頭に浮かんだ言葉
「私とは誰か?」→真我である。「真我とは何か?」→私である。
まあ言葉だけで実感もないし、当然悟ったわけではないですが、
「何か心(ハート?)に、針の穴みたいに小さな穴が開いた」気がした・・のです。
この穴を広げるか、もしくはその穴に入れれば、何か見つかる・・のでしょうか?
最近は
「私は行為者ではない」
というのがキーワードかも?
相変わらずテンパり、短気、悪態・愚痴吐きまくりで精神的成長は全くなってない私ですが、
こんな愚かで救い難い私であろうとも
アルナーチャラは鎮座ましましているし、バガヴァンは見守っていてくださるし、迷った時は進む道を示してくださるのだ!!
・・というその確信。
「任せろ」「任せます」・・というその安心・安堵。
土台がしっかりしてきたというか、自分のなかに『揺るぎない何か』が出来た・出来つつある・・・。
そんな気がしています