「自力でやる」ことの意義・・・それは「未知への巡礼の旅」への出発である!
確かに「個人手配の旅」というのはあれこれの懸案事項を一つづつ解決していく作業と抱き合わせであり、時にそれが大変煩わしかったりします。
とりわけサイト管理人のようなバックパッカースタイルだとそれに輪をかけて「不都合・不具合」を堪え忍ばざるを得ない?ことも多々あるわけで、何度も繰り返すうちに慣れてきて「面白く」なったりもしますが「面倒臭い」作業であることは事実です。
もちろん人によっては(特に若い世代ならば)、そんなに苦労することもなく「楽々軽々と」アルナーチャラへ出かけられることでしょう・・・「臨在」サイトは日本人訪問者の中では「それなりに有名?」ではあるようですが、実際に現地で出会う人たちの中には「へえ・・・そんなサイトがあるんですか?」という人たちも少なくありません。
・・・・・しかしそういう人たちは、今この画面をわざわざ見る必要もないわけです(笑)
サイト管理人も含めて、ある程度人生を渡ってきた「中高年」世代というのはどうしても「生活態度が守りに入っている」傾向が強いですね。
やはり「今更不得手な領域に手を出して苦労したくない」という心情が強いのはいたしかたないことです。
そういう意味では面倒な手配・手続きは全部まとめて面倒みてくれる「巡礼ツアー」に参加して、滞在期間は短くともその本義である「ヴィチャーラ」に専心する・・ことが出来れば大変望ましい形なのではありましょうが、現状では残念ながら「楽してお任せでアルナーチャラへ行く機会」は極めて乏しいわけで、
それでもどうにかして「アルナーチャラへ行きたい!!!」という気持ちが強いのならば、個人手配で行くしかありません。
しかしながら数々の事務処理事項を自分の手で一つ一つクリアして、ついにアルナーチャラの地に辿り着いたときの感動は筆舌に尽くし難い比類無きものがあります。
あるいは「アルナーチャラへ行きたい!!」という想いは視点を変えれば、「アルナーチャラからの召命」なのだ・・・ということなのかもしれません。
であるのならばその召命に応えるために、自力で一つ一つの懸案事項を頭をひねってふうふう言いながらクリアしていく・・という作業自体がすでに
「未知への巡礼の旅」なのであり、「アルナーチャラへ行くのだ!!」という強い意志を確認していく営為でもあり、それもまた「バクティ」である・・のかもしれないのです。
(ラマナですら?マドゥライを出てアルナーチャラに到着するまでの道のりは決して平坦なものではなかったわけですしね・・・)
そういう意味で『代行』ではなく、「サポート」をする・・というのが、サイト管理人のコンサルタント業務の趣旨なのです。
そしておそらくは「個人手配旅行」に当たっての最大の心配点は、
「治安」及び「衛生」状況に対する不安・・・ではないでしょうか?
平和で飛び抜けて「安全な国」である日本社会にあって、とりわけ人生の半分を生きてきた中高年世代ですと、「インド」という国に対する虚実入り交じって形成され、強大な堅固さを獲得した妄想的イメージが先行してしまう・・・のも無理もないことでしょう。
これまで様々な機会にサイト管理人へ寄せられた質問の中でも、
「治安は大丈夫でしょうか?」・「病気は大丈夫でしょうか?」・「水は大丈夫でしょうか?」などなどの類はやはり多いわけですが、これについてもっとも適切な回答は・・・
「あなたの意志と運命次第です」
しかありようがない・・・のです(笑)。
そしてもっとも肝心なことは「アルナーチャラを巡礼する旅」である以上、多かれ少なかれそれは、
「エゴを差し出す・明け渡す」行為なのだ・・ということの自覚が必要であると思います。
「巡礼」の旅は決して「物見遊山」ではありません。その1点を自覚しておく必要があって然るべきではないか?・・と感じる次第です。
そういう意味合いにあっては、
「治安は大丈夫でしょうか?」「病気は大丈夫でしょうか?」「水は大丈夫でしょうか?」などなど、
・・・これらは厳しい見方をすれば、「エゴが発する質問」です。
自分の生活様式についての「安全保証」をがっちり確保したその上で、それに「付け加え」て、アルナーチャラを訪れアシュラムに滞在してサーダナを実習するという「自己を拡張するための新たなる体験(を一つ増やすだけに過ぎない)」・・を求めてはいないだろうか?
まずはこの点をしっかりと徹見する必要があるのではないでしょうか?
ラマナご自身が直接お書きになった「アルナーチャラへの5つの賛歌」の中の代表作「アルナーチャラ・アクシャラ・マナ・マーライ(邦訳名:『文字の結婚花輪』)」はアシュラムのテーマソング的な存在でもありますが、
この歌の第1節はよく知られているように、
「ハートの中で汝を瞑想するもののエゴを根こそぎにする、おお、アルナーチャラよ!!」
であるわけで、何事かの(スピリチュアルな)体験を「新たに付け加える・獲得する」ことを期待するのではなく、むしろここへは何事かを・何事かへの期待を「捨て去る」為に来る・・・ことにこそ意味がある旅だったりするのです。
もっとも捨て去った後に、「新たなる地平」が恩寵としてもたらされる!!・・・ことももちろんあるのですが、
かといってそれを期待して・その手段として何事かを「捨て去る」のは、結局「獲得のための・・」というエゴの引力圏に結局は収束されてしまうのではありませんか?
繰り返しますが、「生活様式」が既に固まっている中高年世代にあっては、このような「巡礼の旅」というものは、ある意味「ギャンブル」でもあります。
しかしこのギャンブルは「神様の方に全額」賭けなくては無意味です。