クレンペラー評 「Per aspera ad astra(汚泥から星の高みへ)」 喜多尾道冬






長い間忘れていたクレンペラーの指揮がふっと思い浮かんできた。そこで埃まみれになっていたオリジナルLPの「運命」を引っ張り出して久し振りに針を通した。クレンペラーに抱いていた厳しさ、堅苦しさのイメージは消えないものの、それは崇高さに変容し、これまでに感じたことのない神秘感が身を包みはじめた。LPを裏返して第三楽章に移るとき、興奮のあまりか手がふるえていたのを思い出す。最後の音が消えた後もずっと音楽が鳴り続けているような厳粛な思いにとらわれ、しばらくその場から動くことができなかった。

(略)

クレンペラーには未知の深い衝撃があった。これまでのいかなる指揮者にもない独自の美学があり、逆説的ながら「沈黙」を聴きとらせる演奏になっているように感じた。

沈黙があってはじめてわたしたちは音を認識できる。死があってはじめて生を認識できるように。おなじことは光と影、昼と夜、此岸と彼岸、合理と神秘にも当てはまる。


もしかしたらここにほんとうの音楽があるのではないか。西洋の近代音楽の音符は思想や感情表現の手だてになっているが、それを超え、音に沈黙という神秘の世界を見出す指揮者がいることに気づかされたのである。

他のたいていの指揮者は音を鳴らしているあいだが勝負、音を最大限効果的に鳴らすことに腐心する。音の流れを表情豊かに整えたり、目立つフレージングに光を当てたり、華麗なクライマックスを築いたり、ドラマの効果を盛り上げる工夫を凝らすことに全力をつくす。だが、そうすると音は表現のための合理的な手段に堕し、ひとつひとつの音がもつほんらいの存在感が失われかねない。

クレンペラーは、どんな音も、移行句で小さな役割しか与えられていない音であれ、低弦のピチカートであれ、木管の微少なフレーズであれ、厳として存在する掛け替えのない存在としてひびかせ、ドラマ構築の部品におとしめることはない。彼の演奏はすべての音を対等に扱い、優劣の差をつけていない。そしてどの音も沈黙とペアになっている。

クレンペラーは、光は影、昼は夜の裏付けがあってこそ真のトータルな意味をもつと啓示してくる。その姿勢は十九世紀的な自由や解放の理念を超え、人間そのものに内在するほんらいの尊厳を思い出させる。

この世に存在するすべてのものは、目立つと目立たないにかかわらずおなじ尊厳を持つ。自然のなかのどんな小さな砂粒にも尊厳が宿る。クレンペラーはその存在への目配りを失わない。それはとりもなおさず大声でヒューマニズムを唱えるものだけでなく、沈黙している名もなきものにも当てはまる。彼の演奏に接すると卑小な自分にも光が当てられ、この世に生きる意味と価値に気づかされる。


クレンペラーの演奏は貝殻に耳を当て永遠の宇宙にひそむ沈黙のひびきを聴きとろうとする謙虚さにある。人間の尊厳はほんらい謙虚さと裏腹になっている。それはひとつひとつの音にも当てはまる。クレンペラーが「音」から引き出してくるのはその感覚だ。わたしたちはだれも森羅万象の一部としてほんらい神秘的な存在であり、自分を超えた大きな世界とつながっている。彼の奏でる音はわたしたち人間がその沈黙の神秘と深くつながっているのを合図してくる。夜空の無数の星々は暗闇のなかで大きな連携をなしてまたたいている。それと同じようにわたしたちも大きな自然の連関のうちに生かされている。



そのクレンペラーはだから、どれほどの高潔さと叡智に貫かれている人格者と思いきや、評伝や対話集などに目を通すと唖然とする人物像が浮かんでくる。こらえ性のない女好きで始終物議をかもしたり、あたりかまわず毒舌をまき散らしたり、そのたびに彼の秘書役を務めていた娘のロッテは尻拭いできりきり舞いしなければならなかったという。

歳をとってよぼよぼになっても女癖の悪さは収まることなく、セクシーな女性を見ると見境なく声をかけたり、気に入った女性の住居にむりやり押し入ろうとしたりして警察沙汰になるのはまれでなかった。アムステルダムでは貴賓席にいかがわしい女たちをはべらせて顰蹙を買ったこともある。そんな例を挙げてゆけばきりがない。

我が国では言行一致が尊ばれ、偉大な業績を成すものは人格もそれにふさわしいと思われがちだ。欧米では業績と人格を分けて見る習慣があり、彼も顰蹙を買いながら大目に見てもらえた方だが、それにしてもクレンペラーの不行跡は群を抜いていて、業績と実際の行動とのギャップはいかにも大きすぎる。

わたしの独断と偏見によれば、音と沈黙に相関関係があるように、彼の人柄も高潔さと破廉恥さの対比から成っていると思われてならない。音と沈黙は対立しながらもひとつの大きな全体をなしている。人間も高潔さと人間臭さをそなえてこそトータルとなる。


クレンペラーはこのトータルを意識して使い分けたわけではなかろうが、本能的に現実とは正反対の自分を音楽の中に投影しようとしたのではなかったか。破廉恥であればあるほど気高さへの希求は増す。そこにヒューマンなメカニズムがおのすと働いている。


彼の演奏に耳を傾けていると浮かんでくるのは、「Per aspera ad astra(汚泥から星の高みへ)」というラテン語の格言である。わたしたちは自分の卑小さに苦しみながらも人間ほんらいの尊厳に思いを致し、星の高みを目指すべき存在なのだ。そんな思いを励ましてくるのがクレンペラーの演奏だと思われてはならない。